第二十話 川中島での遭遇戦

武田信玄の長男・義信よしのぶは、ある作戦を提案した。


上杉軍が占拠している善光寺ぜんこうじを奪還すること。

ここの兵站へいたん拠点を潰せば、上杉軍の補給を断つことができる。

敵を妻女山さいじょざんから追い払い、千曲川ちくまがわ水運すいうんと街道の陸運りくうんを再開させて民の生活を元に戻すのだ。


ただし。

この作戦には大きな危険が伴っていた。

攻める瞬間を待っている上杉謙信が、武田軍が善光寺を攻め始めた瞬間に疾風怒涛しっぷうどとうごとく襲い掛かって来るからである。


善光寺は、ある程度の防御が施された要害でもあった。

その攻略に手間取っている間に……

背後から謙信の致命的な一撃を食らう可能性は非常に高い。

謙信が指揮する上杉軍は、普通の軍とは『早さ』がまるで違うのだから。


その対策を考えた義信はこう言う。

「数刻[数時間のこと]の間だけ、上杉軍を釘付けにしておくのです」

と。


 ◇


これには父も驚いた。


「何っ!?

どうやって?」


「まずは……

我ら武田軍を、本隊の8千人と別動隊の1万2千人に分けます」


「軍を二手に分けると?」

「はい。

1万2千人の別動隊は、『堂々』と山伝いに妻女山へと進み……

一方の8千人の本隊は、『隠密おんみつ』に善光寺へと向かいます」


「それは……

別働隊をおとりにした『陽動ようどう作戦』か」


「『武田軍は妻女山を攻めるつもりだ』

上杉軍に、こう思い込ませるのです」


「なるほど」

「1万2千人もの敵部隊の接近を見た上杉軍は、迎撃の備えを固めるでしょう。

しばらくは妻女山に釘付けにできるかと」


「その間に、8千人の本隊で善光寺に奇襲を仕掛けるのだな?」

「幸い明日の9月9日……

この一帯は、未明から深い霧に覆われます。

奇襲の成功は間違いなしと存じます」


「作戦としては良いが、『兵法』の基本を間違えているぞ」

「……」


「我が武田軍は2万人いて、上杉軍1万3千人を兵数で上回っている。

軍を二手に分けるということは……

自ら数の優位を捨てるも同然の愚かな行為ではないか」


「『しゅうに敵せず[少数は多数に勝てないという意味]』……」

「うむ。

常に相手より兵数で上回ることを心掛け、各個撃破にて勝利する。

兵法の基本であろう。


「……」

義信は沈黙してしまった。


 ◇


「信玄様」


思わぬところから、助け舟がやって来る。

山本勘助やまもとかんすけである。


「どうした?」

「兵法としては『邪道じゃどう』ですが……

ここはあえて、義信様のご提案通りになされては如何いかがでしょう?」


「勘助よ。

そちはいくさ玄人くろうとではないか。

なぜ、兵法の基本を間違えることを勧める?」


「同じ兵法に、このような言葉があるからです。

『兵は詭道きどうなり』

と」


いくさとは……

敵をいかに利用し、あやつり、だまし、あざむくかが肝心ということだな?」


「その通りです。

謙信は無類むるい戦上手いくさじょうず

『敵を知り、おのれを知れば百戦ひゃくせんあやうからず』

この言葉の通り……

我ら武田軍のことを徹底的に調べたことでしょう。

当然ながら、信玄様のことも徹底的に調べたはずです」


「わしが兵法に詳しいことを、謙信もよく知っていると?」

御意ぎょい

兵法に詳しい信玄様が、兵法の基本を間違えることなど有り得ません。

だからこそ……


「なるほど。

弟よ。

そなたは、どう思う?」


信玄は信繁のぶしげに尋ねる。

迷ったときには必ず弟に相談するのが、兄の習慣であった。


「兄上。

いくさに危険[リスク]は付き物かと。

それよりも、『優先順位』を間違えてはなりません」


「どんな危険を犯してでも……

上杉軍を妻女山さいじょざんから追い払い、民の生活を元に戻すことだな?」


「その通りです」

こうして作戦は決まった。


 ◇


軍議の後。


信繁の元を、おいの義信が訪れている。

「義信殿。

いかがなされた?」


叔父おじ上。

それがしの提案に賛同して頂き、有り難く存じます」


「その御礼のためにわざわざ?」

「それと。

軍議の後に、ふと『不安』に駆られまして……」


「どんな不安に駆られたと?

遠慮なく申されよ」


「謙信は……

まことに、妻女山さいじょざんで攻める瞬間を待っているのでしょうか?」


「ん?

それはどういう意味ぞ?」


「上杉軍のいる妻女山と、上杉軍の兵站へいたん拠点がある善光寺ぜんこうじの間には……

ある程度の『距離』があります」


「うむ」

「その間は、我ら武田家の領地です。

上杉軍は今までずっと……

敵の領地の中を、敵の監視の目をくぐって補給していたことになります」


「……」

「監視の目を掻い潜りながら、『十分』な補給を続けることなどできましょうや?」


「わしも同じことを考えたことがある。

『上杉軍は、補給がとどこおっているのではないか?』

とな。

調べてみると、実際は違ったようだ。

妻女山では毎晩のようにうたげを開いているらしい。

補給が十分である証拠よ」


「叔父上。

謙信が、そう『見せかけ』ていたとしたら?」


「何っ!?

見せかけている、だと?」


「謙信は無類むるい戦上手いくさじょうず

補給が十分であるような『芝居』をすることなど、造作もないことでは?」


「義信殿。

つまり謙信は……

退?」


「謙信は、堂々たる振る舞いを好むと聞いたことがあります。

明日の深い霧を利用すれば……

安全かつ堂々と撤退することができます」


「もし謙信が深い霧に紛れて撤退するようなことがあれば……

善光寺を攻める我ら武田軍本隊は、撤退する上杉軍と途中の『川中島で遭遇そうぐう』してしまうではないか!」


「その通りです。

我ら8千人に対し敵は1万3千人。


「……」

「叔父上。

この作戦を見合わせるよう、父上に申し上げた方がよろしいのでは?」


信繁はしばらく考え、答えた。

「そなたの懸念も一理はあるが……

いくさに危険は付き物なのだ。

それよりも、優先順位を間違えてはならん」


「承知致しました。

ところで……

叔父上のお顔が優れないようですが?」


「少し調子が悪いだけよ。

心配には及ばん」


「ならば良いのですが……」

「義信殿。

そなたは、素直で優しい心を持っている。

決してそれを無くしてはならんぞ。

今の武田家に必要なのは、そなたのような者なのだ」


「おめ頂きありがとうございます。

では」


義信を見送ってから、信繁は一人こうつぶやいた。

「何ということだ!

わしはなぜ、謙信が我らをあざむいている可能性を『見落とした』?

わしはなぜ、作戦を見合わせようとするおいを『止めた』?

わしは……

?」

と。


 ◇


9月9日未明。


川中島かわなかじま[現在の長野市]には、深い霧が掛かっていた。

武田信玄と上杉謙信の両者は……

偶然にも、この深い霧を利用して動くことになる。


退退

戦国屈指の英雄でもある両者は、しくも全く『同じ』目的で動いたのだ!


定説通りに……

信玄の率いる武田軍本隊8千人は八幡原はちまんばらへと向かい、高坂昌信こうさかまさのぶらの率いる武田軍別動隊1万2千人は山伝いに上杉軍1万3千人のこもる妻女山へと向かった。


この武田軍別動隊は、妻女山を攻めると見せかけるための陽動部隊だ。

武田たけだびしの旗を堂々とかかげて進軍した。

対上杉家の最前線にいる高坂昌信や、新入りの外様とざまである真田幸隆さなだゆきたかなど、先鋒せんぽうを務めるのが『常識』な武将を何人も配置して上杉軍の目をあざむこうとしている。


妻女山が近付くにつれ、陽動部隊を率いた昌信まさのぶは……

漠然とした違和感を覚えるようになった。

優れた武人だけが持つ、武将としての『本能』なのだろうか。


一緒にいる幸隆ゆきたかに話し掛けた。

「幸隆殿。

?」


「同感です。

上杉軍の旗はいつもと変わらずひるがえっており、篝火かがりびかれていますが……

何かがおかしい。

一度、妻女山を攻めれば分かるかと」


「おお!

知略ちりゃくけたそなたも感じるならば、間違いはあるまい。

我ら別動隊は妻女山の注意を引くだけで、攻めてはならないと『命令』されてはいるが……」


「それよりも、この違和感の正体をすぐにつかむ必要があるかと」

「幸隆殿。

それがしと一緒に妻女山を攻めてもらえるだろうか?」


「ご一緒しましょう。

それがしのような新入りを、友として扱ってくださる昌信殿の申し出とあっては……

断れませんからな」


まことに有り難い。

直ちに、妻女山を攻めることと致そう」


「掛かれぇっ!」

高坂隊と真田隊は、無数の上杉うえすぎざさの旗がひるがえる頂上へ向かって駆け上がって行った。



【次話予告 第二十一話 無秩序な乱戦の果て】

武田軍本隊8千人と上杉軍1万3千人が戦闘を開始します。

たちまち敵味方が入り混じった『無秩序な乱戦』となり……

とても戦闘などと言えない、意味のない殺し合いが始まったのです!

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