第弐話 雌伏の時
「兄上は『利用』されたのです!
武田家にも、兄上にも、忠誠を尽くす気など微塵もありませんぞ!」
「……」
「父上は、確かに暴君でござった。
されど……
国の平和を達成した名将であることは、紛れもない事実です」
「……」
「違いますか?」
「よくぞ申してくれた。
父上の追放計画を聞いたときから、わしには違和感があった」
「ならば、なぜ?」
「
実力のないわしを『認めて』くれた」
「他人から認めてもらうことは、人なら誰もが持つ『欲求』です。
まんまと
「弟よ。
このままでは、わしは
どうすればいい?」
「兄上。
隣国の今川家と北条家までもが、父上の追放を望んだ理由をお分かりですか?」
「ん……
そなたは分かるのか?」
「この国が一つになっては『困る』からです」
「何っ!?」
「今川家の治める
北条家の治める
「海に面した港があれば……
大きな船を使い、一度に『大量』のモノを流すことができよう」
「はい。
大量のモノを流すことができれば、ますます商売は盛んになり、国は『豊か』になります。
一方で……
大量のモノを流すことができない国は『貧しい』ままです」
「つまり。
今川と北条の両家は、貧しい甲斐国からの『侵略』を恐れていると?」
「
親戚同士でもある両家が密かに手を組み、この甲斐国の弱体化を図るだけでなく、
何の不思議がありましょうや」
「わしは、奴らの手の平で踊らされていたというのかっ!」
「『人』というものは……
己の保身のためなら、どんなことだってできる生き物なのです」
「
◇
一呼吸を置いて……
弟は、兄に重大な質問をする。
「兄上。
この
「
「『純粋』に、この国を守りたいとお思いですか?」
「うむ。
わしの純粋さは、そなたが一番よく分かっているはず」
「……」
「弟よ。
我らは、血を分けた兄弟ではないか。
一緒にこの国を救ってくれ!
頼む!」
「そこまで
もう一つお尋ねます。
国を守るためなら、どんなことでも実行する『
「覚悟?」
「そうです。
いくら兄上とはいえ……
覚悟が出来ていない者に、それがしは力を貸すことなどできません」
「分かった。
どんなことでもすると約束しよう。
何なら誓いを立てても良いぞ?
それで、わしに何を実行せよと?」
「この国を一つにするため……
兄上には、『絶対的な権力者[独裁者のこと]』を目指して頂きます」
「絶対的な権力者?」
「恐らく。
それを阻もうとする大勢の者の血が流れることになるでしょう。
絶対的な権力者を目指す限り、粛清の嵐は避けられません」
「……」
「これで、今川と北条の両家と『同盟』を結ぶことすら可能となります」
「何っ!?
あの両家が、同盟を結んでくれると?」
「国を一つにした絶対的な権力者は……
敵であれば
「そういうことか!
さすがは我が弟よ。
父が、わしを差し置いて後継者にしたいと望んだ気持ちがよく分かる。
見事な戦略眼ぞ……」
◇
弟の実力に改めて感心した兄であったが、一つ気になることがあるようだ。
「これはもしや……
わしに、父上のようになれと申しているのか?」
「父上は、絶対的な権力者になろうとしていました。
だからこそ
「し、しかし!
その政策は、
わしがその政策を実行しようとすれば……
今度は、わしが追放されるぞ?
追放どころか毒を盛られるかもしれん」
「父上は切に願っておられました。
『民が安心して暮らせるよう、この国の平和を守り続けたい』
と」
「……」
「それがしは、純粋に国を憂う父上を尊敬していたのです」
「純粋、か。
わしには父上の血が流れているのだな」
「兄上は、父上によく似ておられます。
純粋であるがゆえに、ひたすら真っ直ぐに進んでしまう。
『不器用』なのでしょう」
「わしとは逆に、そなたは『器用』であったのう。
だから父上はそなたを
それを見る度、わしは劣等感に押しひしがれ、そなたを激しく
「そのような心の隙間に
結果として兄上を
「わしは何と愚かなことを!」
◇
「兄上。
不器用であるがゆえに……
父上は、『手順』を間違えたのだと思っています」
「手順?」
「家臣集住政策を実行されれば、
「奴らは結束して潰しにかかるだろうな」
「家臣集住政策のような強引な手段を……
圧倒的な実力を持つ『前』に実行すれば、おのずとそうなるでしょう」
「そうか、そういうことか!
奴らが結束しても太刀打ちできないほどの圧倒的な実力を持った後に実行すれば良いと?」
「
◇
弟は、兄に一つの策を授けた。
「今は忍耐強くあることです。
『
「雌伏の時?
実力を磨きながら機会を待てと?」
「そうです。
父上がいない今……
彼らを敵に回すのは得策ではありません」
「くっ!
ならば、何の実力を磨けば良い?」
「『民』の支持を集めることです」
「民の支持!?」
「兄上。
民は、国衆や家臣よりもはるかに大勢いることをお忘れでは?」
「確かにそうじゃ」
「民を味方に付ければ、『数』で圧倒的な優位に立てます。
だからこそ……
「なるほど!
この雌伏の時を、民の支持を得るための『時間』と考えれば良いのか!」
「御意。
「分かった」
「まずは……
相当な労力が伴いますが、この国の『全て』を知ると良いでしょう」
「す、全て?」
「この国の全てを知らずして、この国の『本質』を見抜くことができますか?」
「……」
「この国の本質を見抜ければ……
民の支持を得る方法も、おのずと分かってくるはず」
「なるほど。
全て、そなたの助言に従おうぞ」
◇
晴信はその後……
毎日のように、
国の歴史、地形、気候など、国中を片っ端から調査して回った。
土地の有力者を訪ねては、地域に昔から伝わる話を聞いて回った。
それでも残念なことに……
聞いた話のほとんどは『無価値』であったらしい。
デマであったり、事実でも伝言ゲームのように人を
晴信は毎晩のように側近たちと打ち合わせし、無価値な情報を『整理』して、ごく一部の価値ある情報を『整頓』していく。
情報収集よりも整理整頓の方に労力を費やされた。
これは現代も同じなのかもしれない。
ろくに調べず、偏った視点で発信する人間のせいで、整理整頓に必要な労力は増すばかりなのだから。
◇
相当な労力を伴って導き出された、甲斐国の本質。
簡潔に言うと以下の通りである。
四方を山に囲まれ、海に面した港がない。
モノがほとんど流れていないためか……
『商人』にとって魅力のない土地と化していた。
それでも、2つの大きな可能性を秘めている。
『鉱山』と『農業』である。
ある山では、砂金を収集する者たちが大勢いた。
金の
ただし……
金の鉱脈に当たる確率は専門家でも10回に1回くらいだという。
何ヶ所も掘らねば当たらない。
莫大なお金がかかるため、誰かに『投資』してもらう必要がある。
残念ながら、商人からまるで相手にされていない国だ。
鉱山という可能性はあっても生かす機会がない。
それは農業においても同様であった。
甲府盆地という平らな土地は、農業の大きな可能性を秘めていたが……
ある現実が、その可能性を潰していた。
『洪水』という自然災害である。
【次話予告 第参話 信玄堤】
甲斐国の民はもう諦めていました。
現実から目を逸らし、こんな的外れなことを言っていたのです。
「自然は神である」
と。
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