拳法乙女とチャラ道士

猫屋ちゃき

第1話

 朝の澄んだ空気が流れ込んでくる道場の中に、何かがぶつかり合うが響いていた。

 ぶつかり合っているのは、拳と拳だ。だが、打ち合うというより、ひとりが一方的に打たれている。

「脇が甘い! それと、わたしの拳が届くより先に打ってきて! はい、次!」

 向かい合っていたのは、少女と大柄な男。

 少女は軽々と男を投げ飛ばすと、次の者と対峙した。

 順番待ちをしている男たちと次々と拳を打ち合い、次々と投げ飛ばしていく。どの男たちも気合いを込めて少女に向かっていくが、拳も、蹴りも、すべて防がれてしまう。

 投げ飛ばされる頃には男たちは息を切らしているのに、少女は髪一本乱れていない。白く透き通った肌を、わずかに薄紅色に染めているだけだ。

 気の強さがうかがえる猫のように大きな目、花びらを思わせる赤い唇、やや低いが形の良い鼻、卵型の小さな顎を持つ輪郭――少女を形作るすべてのものが調和がとれて、人形じみた美しさを持っている。そして少女はその美しさを自覚しており、強さと相まって自信としてにじみ出ていた。

「まだまだいけるわよ」

 後ろで一本に結ったつややかな黒髪を揺らし、少女は構え直した。

 〝かかってきなさい〟と身振りで示すも、まだ呼吸も整わない男たちは困った顔で首を振った。

「ユナ、そのへんにしておいてやりなさい。朝飯の前じゃて。みんなそんなに力が出んさ」

 まだまだ身体を動かし足りない少女・ユナをたしなめたのは、小さな老人だ。老人は穏やかな笑みを浮かべ、唐突に手に持っていた杖をユナへ突き出した。

「力が出ないって言ったって、こんなのじゃわたし、修行にならないもの」

 杖をひらりとかわしてユナは言う。老人も顔色ひとつ変えず、まるで舞のように軽やかな動きで杖で突きを繰り出した。

 ユナは上半身の動きだけでそれを避けていたが、そのうち飽きたのか片足で飛び上がって宙返りして、杖の先に乗ってしまった。

 そのお転婆な動きに、男たちは感嘆の息をもらし、老人は溜め息をついた。

「ユナ、お前はそんなんじゃ嫁の貰い手がつかんぞ。十六にもなってそんなに利かん気が強くてはな」

「いいもーんだ。わたし、自分より強い人とでなきゃ結婚なんてしたくないし。今、この町にわたしより強い人がいる? いないでしょ? つまり、嫁の貰い手がないんじゃなくて、わたしをお嫁にもらえる人がいないのよ」

「そんなことばっかり言っとらんと、朝飯を買ってきておくれ」

「はーい、ジジ様」

 ジジ様の小言もひらりとかわし、ユナは道場から駆け出ていった。

 白い短袍を着たユナがそうして朝の日差しの下を駆けていくのは、まるで自由な小鳥のようだ。町の人たちにとっては、見慣れたいつもの光景となっている。

 まだ日が昇りきらないうちは静かな町も、道場が朝の修行を終える頃には少しずつ活気づく。魚を売る声が聞こえるし、いくつかの店から仕込みを始めたいい匂いが漂ってくる。

 そのうちの一軒へ駆けていき、ユナは表から声をかけた。

「ヤンさーん」

「ああ、おはよう。ユナ先生、いつものかい?」

「はい、いつもので」

 早くから働く人の多いこの町では、朝食は外でとることが当たり前になっているのだ。だから、ユナ行きつけのこのヤンさんの店にも、どんぶり片手に並ぶ人がたくさんいる。その列の一番後ろに並んで、ユナはわくわくと待った。

「おはよう、ユナちゃん。今日もお弟子たちをみんな伸したあとかい?」

「ええ。ジジ様以外、みんな疲れて伸びちゃったわ」

 前に並んでいるおじさんに尋ねられ、ユナは笑顔で答える。朝の稽古でユナが門下生たちをこてんぱんにしてしまうことは、町の人ならみんな知っているのだ。

「やっぱり今日もユナちゃんが一番か。強くて美人で、ユナちゃんみたいな子がお嫁に来てくれたらいいんだけどね」

「おじさんのところの坊はまだおちびさんじゃない。それにわたし、うんと強い人と結婚したいの」

「まあ、ユナちゃんがそう言うのは無理ないな。父ちゃんみたいなのは御免だもんな」

 訳知り顔で頷いて、おじさんは自分が注文した分を受け取って去っていった。ユナも自分の番が来て、小窓からどんぶりを受け取ろうと手を伸ばす。

「はい。今日も強いユナ先生とおジジ様に肉団子おまけしといたよ」

「ありがと」

 普通のものより大きめのどんぶりを受け取って、ユナはもと来た道を引き返す。

 幼いときからこうして朝食を買いに行くのは、ユナの役目だった。今は都で武官をしている兄のゼツがいた頃は、兄と一緒に。

 熱々の汁が入ったどんぶりを持って運ぶのは、地味に大変なのだ。熱くて手のひらが痛くなるし、どんぶりを揺らすと汁をこぼしてしまう。

 痛みに耐え、なるべくこぼさず運ぶのが実は修行で、毎朝鍛えられ続けてきたというわけだ。

 今のユナは、汁が並々のどんぶりを両手に走ったとしてもこぼさない。行き交う人々を巧みに避けながら、すいすいと進んでいく。

「……何だろう」

 半分ほど来た道を折り返した頃、何となく胸騒ぎを覚えてユナは山のほうを見た。

 感じ取ったのは風の匂いが変わったという、ほんの些細な変化だ。だが、ざわざわと皮膚の表面が粟立つような違和感が、確実に近づいてきているのを感じていた。

 ユナたちの暮らす町は小高い山の麓にあり、山へは入らないが山裾の竹林は生活を支えているし、子どもたちの遊び場になっている。

 何か気配が、その竹林を揺らしながら近づいてきているのをユナは感じ取った。

「……何、あれ」

 よく目を凝らしてみると、山裾に向かって異様なものがすごい勢いで下ってきているのが見えた。

 どす黒い、煤とも埃ともつかないものを撒き散らしながら、その禍々しいものは下へ下へと移動してきている。そしてそれが進んでいった場所には、子どもたちの遊び場があるのにユナは気がついた。

「まずい!」

 胸騒ぎに衝き動かされて、ユナは走り出した。

 向かうのは、竹林の拓けた場所。町からさほど離れておらず、適度に隠れたその場所は、こっそりしたい子どもたちの恰好の秘密基地になっている。

 もし子どもがいるとしてもこんな朝早くなら、誰も気が付かないだろう。自分が行ってやらなければと思って、ユナは走った。

「いた!」

 竹林の拓けた場所には、やはり数人の子どもがいるのが見えた。そしてそれに迫るように、禍々しいものが走ってきているのも。

「あんたたち、逃げなさい!」  

「ぼくたち、山菜を採ってただけで……」

「ここにいたことを咎めようってわけじゃないの! 危ないから、逃げなさい!」

 まだ十歳に満たないほどの、男女の子どもが数人。どうやら大人に怒られると思ったらしく、手にしたものを後ろ手に隠した。

 まだ事態を把握できていなかったらしい。ユナが指差す背後を見て、ようやくその顔に怯えが浮かぶ。

「ば、化物……!」

「これはわたしが引きつける! 道場へ行って、助けを呼んできて! ジジ様に話せば、万事よくしてくれるわ!」

 怯えで子どもたちの足がすくむ前に、ユナは彼らの背中を叩いた。兄貴分の男の子が走り出すと、小さな子たちもそれに続いた。

「……来なさい」

 迫りくるものに、ユナは戦う構えをとった。

 これからユナは、子どもたちが村まで走れるように時間を稼がなくてはならない。

 ようやく、視界に禍々しいものをとらえた。巨大な、熊のような四足の獣だ。だが、それは熊ではない。筋肉を隆々とさせた、熊よりさらに大きな化物のような姿をしている。

 その化物が、時折飛沫のように黒い液体を体表から噴き出しながら、ユナに近づいてくる。

 ここで倒さなければ、この化物は町へ行くのだ。それだけは防がなければと覚悟を決めて、ユナは飛び上がった。

「ハァッ!」

 軸足で思いきり飛び上がり、そのままの勢いで蹴りを繰り出した。デカブツ相手に長期戦は望めない。ジリジリ削ろうだなんて思ってはいけないから、一撃で仕留めるつもりで化物の脳天に蹴りを叩き込んだ。

 だが、化物はほんのわずかによろけただけで、びくともしなかった。人間ならば、確実に脳が揺れて倒れただろう衝撃を与えたのに。

 尊敬するジジ様や母や兄は、かつて熊やイノシシを倒したことがあると言っていた。それを聞いていつか自分もできるはず、などと思っていたことを今になって恥じた。

 戦うなら今だ。倒さなければいけない敵は目の前にいる。

 それなのに、自分が勝てる展望を思い浮かべられなくて、ユナは足がすくんだ。

「そこのお嬢さーん! 俺たちが来たから、もう安心さ」

 ユナが動けずにいたところに唐突にそんな声が響き、目の前に何者かが降り立った。

 それは、亜麻色の髪を朝の太陽に輝かせる長身の男。長い裾がはためく黒の道袍を着ていることから、その男が道士であることはわかる。

 だが、道を修めた道士様と見るには、その男はあまりに軽薄だった。それに、肩に黒髪を高い位置でふたつのお団子にした小さな女の子を乗せている。

「……誰?」

「俺はファンファン! 通りすがりの、かっこいい道士様さ!」

「あたしはメイメイ。兄さんのお手伝いをしてる」

 目の前に現れた妙な二人は、どうやら兄弟らしい。

 兄ファンファンが構えを取ると、妹メイメイは懐から札を取り出した。

 二人とも片膝を曲げ腰を落とし、両手を天に掲げる奇妙な姿勢をとった。おそらく、格好つけているのだろう。

 助けどころかとんでもないものが現れたと思って、その瞬間ユナの心には絶望が広がった。

「……ふざけてるのなら、さっさと逃げたほうがいいよ。そんな姿勢で勝てる相手じゃないから」

 化物が動きを止めている間にかたをつけなければと、ユナは再び構えた。

 化物はギチギチと出鱈目に眼球を動かしている。その焦点の合わない目に捕らえられてしまう前にと、攻撃する隙をうかがう。

「ふざけてるのはお嬢さんのほうでしょ。朝食を両手に持ってやることじゃない。現に、俺たちが札で動きを止めてるからこの状況だってこと、わかってないでしょ?」

「え……」

 ファンファンに指摘され化物を見ると、確かに腰のあたりに呪符のようなものが貼り付いていた。自分の蹴りで動きを止めていたのではないとわかって、恥ずかしさと悔しさにユナは顔を歪めた。

「さあ、わかったのなら早めに逃げてね。誰かを庇いながら戦うのなんて、慣れてないからさ」

「逃げない。足手まといにはならないから、気にしないで戦って。わたしはわたしでやるから」

 小さなメイメイの言葉に傷ついて、ユナの心に俄然火がついた。

 こんなほっそりした男と少女にやれて、自分にやれないわけがない――そんなふうに思うし、何よりそのへんのお嬢さん扱いされるのも癪だった。

(この化物は、わたしが倒す)

 決意を込めて、もう一度足を振り上げた。

 狙うは、耳の後ろだ。熊やイノシシなんかの大型の獣は頭蓋骨が分厚いから、衝撃を与えるには骨がなるべく薄いところを狙うしかない。

「ハアァッ」

 軸足で思いきり回転して、もう一方の足をこめかみ辺りに叩き込んだ。

「ギィッ」

 一回、二回、三回。回し蹴りが連続できまって、化物がうめき声を上げてよろめいた。だが、痛みを感じるよりも怒りが湧くほうが強かったらしい。ユナにやり返そうと捕縛を振り切るため、ギチギチと体を軋ませながら四肢を動かした。

「縛!」

 化物を再び縛るため、背後に回り込んだファンファンの肩上からメイメイが呪符を放った。呪符は風を切って飛んでいき、化物の背中に貼り付いた。

「立て!」

 ファンファンが見えない何かを引っ張るような仕草をすると、化物がもがくように後ろ足で立った。

「胸に攻撃を! 心臓を止めるしかないのよ!」

 メイメイが叫ぶ。自分への指示だとわかって、ユナは距離をとって蹴りを構えた。

 四足の相手と戦った経験はないため、こうして後ろ足で立ち上がったのは有り難い。対人間のときと同じ戦い方ができる。

 立ち上がった化物は、人間よりもはるかに大きい。だが、怯んでいれば自分がやられてしまうとわかるから、ユナは気合いを込めて蹴りを繰り出した。

「……嘘でしょ」

 連続で繰り出す蹴りは、確実に心臓の辺りに入っていた。だが、分厚い筋肉と毛皮に阻まれて届いている感触はなかった。

 それに、ユナがこれまで修行を重ねてきたといっても、殺生のための技は教えられていない。よって、これから何度蹴りを加えても、絶命させられる確証はなかった。

「蹴りじゃだめだ! 指先を使って! 気の流れを見て、歪んだ、淀んだ場所を突くんだ!」

 暴れる化物を捕縛しておくのには限りがあるのか、次の呪符を用意しながらファンファンが言う。ユナとは違い、余裕がありそうだ。試されているような気がして、ユナは目を凝らした。

(ジジ様が言ってた。強くあることは、正しくあること。人間の内側の流れ、血と気の流れを整えれば、正しくあれるから強くなれる。目の前の化物は、歪だ。どこからその歪みが始まってるのか、そこがわかれば……)

 捕縛を引きちぎろうと、化物は前足をばたつかせていた。その鋭い爪が、ユナをかすめる。

 精神の集中を必要とする今それが邪魔で、ユナは目を閉じて朝食のどんぶりを放ってから、気配だけでそれを避けた。

(目を閉じたら、見えない。でも、そのぶんだけ感じるものがある。化物は、普通の生き物じゃない。何か、不自然な力で動かされてる。その力の源、歪の中心は……ここだ!)

 ユナは禍々しい気の淀みを見つけ、そこめがけて手を突き出した。拳ではなく、指先を刃物のように意識して、突き立てるように化物の皮膚を打つ。

 すると、あれだけ硬いと思っていた化物の毛皮に、肉に、ユナの手はズブリと入り込んだ。

「あ……」

「あぶない!」

 ユナがまずいと思うのと、ファンファンが飛び出してきてユナの身体を押したのは、ほぼ同時だった。

 ユナが指先を突き立てた場所から、勢いよく黒い液体が噴き出した。泥のようなそれを撒き散らしながら、化物は絶命して地面に倒れていった。

 ファンファンが突き飛ばしてくれたから、ユナは化物の体から噴き出したものをかぶらずに済んだ。

 だが、わずかではあるものの飛沫を肌に浴びてしまった。

「……う、あっつ……!」

 飛沫がかかった場所が、まるで火傷を負ったかのように熱を持った。痛がるユナを見て、ファンファンがあわてたように顔色を変えた。

「まずい! 呪いを受けたのか」

「え? 呪い?」

「急いで処置する」

 言うや否や、ファンファンは懐から取り出した手巾でユナの汚れを拭き取った。口の端から首筋にかけて。丁寧に拭き取ったかと思うと、今度はユナに口づけた。

「んんっ!?」

 突然のことにわけがわからなくて、ユナは目を白黒させた。貞操の危機だとわかって、拳でファンファンの胸を叩く。

 だが、細い身体に見せかけて、意外に頑丈らしい。どれだけ叩いてもびくともせず、ユナはファンファンに唇を貪られた。

「何するのよ!」

「処置だ。そのままにすると、大変なことになる。死にたくないのなら、おとなしくして」

 唇を解放されキッと睨むも、真剣な顔でたしなめられ、ユナはおとなしくするしかなかった。暴れるのをやめると、ファンファンはユナの首筋に唇を押し当てた。

「……いっ」

 ファンファンはただ唇を押し当てるだけでなく、そこを鋭く吸い上げた。痛みが走るが、代わりに火傷のような熱さは収まった気がする。

 しかし、ユナの心はひどく傷つけられていた。

「よし。これで応急処置はでき……」

「許さないわ!」

 身体が離れたその瞬間に、ユナはファンファンの頬を強かに引っ叩いた。

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