4.奴隷商、逃げられる
「――ぶわっ」
突然、頭から冷たい水をかけられてヘイロンは目覚める。
彼を叩き起こしたのは見知らぬ男だった。
筋骨隆々、腕っ節が強そうな彼はヘイロンが目覚めた事を知ると倒れている彼に向かって何かを投げつけた。
頭に当たった硬い何かは、パンだった。男は食料を投げて寄越したのだ。
いきなりの事に未だ状況を掴めずにいたヘイロンは、わけが分からないながらも「良い奴じゃん」と思った。
「あ、ありがとう」
「ちゃんと水も飲んでおけ。死なれちゃ困るんでな」
皮の水袋を投げると、男はそれだけを言い残してヘイロンの前から消えた。
彼が出て行った扉の覗き窓から外に目を向けてみると、何やら景色が動いて見える。どうやらヘイロンが居るこの場所は何かの乗り物の中みたいだ。
ふと薄闇の中、狭い室内を見渡すと部屋の隅にはやせ細った子供が何人か見えた。彼らは一様に生気のない顔をしている。少し前のヘイロンと同じ顔だ。
何か死にたくなるような嫌な事でもあったのかと思っていると、自分の手元に鉄の輪っかが嵌められているのが見えた。
「これって……」
壁に背を預けながら、もしゃりと貰ったパンに噛み付く。硬くて味がしないそれを咀嚼しながらヘイロンは自分の置かれている状況に見当を付けた。
「勇者から一転、奴隷落ちかぁ……」
さして緊張感もなく呟いたヘイロンは、水袋に口を付けてごくごくと飲み干す。
腹もこなれてきたところで、ヘイロンはどうするべきか思案する。
空腹で倒れていた所を、奴隷商に見つかり商品にされたとみるべきだ。死にそうなところを助けてもらったのは有り難いが……だからといって支配に屈するのとはまた別の問題。
逃げだすか、留まるか。手中にあるのはこの二択だ。
仮に留まるとして、メリットは王国の追っ手から逃れられる。食いっぱぐれない。特に後者は無一文のヘイロンにとって大事なことである。
ボロボロだった服も、臭いはきついがまともなものに着替えられているし現状酷い目に遭ってはいない。つまりここから逃げる必要性を感じない。
唯一の欠点をあげるとしたら自由を得られないことだ。
今のヘイロンに必要なものは、じっくりと腰を落ち着けられる平穏な場所。誰に何を言われることもなく、自由に生きられる場所。
それを何よりも欲しているヘイロンにしてみれば、奴隷身分なぞ正反対の境遇なのだ。
それを考えるならば……やはりこの場に留まることなど出来ない。
「逃げるか」
とはいえ、助けてもらった恩はある。
奴隷商どもの命は取らないであげよう。それ以外は、身ぐるみから全て奪ってやるけれど。
にやりと笑みを浮かべたヘイロンは、手枷の鎖を鳴らして立ち上がった。
===
部屋の隅にいた子供たちは不意に立ち上がったヘイロンを不思議そうに眺めた。
それに人差し指を立てて、口元に持って行く。静かに、とジェスチャーすると、ヘイロンは拳をもって出口の扉を何度か叩いた。
「ちっ、なんだようるせえな」
扉を開けて中に入ってきたのは先ほどヘイロンに食料を与えた男だった。
何を言うでもなく彼を見つめていると、男はヘイロンの意図を察したかのように溜息交じりに告げる。
「飯ならもうやらねえぞ。大人しくして――るォ」
目を離そうとした男に、ヘイロンはすぐさま行動に移った。
両手を上に上げると、手枷の鎖を男の首へと回す。そして一気に引っ張ると、太い首に絡みついた鎖はどんどん首へと食い込んでいく。
慌ててもがき苦しむ男が白目を剥いて我武者羅にヘイロンへと掴みかかろうとする前に、片足を男の膝裏に回して引くと巨体は床へと倒れた。
そこで間髪入れずに何発か顔面へと拳を振るうと、男は呆気なく意識を飛ばす。
「やれやれ、少し手間取ったな」
立ち上がったヘイロンは手枷の鎖をいとも簡単に引きちぎった。
油断を誘う為に放っていたが、このくらいの強度の鎖ならば朝飯前である。
男を足蹴にすると、ヘイロンは自由になった両手を使って外に出る。
ぎぃ、と扉を軋ませて薄暗い室内から出る――その瞬間、ヘイロンの足首を何かが掴んだ。
「うん?」
目を向けると、そこには小さな手がある。
開けたドアから差し込む光が、ヘイロンを引き留めた者の姿を浮かび上がらせた。
ヘイロンの髪色、灰銀とは真逆――薄い金糸のような髪色が陽の光に照らされて煌めいている。そして、それを際立たせるような空色の瞳。
まだ五歳ほどの子供だった。
「なに?」
掴まれた足を振ってヘイロンはその幼女に聞く。けれどどれだけ振りほどこうとしても、彼女は手を離さないし質問にも答えない。
「……もしかして、一緒に行きたいとか?」
もしやと思い聞いてみると、彼女はそこでやっと小さく頷いた。
やっと見えた反応にヘイロンは口元に笑みを浮かべる。
「無一文だし、行く当てもないけど、それでもいいなら着いて来てもいいよ」
ヘイロンの誘い文句に、幼女は今一度頷いた。それを確認して、ヘイロンは彼女を抱きかかえると走り続ける馬車の荷台から飛び降りたのだった。
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