四 : 思いと思い(6)-二人きりで
天王寺砦に入った信長は、余人を遠ざけて金瘡医の治療を受けた。光秀は側で控え、処置が行われる様子を静かに見守る。
幸いなことに、脚の傷は浅く、消毒した上で患部を包帯で巻くだけで済んだ。
「ご苦労だったな。下がってよいぞ」
信長が促すと、金瘡医は一礼すると黙って下がっていった。
これで、この部屋には信長と光秀の二人きりとなった。
「……上様。一つ、お訊ねしてもよろしいでしょうか?」
寝台に腰掛ける信長は何も言わず、
光秀は唾をゴクリと飲み込んでから、意を決したように訊ねた。
「……何故、危険を冒してまで、我等をお助けになったのですか?」
助けてもらった身ではあるが、光秀はどうしても確かめたかった。
天王寺砦は石山本願寺を囲む出城みたいなもので、戦略的に重要な拠点でもなく、砦の造りも突貫工事の急拵えで堅牢とは言い難い。また、砦を守る兵は三千程度に対して本願寺勢は一万五千と、五倍の差がついていた。城攻めは守り手の三倍の兵で挑むのが鉄則とされ、普通に考えれば天王寺砦が陥落するのは必定だった。
一方、信長が率いた兵も砦に籠もる兵と同程度の三千。本願寺方は天王寺砦をグルリと囲んでいるので動かせる兵は実数より少なくなるが、それでも半分の兵を押さえに割いても信長率いる本軍の二倍を超える人数で迎え撃てる。明らかに分が悪く、救援に赴くなら手勢がもう少し多くなるまで待つべきだった。
飛ぶ鳥を落とす勢いにある織田家だが、それは
本願寺方の砦攻めが手緩く、織田方の攻撃を想定していなかった場面での奇襲が
直政だけでなく重臣の光秀を見殺しにした場合、大切な家臣を二人も救えなかったことに世間は
日頃から自らの身の安全を第一に考えていた上様が、どうしてこんな
光秀の問いに、信長は暫く反応を示さなかった。しかし、フーっと長い息を吐くと、寝台にゴロリと横になった。
「……決まっておろう。お主は天下布武を成す為に、欠かせない存在だからだ」
信長は右手を天井に向かって上げる。何かを掴もうと、懸命に腕を伸ばす。
「天下布武の道はまだ半ば。行く手を阻む者もまだまだ現れよう。俺一人の力では日ノ本を一つにまとめ上げられるとは思わない。だからこそ……才ある者の力が必要だ」
ただ一点を見つめ、淡々と語る信長。光秀はただただ黙って話を聞く姿勢を崩さない。
「猿は学が無いが知恵がある。権六は戦で将兵の力を引き出すのが上手い。彦右衛門は機が熟すまで辛抱強く待てて、ここぞと言う時に仕掛けられる度胸がある。五郎左は影が薄いが万事そつなくこなせる。そして――」
そこで一度言葉を区切ると、信長は光秀の目を見つめて言った。
「……十兵衛。お主は、調整に長け、どんな難事も実現に向け努力する。他に替えが利かない大切な家臣だ。これは五郎左にも言えるが、お主は猿や権六のようにもっと自信を持ってもいいのだぞ」
そこまで言うと、信長はフーっと息を吐いた。
一方、光秀は主君からの望外な評価に驚き、感動していた。弥平次も先日口にしていたが、主君・信長は人遣いが荒くて与えられる役目も難しい事が多く、それでいて速さと目に見える成果を求めてくる。でも、血縁や家柄は関係なく能力のある者を積極的に登用し、
気苦労は絶えず、心が折れそうになった事も一度や二度ではない。けれど……今の言葉を聞けて、これからもこの方に仕えていきたいと、心の底から思えた。
「……少し、疲れた。寝る。四半刻経ったら起こしてくれ」
そう告げると信長は光秀に背を向けた。程なくして、静かな寝息が聞こえてきた。
早朝から勝てるかどうか分からない戦に身を投じ、気力体力共に相当費やしたに違いない。信長は家臣達以上によく働く。少しくらい休んでも罰は当たらない。
光秀は眠る信長に深く一礼すると、起こさないよう静かに立ち上がろうとして……軽く
(……いかん、いかん。まだこれからという時に)
気が緩んだかと自らを戒める光秀。最悪の事態は回避したが、まだ終わった訳ではない。
これからもこの御方の為に頑張ろう。決意新たに光秀は静かに下がっていった。
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