一 : 絡み合う思惑(2)-重要なお願い

 天正四年、二月。大坂・石山本願寺。

 石山本願寺は浄土真宗の総本山だが、現代社会における“寺”の姿とは全く異なる。敷地の周りに空堀や土塁が築かれ、塀や柵、逆茂木さかもぎが設えられ、幾つもやぐらが建てられるなど、“寺”というより“城”と呼んだ方が正しい程の堅牢な造りとなっていた。

 元々、本願寺は京に近い山科にあったが、天文八年(一五三九年)八月に日蓮宗の一揆衆を中心とした軍勢の焼き討ちに遭い、現在の大坂・石山に移転した。こうした経緯があった為、武家勢力や他宗派勢力の襲撃に備えて要害堅牢な城塞となった。当時の寺社勢力は自前の僧兵だけでなく熱烈な信者も加わって戦国大名にも劣らないだけの武力を持っており、宗派間で合戦が起きる事もあった。

 浄土真宗の教えが民衆に広く浸透したのは、八世蓮如れんにょの時代。教祖・親鸞しんらんの教えを簡単に分かりやすくまとめた『御文おふみ』を制作・配布。さらに、人々が浄土真宗の教えを聴ける場を設けるなどした結果、農民層を中心に爆発的に拡大した。石山本願寺を警護するのは武装化した僧兵だけでなく、自ら志願して参加した農民や町人も多く含まれているのが浄土真宗独特の傾向だった。

 応仁の乱以降、重い負担に苦しんでいた農民達が団結して統治者である大名に戦を仕掛ける一向一揆が浄土真宗の門徒が多い畿内・北陸・東海の各地で起きていた。特に、加賀の一向一揆は守護大名富樫氏を滅ぼし、その後約九十年に渡って武家の支配を受けない“百姓の持ちたる国”として続いていくこととなった。

 石山本願寺・阿弥陀あみだ堂。阿弥陀如来にょらい像に向かって一心不乱に念仏を唱える、一人の僧侶。頭部は綺麗に剃り上げられ、黒色の袈裟けさを身に纏っていた。

「法主様、お連れしました」

 案内の者が来訪を告げると、僧侶は念仏を唱えるのを止め、体の向きを反転させる。穏やかな表情で来訪者の方に顔を向ける。

 その男は、寺の者とは明らかに違った出で立ちをしていた。

 肩に布で巻かれた細長い棒状の物を担ぎ、反対の肩には小さな袋を数珠じゅず繋ぎにした物を袈裟懸けに掛け、丸めた頭に手拭いを巻いていた。がっちりとした体格に案内の者より頭一つ大きい長身、そして何より特徴的なのは、鋭い眼光。この人に睨まれれば多くの人が射竦められることだろう。

 部屋に入った男は僧侶と対面する形で座る。担いでいた棒状の物も静かに体のすぐ近くに置いた。

「本日は、お忙しい中御呼び立てして申し訳ありません」

「いえ……」

 僧侶が丁寧な口調で来訪の謝意を表すと、男はやや恐縮した風に軽く頭を下げる。

「ところで、そちらの品は?」

 僧侶が男の持ってきた物を手で示すと、男は巻いていた布を解いて中身を見せる。

 その正体が明らかになった瞬間、控えていた者達の間に緊張が走った。

 布で隠されていた物、それは――! 当然の事ながら、この場に到底似つかわしくない代物である。

 二人の間に割って入るか、それとも人を呼ぶべきか。どう対処すべきか逡巡しゅんじゅんする面々とは対照的に、僧侶は鷹揚おうような態度で言った。

「大事ありません。座りなさい」

 穏やかな声で促され、気色ばんだ控えの者達も渋々の体で座り直す。一方、男の方は我関せずとばかりに平然と言い放った。

「火種が無ければコイツはただの筒さ。もっとも、ただの筒でも人を殴り殺すくらいなら出来るが」

 阿弥陀如来像を前にしながら物騒な事を悪びれることなく言う男。周囲の者達がヒヤヒヤする物言いにも僧侶は穏やかな表情を崩さない。

「本来なら誰かに預けるのが筋だが……コイツはオレの大切な相棒だからな。他の奴に渡して細工でもされようもんなら一大事だ。たかが道具かも知れんが、オレはコイツに命を預けているんだ」

「……とすると、終始肌身離さず持ち歩いているのですか?」

「左様、寝る時も抱えて眠ります。いつ何時、コイツを使う機会が訪れるか分かりませんので」

「流石は孫一殿。その心構え、素晴らしいです」

 僧侶からの称賛の言葉に、孫一と呼ばれた男は謙遜するように頭を少しだけ下げた。

 鈴木“孫一”重秀。通称“雑賀さいか孫一”。雑賀衆七人の一人で、雑賀党の有力家系鈴木氏の棟梁である。

 雑賀衆は紀伊国雑賀荘を中心とした周辺五つの地域の地侍や土豪で構成された集団で、同じ紀伊の根来寺周辺を拠点とする根来衆と共に優秀な鉄砲の撃ち手を擁する傭兵集団として名を馳せていた。天文十二年(一五四三年)八月に鉄砲が種子島に伝来して以来、各地の戦国大名もその強力な武器を取り入れつつあったが、鉄砲に特化した専門集団は雑賀衆・根来衆の他に居なかった。

 優れた鉄砲の撃ち手を抱える雑賀衆の中でも、孫一は飛び抜けた存在だった。孫一個人も雑賀衆で一番の撃ち手だったが、同時に味方を勝利に導く優れた指揮官でもあった。敵との駆け引きや兵を投入する呼吸だけでなく、鉄砲を活用した新たな戦術を生み出すなど、采配の面でも才能を発揮していた。その才を求めて全国の大名家から仕官しないかと引き抜きの話も多くあったが、何れも断っていた。

 孫一に関する史料が乏しいこともあり詳しい年齢は不明だが、弘治三年(一五五七年)頃に起きたとされる名草郡の戦いでは既に有力者として活躍していたことから、この時三十代と思われる。

「……して、本日の用向きは何でしょうか? 顕如けんにょ上人しょうにん

 孫一が訊ねると、顕如はニコリと笑った。

 顕如上人。諱は“光佐”。浄土真宗本願寺派第十一世宗主、分かりやすく言えば浄土真宗の中で最も偉い人物だ。天文十二年の生まれで、この時三十三歳。因みに、浄土真宗では妻帯が許されており、如春尼という妻が居る。

 顕如は控えの者に目配せすると、それを受けた控えの者は障子を閉めて静かに下がっていった。その動きに、孫一は今日呼ばれたのは只事ではないと察した。

 柔和な顔つきでニコニコと笑みを浮かべていたが、やがて居住まいを正すと口を開いた。

「実は、孫一殿に折り入ってお願いしたき儀がございます」

「……何でしょうか?」

 話の展開が読めず、警戒する孫一。思い当たる節は色々あり過ぎて絞り切れない。

 紀伊国十ヶ郷を地盤とする土豪に過ぎない孫一が、わざわざ遠く離れた摂津国大坂まで出向いたのは理由がある。

 石山本願寺はその周辺地域を実効支配しており、武装した僧兵や志願兵として馳せ参じた門徒を多数抱え、戦国大名と同等の影響力を持つ一大勢力として独立していた。石山本願寺の門前町から上がってくる運上金や各地から送られてくるお布施や寄進料などの収入もあり、財力面でも自立していけるだけの余裕があった。

 その石山本願寺は今、存亡の危機に直面していた。

 十一年に渡り続いた応仁の乱で足利将軍家の影響力は大きく衰え、それに付随するように管領家も力を失っていった。地方では下剋上の嵐が大きく吹き荒れたが、畿内では小競り合いや権力争いはあったが大きな争乱も無く、旧来の寺社勢力や将軍家を支える細川家や畠山家などが各々支配していた。

 風向きが変わったのは、永禄八年(一五六五年)。松永久秀と三好三人衆の軍勢が二条御所を襲撃、十三代将軍・足利義輝を殺害したのだ。形骸化したとは言え現職の将軍が殺されるという衝撃的な事態から、比較的落ち着いていた畿内でも変化の兆しが表れ始めた。

 そこに現れたのが、織田信長だった。

 永禄十一年(一五六八年)七月、信長は越前の朝倉家に寄寓していた義輝の弟・義昭を引き受け、九月には義昭を将軍に就かせるという大義名分を掲げて総勢五万の大軍で京を目指した。圧倒的兵力を擁する織田勢を前に松永久秀は戦わず降伏、三好三人衆は本国阿波へ逃走した。これにより、畿内一円はたった二ヶ月の間に織田家がほぼ掌握することに成功した。同年十月には義昭が朝廷から将軍宣下を受けて正式に十五代将軍に就任、信長は義昭の庇護者として権力を振るうようになる。

 新たな権力者となった信長の登場で、早くも本願寺に影響が現れる。永禄十一年十月、信長は本願寺に対して矢銭五千貫を要求してきた。本願寺の内部では反発の声も上がったが、顕如は支払いに応じた。

 その後、信長と義昭の関係が冷え込むと、本願寺に義昭から信長討伐の為に挙兵を促す手紙が送られてくるようになった。本願寺内部でも先日の矢銭要求や日々伸張していく信長への警戒感から義昭の動きに賛同する意見も出たが、顕如は中立を保った。

 そして――元亀元年九月十二日、遂に事態は動いた。

 摂津に進出してきた三好三人衆を撃退すべく出陣した信長率いる織田勢は、三好三人衆勢が籠もる野田・福島の両城を包囲。周辺の城や砦を攻略するなど終始織田勢優位で戦は進んだが……十二日、ここまで中立を保っていた本願寺の兵が突如織田勢に襲い掛かった!! さらに翌十三日には織田方が淀川をき止めている為に築いていた防堤を本願寺の兵が崩した事で、流入してきた大量の水に呑まれて織田方に多数の死傷者を出した。さらに十六日には近江で浅井・朝倉の連合軍が琵琶湖西岸沿いを南下、京を目指す動きを見せた。京が脅かされる状況に、信長は撤退を決断。本願寺の参戦で全てをひっくり返された逆転敗戦となった。四方を敵に囲まれ絶体絶命の危機に瀕した信長だったが、朝廷に働きかけて停戦の勅書ちょくしょを出してもらい、本願寺もこれに応じて一旦は矛を収めた。

 一方で、織田信長と敵対する意思を鮮明にした顕如は全国の門徒達にげき文を発して、反信長の兵を挙げるよう促した。この呼び掛けに応じる形で伊勢長島を始めとした各地で一揆が織田勢を襲うようになる。特に伊勢長島では信長の弟・信興のぶおきが自害に追い込まれるなど、本願寺と共に反織田包囲網の一翼を担っていくこととなる。

 だが、反信長の旗振り役だった足利義昭が元亀四年(一五七三年)七月十八日に京から追放されると、潮目が変わる。防戦一方だった信長が反撃に転じた。天正(七月二十八日に改元)元年八月二十日に越前朝倉家が、九月一日には北近江浅井家が滅亡。一方で、朝倉家滅亡後の越前を統治していた前波吉継の失政に不平不満を爆発した一向一揆が蜂起し、織田方を一掃。これにより越前は一時的に“百姓の持ちたる国”となった。

 一向一揆に手を焼いていた信長も、黙っていない。翌天正二年(一五七四年)七月に大動員令を発して伊勢長島を完全封鎖、兵糧攻めで苦しめた後に根切ねきりとした。越前でも本願寺が派遣した坊官達が重税を課したために民衆が反発して支配層に対する一揆が起きるなど、内部分裂の様相を呈していた。その混乱を逃さず信長は天正三年(一五七五年)八月に越前へ出陣、瞬く間に越前の一揆を鎮圧させた。さらに、余勢に駆って加賀南部に侵攻、加賀の一向一揆にも影を落とすこととなった。

 畿内周辺の反織田勢力が次々と姿を消し、各地の一揆勢力も各個撃破されていくが、本願寺は依然健在であった。本願寺には大勢の軍勢が居たのもあるが、足利義昭を庇護する毛利家が織田家と敵対する意思を明らかにし、強力な水軍で海から物資を搬入して本願寺を後方支援する動きを見せたのも大きかった。

 元亀元年に開戦してから六年、織田方と本願寺の直接戦闘は最初の一度だけ。以降は本願寺が挙兵、両者にらみ合い、和議を結ぶ……ということを繰り返していた。

 孫一を始めとする雑賀衆は顕如の檄文に応じる形で本願寺に入った。雑賀衆の中には浄土真宗を信仰する門徒も多く、地理的にそれ程離れてないこともあり本願寺との繋がりが昔から強かった。鉄砲に特化した雑賀衆の存在は本願寺にとって大きく、孫一は客将の身ながら顕如から絶大な信頼を得ていた。

 本願寺の総大将である顕如から突然の呼び出しを受けたと思えば、折り入って頼みがあるという……孫一は顕如の真意を図りかねていた。

「孫一殿は信長と対面したことがあると伺いました。事実でしょうか?」

「はぁ……確かに、その通りですが」

 織田家は信長が鉄砲を積極的に取り入れていたこともあり、撃ち手の技術向上を目的とした指導を依頼されたり、貴重な戦力として傭兵として雇われたりと、雑賀衆と関わりの機会が多かった。孫一自身も織田家に招かれた経験があり、信長から直接言葉を掛けられた事もあった。

 孫一の返答を聞き、顕如は微かに口元を緩ませた。

「それは重畳。だからこそ、これは孫一殿にしか頼めない重要なお願いでございます」

「……勿体を付けた言い回しですな。して、その重要なお願いとは?」

 警戒感を滲ませる孫一に対し、顕如は一つ呼吸を挟んでからはっきりと告げた。


「――


 顕如から発せられた衝撃的な内容に、孫一は面食らい固まってしまった。その言葉が人々を導く聖職者の口から発せられたと理解するまで、時間が掛かった。数多の修羅場をくぐり抜け、数え切れない程の人を撃ち抜いてきた孫一ですら、思わずたじろいだ。

「……正気ですか?」

「はい。門徒達を苦しみから救うには、これしか方法がありませんので」

 まだ動揺を隠せない孫一とは対照的に、世間話でもするように平然と答える顕如。段々と落ち着きを取り戻し、思考も回復してきた。

「……恐れながら、上人様の頼みではありますが極めて難しいですぞ」

 孫一は織田方に参じた経験もあり、織田家内部の事情も少しは把握している。そうした事情を鑑みた上で、正直に答えた。

 第一に。近年、信長が戦場に立つ機会が激減している。

 四方八方を敵に囲まれていた頃と違い、敵対する勢力に京や本拠地の岐阜・清州を脅かされる不安も払拭されて動員可能な兵力にも余裕が生まれた現状では、総大将である信長が戦場に出てくる場面が少なくなっていた。普段は各方面に担当する家臣が敵対する勢力と対峙し、事業の総仕上げ若しくは今後の命運を左右する重大な局面にならないと信長は出陣しない。仮に信長が出陣したとしても勝利が堅いか信長の身の安全が確保されているか、どちらかの条件を満たしていることが多い。しかも、近頃は信長が出陣する際は大々的に動員して大軍勢を揃える用意周到ぶりだ。

 第二に。仮に信長が出陣してきたとしても、自らの身に危険が及ぶ可能性が出てくれば躊躇ちゅうちょせず戦場から脱する。元亀元年の金ヶ崎の戦いでは盟友の浅井家に叛意の動きを察知すると即座に退却を決断、僅かな供廻りだけで京まで一気に駆け通した。一度逃げると決めれば世間体も構わず安全な場所まで逃げる……この姿勢を一軍の将として如何なものかという声もあるが、この思い切りの良さこそ信長の強みだと孫一は見ていた。

 なかなか戦場に出て来ない上に、少しでも命が危ういと感じれば形振り構わず脱出する……そうした観点から、信長を仕留めるのは並大抵の難しさでないことは明らかだった。

「難しい事は重々承知しております。されど、我々も手をこまねいている訳ではありません」

「……何か、策がおありでしょうか?」

 自信あり気な表情の顕如に、孫一が訊ねる。

「色々と、手を打っております。孫一殿が腕を存分に振るえるよう、最善を尽くす事はお約束致します。……必ず、信長は現れます」

「その、根拠は?」

「……拙僧の勘、と申し上げておきましょう

 拙僧の勘……か。

 根拠の無い話だと一蹴する者も居るだろうが、この直感というものが案外馬鹿に出来ない事を孫一は知っていた。

 ならば、オレもその時がいつ来ても狼狽うろたえないよう、万全の準備をしなければならない。信長よ、首を洗って待っていろよ。

 達成が困難であればある程に燃える、それが孫一という男だった。


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