悪人 ―天下人・織田信長、乾坤一擲の戦に挑む―

佐倉伸哉

序 : 信長、駆ける


 天正四年(西暦一五七六年:以下西暦省略)五月七日。摂津国天王寺。

 織田信長は今、戦場の最前線で馬を疾駆しっくさせていた。

(何故、天下人と呼ばれるまでになった俺が、このような事を……)

 尾張にあった頃ならまだ分かる。美濃攻めの時など味方の重たい腰を上げさせる為に自ら率先して一騎駆けをしたものだ。しかし、上洛を果たしてからは猪武者のような振る舞いは厳に慎んできた。自らの一挙手一投足が注目される存在になったのもあるが、我が身の安全を第一に考えて行動するように変わったからだ。

 四方八方を敵に囲まれ東奔西走していた時を除けば、京をおびやかす勢力を一掃した後からは俺自らが戦場で陣頭指揮を執る事は少なくなった。刀を抜いて敵を倒すなど、まず考えられなかった。

 それが……正に今、俺は軍勢の先頭に立って、敵に切り込んでいるではないか。常とのズレに、思わず笑ってしまう。

 この戦は、織田家存亡の行方を占うような戦でもなければ、天下獲りの命運を左右する重要な戦でもない。敵中で孤立する味方を救い出す、ただそれだけの戦だ。

 但し――相手の兵の数は一万五千に対して、こちらの兵の数はたったの三千。あまりの兵力差に家臣達は出陣を取り止めるよう必死に迫ってきたが、頑として聞き入れなかった。無謀と言われようとも、俺にはこの戦に命を懸けて臨むだけの理由があった。

 矢弾が飛び交い、剣戟けんげきの音があちこちで聞こえる中、一心不乱に前へ前へと突き進む。行く手を阻む者は右手に握った刀で斬り倒し、突き出された雑兵の槍をかわすと返す刀で突き伏せる。

 まさか織田方の総大将が、僅かな供廻りしか連れずに最前線で戦っているとは、敵も思ってもいないだろう。

(あれは……)

 馬上の信長の目に留まったのは、小高い場所にある一軒の小屋。距離にして今居る場所から大体一五〇けん(約二七二メートル)くらいあるか。狙撃するなら恰好の位置取りだが、鉄砲の有効射程距離は長くて五十五間(約一〇〇メートル)なのでまだ心配する程ではない。一応、頭に置いておくとするか。

 そこからさらに進むと、先程の小屋の上で人影が微かに動くのを信長の眼が捉えた。反射的にそちらを睨んだ直後――左脚に痛みを覚えた。見れば、すねの外側に銃弾がかすったあとが付いていた。

「上様!!」

総大将の異変に気付いた一部の供廻りが慌てて駆け寄ろうとしたが、信長は「騒ぐな!!」と一喝した。

「ただの掠り傷だ!! 大人しくしておれ!!」

 下手に騒ぎ立てれば信長の存在を周りに悟られる恐れがある。敵に知られた場合は信長の首を求めて敵兵が殺到するだろうし、味方に漏れれば兵の士気がグンと落ちる可能性がある。どちらにしても面倒な事になる。この中で一番冷静だったのは撃たれた本人である信長だった。

 信長の一喝に、供廻りの者達も次第に落ち着きを取り戻していく。幸いなことに、周りの敵味方は目の前の相手に夢中で、誰も信長の存在に気付いている様子はない。

(……いや、一人気付いている奴が居たか)

 先程の小屋の方をチラリと見る信長。さっき見つけた人影は既に居ない。俺の顔を知っていて、尚且つあれ程まで離れた場所から馬を走らせている俺の体に傷を付けられる奴は、知る限り一人しか居ない。寧ろ、仕留められなかった事を意外にさえ感じていた。

(お主の腕もまだまだだな)

 その者の顔を思い浮かべながら、フッと笑う信長。周囲の者は、どうして信長が笑ったのかさっぱり分からなかった。

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