第7話 不思議な喫茶店のとある一日 ⑥

 カラン、コロン――。


 ドアベルが低い音を奏で、客が来たことを知らせてくれる。


「いらっしゃいませ」


 俺と藍子さんが同時に声を掛けた。明乃さんだけは声を掛けるタイミングを外したようで、一人だけ焦りと困惑が混じった表情を浮かべていた。

 店にやって来たのは、祖父の代からの常連の老齢の男性で、カウンター内にいる俺に向け、いつものように軽く手を挙げ挨拶をしてくるので、それに応えるように小さく頭を下げた。

 男性は指定席の陽当たりのいいテーブル席にゆったりとした動作で腰かける。その隣の椅子にいつの間にか猫の姿に戻っていたスズがさっと飛び乗り、体を丸めた。男性はスズを優しい手つきでひと撫でし、上着のポケットから文庫本を一冊取り出し、テーブルの上に置いて、ひと息ついた。

 そんな常連客のルーティンを視界の端で捉えながら、おしぼりと水の入ったコップをトレイに載せ、


「それじゃあ、明乃さん。さっそくですがこれをあのお客さんに出して、注文を聞いて来てもらえますか?」


 と、明乃さんにカウンター越しにトレイを渡しながら声を掛けた。その隣で藍子さんも明乃さんに、


「いらっしゃいませ、って声を掛けるだけであの人は注文してくださるから安心していいわ」


 そう小声で補足説明をし、何があっても私がすぐに助けに入るから、と明乃さんの背中をそっと押した。

 明乃さんは見ているこちらも緊張してしまいそうなほどに、カチコチに固まりおぼつかない足取りで接客へと向かった。男性の脇に立ち、震える声ながら、「い、いらっしゃいませ」と口にして、トレイからおしぼりと水を男性の前に置いた。


「ありがとう。いつものを頼むよ」

「いつもの、ですか……」


 明乃さんの言葉に男性は不思議そうに顔を上げ、明乃さんの顔を真っ直ぐに見つめる。


「おや、あなたは見かけない顔だね」

「え、ええ。ここで働くことになりまして」

「そうなのかい? じゃあ、これから何度も顔を合わせることになるだろうね。よろしく頼むよ、綺麗なお嬢さん」

「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 明乃さんは深々と頭を下げ、緊張から解放され軽くなった足取りで戻ってきた。


「浩輔さん、いつものだそうです」

「分かりました。明乃さん、その調子でよろしくお願いします」


 明乃さんは嬉しそうにはにかんだ。その顔を見て、明乃さんはきっと大丈夫だと確信し、自分の仕事に取り掛かる。あの老齢の常連客のいつものとは、ブレンドコーヒー濃い目というものなので、ドリッパーにセットする豆の量と注ぐお湯の量に注意を払いながら、ゆっくりじっくりと抽出していく。俺の手の動きに合わせ、すぐに店内はコーヒーの香りが広がっていく。

 出来たコーヒーをトレイに載せ、明乃さんは慣れない手つきで男性の前に置くと、「ありがとう」という言葉とともにしわの深い穏やかな笑顔を向けられる。戻ってきた明乃さんの表情には自然と笑みが浮かんでいた。

 明乃さんの初めての接客相手があの老齢の常連客でよかったなと心底思った。しかし、俺の緊張はまだ解けない。

 俺の淹れたコーヒーに男性は口をつけ、カップをソーサーに音を立てないように置くと、そのまま静かに持ってきた文庫本へと意識を向けた。そこでようやく俺は小さく息を吐いて緊張を解いた。

 この店を継いでしばらくは祖父が提供していた“いつもの”の濃さが分からず、来るたびに良し悪しを判定してもらっていたので、今みたいに無言で合格を貰えだしてしばらく経つけれど、どうしても未だに緊張してしまう。

 店の外と中では、まるで時間の流れが違うかのように穏やかで柔らかな時を、掛け時計の振り子の音がゆっくりとたしかに刻々と刻んでいた――。


 常連の老齢の男性は、コーヒーを何度かおかわりをしながら二時間ほどゆったりと読書をしたりして過ごし、「また来るよ」という言葉と穏やかな笑みを残し、店から出ていった。その帰った後のテーブルを拭きながら、窓から外を見れば、歩く人や建物の影が長く伸び始め、空にはわずかに藍色あいいろが混じりだしていた。


 ボーン、ボーン――。


 掛け時計の鐘の音が店内に響いた。その音につられて時計に目をやると、四時五十分を過ぎたあたりの時間を指していた。そんな中途半端な時間に鐘が鳴ったことに、俺と藍子さんにとってはいつものことなので気にも留めないが、明乃さんだけが理由が分からず困惑した表情を浮かべた。


「お客さんもいないことですし、少し早いですがもう閉めちゃいましょうか。藍子さん、外の方をお願いしてもいいですか?」


 そう声を掛けると、藍子さんは「分かったわ」と返事をして、玄関扉に掛かっている札を回し、『CLOSE』と書かれた面を外側に向けた。それから、リン、リンッとドアベルを鳴らしながら、扉を開け、外に置いていた看板を店内に運び入れ、そのままバックヤードへと持っていき、ホウキを片手に戻ってきた。藍子さんはそのまま店の前の掃除をするために外へと出ていった。

 テキパキと閉店作業をする藍子さんを横目に見ながら、カウンター内にいる明乃さんに、


「明乃さんはそのまま洗い物をお願いしていいですか? それが終わったらカウンターテーブルを含めテーブルを水拭きしてください」


 そう指示を出すも、明乃さんはどこか呆気に取られた様子で、「えっと……もう閉店なんですか?」と当たり前の疑問を口にする。


「ええ、今日はもう終わりです。ああ、そうでした。説明しないと分からないですよね?」


 ロールスクリーンを下げていた手を止め、明乃さんに向き直った。


「さっきの時計の鐘は、日中の営業終了の一時間前を知らせるものなんです。本当はラストオーダーを取る合図なのですが、今日みたいにお客さんがいないと閉店することにしているんです。もしお客さんがいるときは、そのお客さんが普通の人間であれば、一時間以内には絶対に退店していただくようにしています」

「普通の人間とあやかしはどうやって区別をすればいいですか?」


 明乃さんの質問はもっともなことだ。あやかしからしても、見た目だけでは分からないことはよくあることなのだ。しかし、そのことに対する明確な判断基準を俺は――いや、この店は持っているのだ。


「明乃さん、お客さんが入店されるときにドアベルの音が違うのに気付いていますか?」

「え、ええ。不思議だなと思っていましたけど、そういうものなのかなと」

「実はですね、あのドアベルが人間かあやかしか判別しているんです。人間のときは低い音、あやかしのときは高い音を鳴らします」


 そこまで説明し、もう一つのドアベルの効果はあえて口にはしない。人間に危害を加えたりするようなよくないあやかしはその高い鈴の音のようなドアベルが錫杖しゃくじょう神楽鈴かぐらすずの音にも聞こえ、店に入ることをためらわせるのだ。


「そうだったんですね。分かりました。今後は私も注意するようにしますね。あとはそうですね、中途半端な時間に音が鳴ったので驚いてしまって……」

「普通はそうですよね。あの時計は実は付喪神つくもがみの一種で、言葉によるコミュニケーションをとることはできませんが、なんとなく意思の疎通ができるんですよ」


 ロールスクリーンを全て手早く下げ終え、カウンター脇から綺麗な布を手に、掛け時計の元に近づく。


「この時計はですね、元々祖父母が暮らしていた家にあったもので、祖母が結婚するときに実家から持ってきたものだそうです。祖母が亡くなってから、こっちに置かれることになったみたいなんですが、俺がまだ幼いころに祖父母の家でこの時計とちょっと色々とありまして……この時計は優しくて、気遣い屋で俺のことを守ってくれているんです」


 そう説明しながら、遠い日のことを思い出しつつ、時計を優しく丁寧に乾拭からぶきする。


「今では、日の入りか通常の閉店時間の午後六時のうち早い方の一時間前の時間と、うしこくが終わる午前三時の三十分前。この店の閉店に関わるときだけ鐘を鳴らして教えてくれる、優秀な相棒です」

「そうなんですね。ということは、日の入り前に店を閉めるのは黄昏時たそがれどきを気にしているからですか?」

「はい、その通りです。今の時代、黄昏時を気にする人間はもうほとんどいませんが、この店の特殊さと俺の体質のことを考えれば、気にしないわけにはいかないですからね」


 明乃さんは一瞬だけ強張ったような表情を浮かべるが、それ以上は特に何か聞いてくることも話すこともなく、手を動かし続けた。

 俺は時計を拭き終えると、店内のいつもは抑え気味にしている照明を明るくして、バックヤードからホウキとモップを持ってきて、床の掃除を始めた。

 これがいつもの閉店作業であり、夜のバーとして営業するための開店作業でもあるのだ。

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