第6話 不思議な喫茶店のとある一日 ⑤
明乃さんと一階に戻ってきて、廊下を歩いて反対側の端まで歩いていく。
「そっちの扉はスタッフ用のトイレで、こっちが休憩室になっています」
説明しながら休憩室の扉を開ける。すりガラスの窓から太陽の光が射しこんでいて、電気を点けなくてもそれなりの明るさがある。部屋の中央にはテーブルと椅子が置かれていて、壁際にはロッカーが並び、
電気を点け、明乃さんに椅子に腰かけるように促し、自分は事務机の椅子に座った。
「休憩や着替えは基本ここでしてもらいます。客がいなかったり、少ない時間帯は店内で休憩することもあります。着替えるときは内側から鍵をかけてください。あとは制服ですが、シャツとエプロンはこちらで用意します」
「分かりました。ズボンというか下は何か決まりはありますか?」
「基本は動きやすく働きやすいものであれば。あとはできるだけ派手な色やデザインは避けてもらえるとありがたいです。それ以上は、えっと……すいません。女性の服のことは詳しくないので藍子さんに相談していただければ……」
真面目に説明していたのになんとも曖昧で残念な感じになってしまい内心焦っていると、そんな俺を見て、明乃さんはくすくすと肩を揺らす。
「どうして笑うんですか?」
「ごめんなさい。悪気があったわけでは……浩輔さん、しっかりしているように見えて、歳相応と言いますか、まだまだ幼いと言いますか」
「それはそうですよ。店長としても人としてもまだまだですし、頼りなくてすいませんね」
「そこまでは思っていませんよ」
「でも、近いことは思っているんですね」
今度は明乃さんがキュッと唇を結び、焦燥を隠し切れない表情に変わるので、思わず吹き出してしまった。それから明乃さんと一緒になって表情を緩めた。
明乃さんの先ほどの俺に対しての言葉は、人によってはバカにされているだとか、下に見られていると勘ぐって不快感を抱くかもしれない。なにせ明乃さんの見た目は二十代後半くらいなのだから。
しかし、普通の人間とは違う時間の流れで生きているあやかしに言われても、その通りだとしか思わない。だから、明乃さんに幼いと言われても腹立たしいとは一切思わないけれど、ちょっとした意趣返しくらいはしたくなったのだ。
「それで話を戻しますが、シャツはタグ部分に自分のものだと分かるように名前か目印をつけてください。それで仕事終わりにそこのランドリーバスケットに入れてくれれば、まとめてクリーニングに――って、そうだった……」
そこまで口にして、思わず頭を抱えてしまった。
明乃さんがこの店に働き口を探しに来た理由を思い出したからだ。
「あの、浩輔さん? もしもし?」
明乃さんの呼びかける声に顔を上げると、首を
「すいません。シャツですけど、明乃さんの勤めていたお店の代わりが見つかるまでは自分で洗ってもらうことになるかもしれません」
「そういうことなら、よろしければ私がシャツとか洗いましょうか?」
「それはありがたい提案なのですが、いいんですか?」
「大丈夫です。むしろ、そういうことなら進んでやりたいくらいです」
明乃さんは力強い言葉を発し、心なしか自信ありげに胸を張ってみせる。その言葉にホッと胸を撫でおろすが、甘えすぎるのもよくないので、詳細は今後しっかり相談しようを決めた。
「それではしばらくの間、お願いしてもいいですか? もちろんその分、お給料には色を付けますし、必要なら洗濯機だとか必要なものはこちらで揃えますので」
「そんなに気を遣ってもらわなくてもいいですよ。私は好きでやるんですから」
明乃さんは晴れやかな表情で口にする。そのことが逆に俺を不安にさせる。
明乃さんというあやかしは、人間に対して危害を加えることはない。それどころか人間に対しても好意的で優しいあやかしだ。
しかし、優しすぎるのだ。
それはまるで家庭や男性に尽くし過ぎて、自分さえも犠牲にしてしまうあまり報われない女性のようで。
だから、明乃さんの優しさに頼りすぎないように気をつけながら、もし明乃さんが何かやりたいことを見つけたら全力で応援しようと、深く心に決めた。
「それで明乃さんから何か希望や要望、質問はありますか?」
明乃さんは少し考え込んだ後、静かに首を横に振った。
「それじゃあ、これから日中の営業の閉店時間まで実際に働いてみましょうか」
「お、お願いします」
「お願いしているのはこちらの方ですよ」
お互いに顔を見合わせ、笑みをこぼした。それからロッカーにある予備のシャツとエプロンを取り出し、明乃さんに渡し、
「ロッカーは空いてるところを使ってください。着替え終わったら来てください」
そう伝え、休憩室を出て、先にフロア戻ることにした。
しばらくして、着替え終えた明乃さんがスイングドアを抜けて、おそるおそるといった様子でフロアに顔を出した。
「意外と似合ってるじゃない」
俺と交代でカウンター席に戻り、座っていた藍子さんがいち早く気付き、明乃さんを眺めながらうんうんと笑顔で頷いている。
「そう、かな? でも、急だったから、ヘアゴムで後ろでまとめるくらいしかできなくて……」
「ああ、それなら任せて」
藍子さんは立ち上がり、自分が座っていた椅子に明乃さんに座るよう促した。
椅子に座った明乃さんの後ろに回った藍子さんは明乃さんの髪からヘアゴムを外し、髪を整え始める。藍子さんは自分のエプロンのポケットに挿してあるヘアピンも使いながら、明乃さんの前髪を自然に流し、長い髪を手早くゆるいお団子ヘアにまとめた。
「これでよしっと。本当はちょっとおしゃれなヘアピンで留めるといいんだろうけど、今は持ち合わせがないのよね」
藍子さんは満足そうな表情を浮かべているが、明乃さんは慣れない髪型に戸惑っているのか、カチコチに固まってしまっていた。
「ああ、でも、明乃は元の素材がいいから、これくらいシンプルな方が逆にいいのかもね。どう思う、浩輔くん?」
「いきなり俺に聞かれても困りますよ。でも、そうですね……今の髪型もとてもよく似合っていると思いますよ、明乃さん」
そんな俺の言わされている感満載の無難な誉め言葉に、明乃さんは髪をまとめたことであらわになった耳まで赤く染めるので、こっちまで照れて恥ずかしくなってしまう。
そんな俺と明乃さんを交互に見た藍子さんは「明乃も浩輔くんもかわいいわあ」と口にして、楽しそうな笑い声をあげ、さらにカウンター席でホットミルクを飲み終わり、一部始終を見ていたスズまでも「明乃、かわいい」とケラケラと笑う声も重なった。そんな和らいだ空気に明乃さんも恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
明乃さんは今のところは順調に店に馴染んでいけそうな雰囲気で、よかったとホッとしながらも、冷静になるとこの店の従業員は自分以外にまともな“人間”がいないと思った。
この場にいるだけでも、ろくろ首に猫又、小豆洗いと本当に“人間”がいないのだから、何も間違ったことは言ってないけれど、その事実は俺の気を少しだけ重くした。
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