client.3 化かす狐と消えた黒猫

client.3‐1

 男は満足して帰路についていた。

 宵の闇に紛れ、廃れたビル街の暗い脇道を通って目当ての勝手口を開く。肩に担いだ女の重みにひいふう言いながら、非常階段を上がる。中年にはやはり、この手の高身長な女を抱えるには骨が折れる、と彼は額に汗したが、長い黒髪を垂らして眠る端正な顔立ちを見るとその苦労も吹き飛ぶようだった。

 息を切らして五階の防火扉を開けると、閉店したバーが二人を薄暗く出迎えた。本来の酒場として機能していたのは一年ほど前まで。薄ら白い埃が積もる棚には何の酒も並んではいない。バーとしての役目を終え、ただの廃墟と化していた。しかし部屋の借主である男はここを好んで訪れた。意識のない女を伴って。

「よ、いしょっと……ふう」

 ひび割れた革のソファーに女を下ろすと、彼は大きく息を吐いた。改めて女を舐めるように見る。コートの上からでも分かる、張り出した胸。流線形を描く腰から尻、そしてミニスカートから伸びる長い脚。どこをどう取ってもモデルのようにスタイルの良い女だった。

 ビルに面した総ガラスから差す月明かりが、整った顔立ちを照らす。その桜色の唇を見つめながら、男はどうやって彼女を汚してやろうと下卑げびた笑みを浮かべた。

 いつもの狙いは小柄な十代の少女ばかり。今日の二十代くらいのこの女は、ひとりで飲んでいたら向こうから声をかけてきた。利発で美しい彼女を帰すのは惜しく、抱きたくなり、酒に薬を盛ってこうして突発的にさらってきたのだった。慣れた手つきだった。

 たまにはこういった出る所が出た女も悪くないだろうと、男は埃被ったバーカウンターにひとり入り、引き出しの道具を漁る。二人目にそうしたように、縄で縛ろうか。いやまずは手錠で固定して、とこの後のプレイを想像しながら胸を高鳴らせていると。

 暗闇でごきり、と音がした。

 始め、男は何の音が分からなかった。疲れた首を回して出るような、関節を鳴らす濁った音だった。

 彼ははっとして、女を置いてきたソファーをカウンター越しに見遣る。仰向けに寝転がった女は――否、女のような塊は――ごきりごきごきと音を立てながら、泡沫うたかたの山が次々に弾けるように全身の関節を四肢を震わせ、形を変えていた。

「ひ――」

 目の前で起きている事態が飲み込めず、喉の奥で悲鳴をかくまう男。視線の先で、それは上体を起こした。背骨を整列させるようにぶるりとひとつ震えたと思うと、やがて口を開く。

「ふう……こんばんは、連続誘拐殺人犯さん」

 その声は飲み屋で出会った女のものではなかった。少し艶のある、耳障りの良い軽やかな、男の声。声どころか、女性物のコートを窮屈そうに着る肩幅は男のそれであった。彼は言うなり己の首元に手をかけ、まるで脱皮するかのようにベリベリと表皮を剥がした。ゴムのようなマスクを引きちぎって露わになったのは、美しい青い瞳の青年の顔だった。二十代くらいか、いやそれ以上か、年齢は見た目には分からない。星屑を集めたような銀髪が、マスクの中からさらりと零れ落ちる。

「やれやれ、さすがに女性に化けるのは疲れるなあ」

「お……お前はっ、誰だ……!」

 この世ならざる者を見るように目を見開き、過呼吸気味に肩で息をする誘拐犯の男。ソファーにもたれる銀髪の男は長い睫毛を伏せながら、

「俺が化けた相手に言われる言葉ランキング一位、見事に口にするよねえ。本当つまんない……どうせ何て答えたって納得しないでしょう? さっきみたいに『玲奈れいな』とでも呼んでなよ」

 面白くなさそうに吐き捨てた。彼がコートの下に手を伸ばして己の胸部をまさぐると、豊かな胸は風船の空気が抜けるようにシュッと萎んだ。カウンターの陰に身体を隠し、顔だけ出した男はわなわなと震えている。彼は口を開きかけたが、

「次に言いそうな事を当ててあげようか? 『姿形を変えられるなんて』『人間じゃない』。そんな所かな?」

 冷笑して語る男に閉口した。図星のようだった。雪を纏ったように白い肌に頬杖をつき、空いた手で髪を弄びながら彼は、傷ついちゃうなあ、とうそぶいた。

「ちょっと関節を外して、骨と筋肉を動かして必要な場所に固定してるだけだよ。俺はヒトとヒトの間に生まれた、立派な人間さ」

 それこそ人間技ではない、と男は思ったところでふと、我に返る。

 さっき、目の前のこの男は自分を何と呼んだ?

「さて、何故俺がわざわざ君に薬を盛られ、担がれ、こうして埃臭いバーにわざと連れ込まれてあげたのか分かるかい? 三分あげよう」

 彼はすらりと細く長い指を三本立てる。盛られた睡眠薬の影響を感じさせない朗々とした語り口だった。男は必死に思考を巡らせたが、焦りと共に空回りするばかりで見当はつかなかった。

「はい終了ー。俺の中で三分経った」

 額に脂汗をかく男の体感では、十秒も経っていなかった。君ってさ、と軽口を叩くように彼は話し出す。

「誘拐と強姦と殺人。クズ三点盛り合わせだよね。狙いの女の子に犯行予告メールして、夜道で襲って薬で寝かせるかスタンガンで気絶させ、ここに連れ込み、思う存分凌辱し殺してその辺に捨てる。よくもまあこんな雑な手口で今まで捕まらなかったもんだ」

 全てが筒抜けになっている、と男は背筋に怖気が走った。

「大体さ、さらって犯して殺す趣味がこの世に存在する事は理解できるとして、写真撮ってクラウドに上げて保存するなんて間抜けにも程があると思わない?」

 クラウドがハッキングされないとでも思ってるの? と端正な顔を歪めて彼は嘲笑う。

「世の中にはあるんだよ、全世界のネットワークからセキュリティなんて度外視で任意のデータを見つけ出す手段が。君の場合はただ管理がお粗末だったんで、見つけるのは難しくなかった訳だけど」

 闇サイト、ダークウェブ、そんな呼ばれ方をして社会に認識されている治外法権はほんの氷山の一角。彼の持つハッキング手段によれば全世界から被害者の写るあらゆる画像を探し出す事など造作もなかった。

「三人殺して、どうだった? 写真を見る限り随分とお楽しみだったみたいだけど」

 その現場となったソファーをぎしり、と鳴らして彼は立ち上がり、カウンターの前に立つ。その上に面白くもなさそうに、ばらばらと写真を撒いた。それらには全て、息絶えた裸の女が写っていた。

 『玲奈』とは似ても似つかない背格好を見上げ、誘拐犯の男は改めて震えた。

「警察……か」

「いいや? 俺は君の罪だとかそういうものに興味はない」

 絹のような銀髪を掻き上げ、彼は飄々と言い放つ。じゃあ何なのか、と男は狼狽した。のちにこの誘拐犯は、目の前に現れた彼が警察であったなら、と後悔することになる。

「いや何、君にリベンジをさせてあげようと思ってね」

 彼がまたポケットから取り出したのは、男のパソコンから抜き出した写真だった。写るのは、肩にかかる栗毛とはしばみ色の瞳の少女。隠し撮りか、その顔は明後日の方を向いている。男は息を吞んだ。それは数日前に狙い、そして失敗した少女だった。

 銀髪の男は写真を指先で弄びながら、狐のように青い目を細めて嗤い、カウンターに乗り出した。それは悪魔の囁きだった。


「ねえ、俺と取引しない?」

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