client.2‐3
四十分ほどかけて、マイクロバスは山麓の温泉宿に到着した。車内の時計は午後一時頃を指している。長旅に揺られた人々は、バスを降りてめいめいに宿へ向かった。
「わお、すっごい和って感じの宿ですね!」
「……温泉宿は大体和風だろ」
ざっくりとしたあとりの評価に京介は呆れたが、確かに風情のある宿だ。苔むした茅葺きの大きな屋根を、飴色の柱が支えている。入口に玉砂利が敷き詰められ格調高い雰囲気を醸し、暖簾には『景山温泉御宿』の隆々とした文字が踊っていた。敷地をぐるりと山の原生林が囲い、建物全体が木々に浮かび上がったような印象を与えている。
「わあ、秋月さん見てくださいよ! 鯉がいますよ!」
入口横の池を覗き込み、バームクーヘンの欠片を撒こうとする少女に、思わず彼は他人のふりをしたくなった。
「既に温泉の匂いしますね! 行きましょう!」
すんすんと空気を嗅ぐあとり。玉砂利を踏み締めて無邪気に宿へ駆けて行くのを、京介は溜息混じりで追った。
「こちらがお部屋でございます」
女中が指したのは、『鶯の間』と控えめな表札が付いた引き戸だった。からりと戸を引いた先は襖が仕切る小さな玄関となっている。
待ちきれないあとりが靴を脱ぎ散らして襖を開けると、金色の畳が二人を出迎えた。
「わああ、立派なお部屋……!」
十二畳ほどの個室はよく拭き上げられた畳が上品に香り、飴色の座卓が部屋の中央に鎮座している。部屋の隅には床の間があり、鶯の掛け軸が格調高い雰囲気を醸し出していた。
「今の季節はお庭の緑がとても良く映えるんですよ」
共に部屋に上がった女中が部屋の奥の障子を開けると、二畳程の板間の向こうの窓に見事な植栽が新緑に輝いていた。
「こちらは借景に力を入れているお部屋でして、人気でなかなか空きが出ないのです……お客様方は幸運でございますね」
目を輝かせる少女に微笑む女中。その言葉に京介の眉がぴくりと動いた。
「それでは、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
一礼して、女中は退室していった。早速あとりは荷物を投げ出して畳に寝転がり、すーはーすーはーと匂いを堪能している。
「こんないい部屋にタダで泊まれるなんて最高ですね……! クジ運良くてよかったあ」
畳の上で脚をばたつかせて寛ぎご満悦の彼女に、京介は聞く。
「……確認するが、本当にお前が商店街の福引で当ててきたんだよな?」
その視線は訝しむようにあとりを射抜いていた。彼女はそうですよー、と笑う。その様子を見て、黒手袋を顎に当て少しだけ考え込むような素振りを見せたが、
「そうだ! せっかくだからお昼ご飯まで探検してきますね!」
そう言うや止める間もなく部屋を飛び出した少女を見送り、嘆息した。
「あいつ、鍵を持っていかなかったな……」
京介は、鍵とともにひとり部屋に取り残された。
「……これで全員?」
「全員入ったね」
「さあ、楽しくなってきたな!」
「これから何が起こるのか……どんな反応するのか……」
「リアリティあるわあ、ちょっとドキドキしてきた」
「リアリティどころかリアルだよ」
「上手くいくかな」
「おう」
「皆にも楽しんで貰わないとね」
一通り宿内の探検を終えて満足したあとりが部屋に戻ってきた。
「一階が宿とお食事処で、二階が温泉って感じでした! マッサージチェアもありましたよ!」
温泉何回入っちゃおうかな、と楽しそうな彼女。京介は部屋の備品として置いてあった緑茶を啜りながら、その報告を聞いていた。初めて散歩に出た子犬のようなはしゃぎ様だ。
「……そうか」
「もう、秋月さんってば、もう少し楽しんだらどうですか」
仏頂面を解かない彼に、あとりは業を煮やすように言った。京介は渋々といった様子で口を開く。
「……いや、」
そこまで言いかけた所で、外の戸がからりと開く音がして、女中の呼び声がした。
「お客様、昼食のご用意が出来ております。一階の食事処へどうぞ」
昼食、の一言にあとりの顔がぱっと明るくなる。
「はーい! 行きまーす! 秋月さん、ほらご飯ですよご飯!」
すかさず元気に返事をして、京介の腕を引く。彼はその表情を見て伝えかけた言葉を飲み込み、部屋の鍵を持って彼女を追った。
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