client.1‐8
「す、凄い……奇跡だ……!」
少し離れて一部始終をスマートフォン越しに見つめていたストーカーは、思うままにシャッターを切っていた。雲間の柔らかい光を受けながら傘を開いてゆっくり滑降する少女と、それを見つめる男。突然訪れたその
「凄い……凄いものを見た……」
感動に打ち震えながら、男はすかさず感想とともに写真をSNSに投じ、スマートフォンをポケットに仕舞った。
「うーん……わっ! 踏んじゃった! ごめんなさい!」
あとりは顔にかかった髪を耳にかけながら、押し倒して下敷きにしてしまった京介に詫びる。彼女の身体を受け止め、枯れ沢の枝葉の上に横たわった彼は長い長い溜息を吐いて、
「…………今のは本当に肝が冷えた」
黒い掌で両目を覆い、弱々しく絞り出した。
「二度とやるな……見ているこっちの心臓がいくつあっても足りん」
あとりはわざとじゃ無いです、と断った上で
「でも落ちていく最中、何か良い事が起こる気がしたんです。運が良いですね、私」
屈託なく笑った。天真爛漫な彼女に京介は力が抜け、何も言えなかった。
「……いい加減降りろ重い」
「重いとは失礼な……あ」
立ち上がろうとしたあとりが足元を見つめる。怪我でもしたかと京介が上体を起こすと、
「脚が
遅れてやってきた恐怖に、膝が小さく震えている。何事もないことに安心し、京介は深く息を吐いた。
空はもう暗くなり始め、鳥や虫が住処に帰っていく。夕陽はすべてを見届けたかのように、雲を赤く染めながら静かに山の端へと吸い込まれていった。
京介が呼んだ警察は幾ばくかの時間をかけて山間に到着し、ストーカーの男を乗せて走り去っていった。男は警察の誘導に対し、従順な様子だった。パトカーに乗り込む際、名残惜しそうに一度だけあとりを見遣り、警察官に促され車内に消えていった。
「ストーカー、こんなとこまで追って来てたんですね……気付かなかった」
ぽつりと呟くあとり。木々の間に消えていく赤いパトランプを目で追う。
「ここ数日、他人のこと追うのに一生懸命で完全に忘れてました」
「……お前がうちに今いる理由だろうが」
けろりと言う彼女に呆れる京介。そんな気はしていたが。
昇り始めた月が二人を照らし、どこかで鳩が鳴く声を夜風が運ぶ。そろそろあちらも落ち着いただろうか、と京介は吊橋を見遣る。
「行くぞ」
脚の震えも落ち着いたあとりを連れ、夫妻の元へと向かった。
ストーカーの男は警察官に挟まれ、パトカーの車内で揺られていた。探偵の男から言われた言葉を何度も反芻する。
『あの子はお前の存在に怯えてうちに駆け込んできたんだ』
怖がらせるつもりはなかったのに、と後悔の念で一杯だった。いつかまた、彼女に会うことができたら、いや、できないかもしれないが、せめて謝罪の言葉だけでも伝えられたら、と目を伏せた。
男のポケットの中では、スマートフォンが何かの通知でひっきりなしに震えていた。
副島夫妻の無事を確認し、一旦全員が帰路に就いた。夫妻は夫が自家用車で来ていたので、一足先に帰ることになった。
「本当に、ご自宅までお送りしなくて良いのですか?」
夫は幾度も申し出たが、京介は丁重に断った。
「お気遣いなく……今は、二人きりで積もる話をされて下さい」
夫妻は何度も頭を下げながら車に乗り込み、夜の闇に消えていった。
京介とあとりは、来た時のように電車に乗り込んだ。乗客は二人以外誰もいなかった。車輪が枕木に揺れる音と、乾いたアナウンスが響いている以外、静かだった。
並んで座席に座ると、どっと疲労が押し寄せてくる。
「帰るまで、あと三時間くらいですかね……」
「……途中で急行に乗り換えるから寝るなよ」
えー……とあとりは既に眠そうだ。その手に握られた折れた傘は今にも手放されそうに揺れている。
「そういえば……私何か忘れて……あー…………」
京介の肩を枕にしてむにゃむにゃと呟く彼女。何だと問い返すと、
「……コート、明日洗って……返しますね……」
それだけ言って、本格的に眠りの世界へ誘われてしまった。
彼は嘆息し、向かいの車窓に広がる景色に目を遣った。街灯もなく闇に包まれた風景に、泥塗れの二人が映っていた。肩を借りて眠る少女は、とても幸せそうに寝息を立てている。
空から降ってきた少女にどうして自分は手を伸ばしたのか、と京介は考える。あの光景に見た感情は何だったのか、彼は自身の胸の内を疑っていた。あの時、ふと自分は赦されたいと思った。何に? 過去の過ちに? 自分はそう願っているのだろうか。彼女を信じて、良いのだろうか。その答えに足る確証を、彼は持ち合わせていない。
古い枕木で跳ねた車体が一際大きく揺れ、あとりはふにゃふにゃと声を上げて一瞬顔を上げたが、睡魔に抗うことなく再び京介の肩に凭れかかる。
シャツ越しにその体温を感じながら、枯れ沢でのストーカーとのやり取りを思い出す。男はストーカーではあったが、空き巣ではなかった。京介の嘘発見能力は今まで一度たりとも間違うことはなかったし、彼もその感覚には自信を持っていた。
ということは、空き巣をやった人物は別にいるということだ。京介は額に黒い手を当てて目を伏せる。ややこしい話だ。こいつはまだ何か、言っていないだけで黙っていることがあるのだろうか。彼は隣で眠る少女を横目で見遣る。あとりはそんな様子に気付くことなく、こくりこくりと頭を揺らしている。この三日間彼の隣で笑う少女の顔が、京介の記憶の中の誰かと重なった。
いや、問い詰めれば良いだけだ。問い詰め、嘘を吐くなら暴けば良いだけ。今までそうしてきたように――。彼は目を瞑り、細く息を吐いた。
車内のアナウンスが、鈍行と急行を繋ぐ中継駅に近付いている事を知らせた。京介はあとりを起こそうと肩を揺するが、よほど疲れているのか起きなかった。乗り換えるのを諦めた京介は、彼女を起こさないように腕を組み、同じように眠りについた。
二人を乗せた列車は、ガタゴトと揺れながら街明かりへとゆっくり走って行った。
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