幸運少女と笑わない探偵 ―古小烏探偵事務所の事件簿―

月見 夕

1.幸運な少女と嘘を見抜く探偵

client.1 幸運少女と幸薄女

client.1‐1

 もう駄目だ。早川あとりは限界だった。


 荒らされ尽くした部屋を目の当たりにし、反射的に飛び出して来てしまった。十代後半あたりだろうか、少しあどけなさの残る顔に汗が伝う。

 少女は春霞の森を目指して駆ける。

 数日前のメールも、最近感じていた視線も、全部大丈夫だと自分に言い聞かせてきたのに。全然大丈夫じゃなかった。事態は最悪だ。

 教わった目的地は多分もうすぐそこのはずだった。この古小烏町ふるこがらすまちで唯一の、町外れの探偵事務所。そこに行けばきっと――

「あった!」

 赤煉瓦の洋館は、の森の入口にたたずんでいた。

 煉瓦はすすけ、いつからそこにあったのか判らぬほどの蔦に浸食されており、来る者を拒むような排他的な空気をまとっている。

 入口の『古小烏ふるこがらす探偵事務所』と彫られた古い木看板を横目に、少女はひとり立ち尽くしていた。

 はしばみ色の瞳がきょろきょろと落ち着くことなく建物を見つめ、鞄を下げた肩にかかる栗毛の髪を耳にかける。

「ここが……探偵事務所」

 ごくり、と息を呑んだ。鬱蒼うっそうとした深緑の森の匂いがあとりの決意を躊躇ためらわせる。すぐ傍の木々でカラスがこちらの様子をじっと見つめていた。ここに来ると決めたのは自分のはずなのに、それでもこの建物に入ることを迷っていた。短パンから伸びる脚が、小さく足踏みする。

 Tシャツの裾をぎゅっと握って手汗を拭き、意を決してドアノブに手を掛けた。



「御免下さい……」

 控えめに家主に告げた声は、殺風景なホールに少し響いて、薄暗い空気に溶けて消えてしまった。後ろ手で扉を閉めながら室内を見回すと、奥に階段と扉が見える。くすんだ窓から春のやわらかい光が差し、空気中を舞う埃が輝いていた。

 黴臭さが建物内に充満している。ひんやりとした空気は、住居というより廃墟に近い。

「御免下さい!」

 奥の闇にぼんやりと浮かぶ扉に届くよう声を張るも、衣擦れの気配すら感じない。

 入っていいのかな、と恐る恐る扉に向かい歩を進める。経年劣化で飴色になったと思しき白木の床が、少女の一挙手一投足を飲み込むように軋んだ。り硝子がめ込まれた扉に近づくと、少し開いていて部屋の中を伺うことができた。ホールと同じく埃っぽい室内には一対の来客用ソファーと、その間に簡素なテーブルが鎮座していた。

 誰かいる。ゆっくりと扉の中に身体を滑り込ませると、ソファーから寝息が聞こえた。こちらに背を向けているソファーの肘掛けから、脚が二本ぶら下がっているのが見て取れる。

 あとりがソファーに近づいても、脚の主の男はどうやら相当深い眠りに入っているようで、床のきしむ音にも動じず寝息を立てている。顔にクロスワードパズルの雑誌が開いたまま乗っており、表情は伺い知れない。男の趣味か、傍にあるテーブルの上にはクイズやクロスワードパズルの雑誌の山が雑然と散らばっており、大量の輪染みとともにマグカップが数個転がっている。

 声をかけようか、どうしたものか逡巡していると、

「……何の用だ」

「わっ」

 雑誌の下から男の声がした。少女は驚いて飛び退き、足元にも落ちていた雑誌を踏んだ。

 男は上体を起こし、雑誌がずり落ちて首から上が露わになった。ボサボサの黒髪に寝起きの瞳が眠そうにあとりを睨んだ。目の下には深いクマができており、顎も数日はそのままになっていたかのような無精髭だ。よれたワイシャツとスラックス姿で見た目は二十代後半程度だが、滲み出る疲労感でそれ以上にも見える。

「空き巣をやるなら他所でやれ」

 黒い手袋に包まれた手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。

「わ、私は……」

「ここは探偵事務所だ。仕事の依頼でなければ帰れ。俺は今眠い」

 にべもなくそう言うと、男は再びソファーに崩れ落ちた。

「あの……ここに来た理由は」

 男はまだ何かあるのかと怪訝そうにゆっくりと起き上がる。少女は唇をきゅっと結び直し、

「住み込みで雇ってください!」

 意を決したように言い放った。



「――つまりお前は就活で全落ちし、アルバイトで生計を立てるも空き巣に入られ、怖くなってアパートを飛び出し、町外れの探偵事務所で住み込みながら働かせてもらおうとやって来たと」

 虫が良いにも程があると悪態を吐きながら、男は部屋の隅の小さな冷蔵庫からペットボトルのコーヒーと、紙パックのコーンスープを取り出した。ソファーに腰掛けたあとりはバツが悪そうに身を竦める。

「何でうちに来ようと思ったんだ」

「前々から探偵に興味があって……」

 彼女の言葉に、男は眉を顰める。

「嘘吐いただろ」

「う」

 男の言葉が鋭く刺さる。渋々、といった調子で少女は白状する。

「住み込みができる探偵事務所を求めて歩いてたら、この街で探偵といえばここだと道端で教わりまして……アポ無しで来たのは謝ります……他に頼るところがなくて」

「職なんか選ばなければ引く手数多だろう。何で探偵事務所限定なんだ」

 第一うちは人を募ってない、と男はコーヒーとコーンスープを一杯ずつマグカップに注ぎ、両手に持って空のソファーに腰掛けた。

「それが……事情がありまして」

「……何だ」

「その……」

 少女は言い淀み、ポケットからスマートフォンを取り出した。男は左手に持ったコーヒーを啜りながら続きを待つ。

「こんな感じのメールが届いたんです」

 おずおずと差し出された画面には、短い一文が浮かんでいた。


『数日後、あなたをさらいに伺います』


 胡散臭そうな表情で見返す男。

「……誘拐予告?」

「知りません? 最近ニュースでやってる連続誘拐殺人事件」

 彼もそのニュースには見覚えはあった。この事務所にテレビは無かったが、新聞でも連日その話題を取り扱っていたからだ。

 ちまたで若い女性が次々に誘拐されていること。その誰もが無惨に殺害されていること。誘拐される前に、予告状とも取れるメールが本人に届いていたこと。そして――

「そうしたメールをネット上の愉快犯が面白おかしくばら蒔いているとも書いてあったが」

 まあ確かにそうなんですけど、とあとりは肯定しスマートフォンを引っ込める。

「それだけじゃなくて、働き先に変な人が現れるんです……」

「……ストーカーか」

 少女は俯き、ゆっくりと頷く。

「追いかけてくると言うよりは、遠くからじっと見てくる感じで。不気味で仕事が手につかなくなって、仕事でミス連発しちゃって毎回クビになるんです」

 単純にどん臭くて仕事のミスが多いだけでは?という言葉が男の喉まで出かかったが、口には出さなかった。彼女の話す言葉の端々から、そんな雰囲気を感じ取っていた。

「昨日空き巣にも入られて。これはもう実害が出てきたぞと思ったんです」

 男はコーヒーを机に置いて考え込んだ。そして右手のコーンスープをすする。少女は少々呆れ気味だ。

「それ、どっちも自分のなんですね……」

 男は気にせず、警察に相談したのかを問うたが少女は浮かない顔で首を横に振る。

「それが……働き先の防犯カメラを見ても微妙に写ってないんです。証拠がないと警察も信じてくれなくて」

「じゃあ気のせいじゃないのか」

 ぎしり、と男はソファーの背に体重を預けてコーンスープを啜り、眠たげな瞳がマグカップの中身を見つめる。

「それとうちで働きたいのは関係ないだろ。そいつを探して欲しいと依頼するならまだしも」

「そう! それなんです!」

 あ? と男が顔を上げると、あとりは拳に力を込めて宣った。

「探偵事務所なら、働きながらストーカー探しが出来るんじゃないかと思って来たんです! 探偵のノウハウを学びながら証拠を集めて、給料貰って警察に突き出せるなんて一石四鳥じゃないですか!」

たくましいのか図太いのか……」

 男は頭を抱えた。左手のマグカップからぽたりと結露が落ちる。

「大体、人探しの依頼なんか滅多に来ないし、仕事中に証拠集めてる暇なんか無いだろ。そして俺がお前を雇うメリットが全く見当たらない」

 その言葉を聞き、少女はふふん、と自信満々に胸を張った。

「その点は大丈夫です。メリットは……私といると、幸運に恵まれます」

 男は頭が痛くなってきた。

「……これから開運の壺でも買わされるのか俺は」

「ちーがーいーます! 私といると毎日一回! 良いことがあるんです!」

 男は一日一善か、と呟いたが無視された。その割には不幸続きな気がするのだが気のせいだろうか。今まであった幸運リストです、とあとりはカバンからメモ帳を取り出した。メモには『信号がずっと青になる・傍で車が泥水を跳ねても当たらない・商店街の福引で欲しい景品が当たる・電車を間違ってもタイムロスなく目的地に辿り着く』等、日常の小さな幸せが書き連ねてある。

「……狙って起こせる幸運ならばまさしく魔法のようだが」

「狙い通りにはなかなか……すごく強く念じれば叶う時もあるかな?といったレベルです。まぁ所詮運ですから」

 男はメモ帳を少女に返し、空でも飛べるなら別だが、話にならんなと頭を振った。

「人類が生身で空飛べるわけないじゃないですか」

「何でそこだけ現実的なんだ……」

 頭痛を呑み下そうとコーンスープを啜る。注いだ時より随分ぬるくなっていた。

「そもそもうちは週に一度依頼が入れば良い方の零細事務所で――」

 ほら、帰った帰ったと男は追い払う仕草をしたところで、部屋の隅の黒電話がけたたましく鳴った。男は左手のマグカップを置いて電話に出る。

「……はい、古小烏探偵事務所ですが」

 数分話して切り、受話器を少し見つめたあと少女を振り返った。

「新規の仕事の依頼だった……これもお前の幸運か?」

 彼女は満面の笑みを男に向けた。

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