第7話 早起き

 朱乃の部屋で戸滝に対する愚痴にたっぷり三十分程付き合わされてから帰宅すると、家では仕事を終え一足早く帰ってきていたらしい母さんが夕食の準備をしているところだった。


「真夏、今日はちょっと帰るの遅かったわね。何かあったの?」

「別に。ただ朱乃の家寄ってただけだけど」


 朱乃に付き合って多少帰りが遅くなるくらい別に珍しいことでもないのに、母さんは俺の答えを聞いても未だもどかしそうで何か言いたげにしている。


「ハァ……まだ何か用?」


 俺が半ば答えのわかっている問を投げかけると、母さんは暫し逡巡した後で控え目に口を開いた。


「あんたが口うるさく言われたくないのはわかるけど、遅くなりそうなときはできるだけ連絡しなさいよ。……また、あんたが行方不明なんてことになったら大変なんだから」


 母さんが言っているのは、俺が小四になったばかりの頃に一日と少し行方がわからなくなった件についてだろう。


 何でも、俺は家を出てから学校に行くまでの間に消息を絶ち、翌日の夕方に先程まで朱乃と共にいた無人の神社で発見されるまで行方不明となっていたらしい。


 自分のことなのに他人事のようにしか語れないのはおかしな感じだが、実際問題俺は行方不明になっていた間のことをほとんど覚えていないのでこの件に間してはあまり自分のことだという実感がない。


 当時の俺の感覚としては、学校に行くため家を出たらいつの間にか神社の境内で寝ていたという感じだ。


 一応、神社で目覚めたときには夢の中で誰かに会っていたような気もしていたのだけれど、結局どれだけ記憶を探っても具体的なことは何も思い出せなかった。


 まあ、そんなわけで俺にとって行方不明の件は大した問題ではなかったのだけれど。


 周囲の大人たちまで俺と認識を同じくしていたかというと、もちろんそんなことはない。


 俺が行方不明になったことはそれなりの騒ぎになったらしく、発見された後の俺は病院で身体検査を受け健康そのものだという診断を下されると、行方不明中の動向について根掘り葉掘り聞かれることになった。


 もちろん、俺は何も覚えていなかったので答えられることなど皆無だったのだけれど。

 周囲にとってそれはそれで無視できない事柄だったらしく、心的外傷による記憶喪失が云々と理屈をこねる大人たちによって俺は一定期間のカウンセリングを義務付けられることとなった。


 幸い、俺が無事に見つかったこともあり行方不明の件は徐々に風化し原因不明のまま皆の記憶に埋もれていったのだけれど。


 あれ以来、母さんは俺の帰りが少し遅くなるだけでも何かにつけて心配するようになった。


 その気持ちが全くわからないとは言わないけれど、もうあれから七年も経ったのだし今さら当時のことを蒸し返されても俺としては気にし過ぎだとしか思えない。


「だから、そんなに気にしなくても大丈夫だっての」


 母さんは俺の返事を聞いて不満そうにしているが、ただでさえ二号関連でいろいろあって疲れている今日、これ以上付き合ってはいられないのでさっさと階段を上り二階にある自室へと向かう。



 ◇



 俺が部屋に入り扉を閉めると、ちょうど一人になるタイミングを見計らっていたかのように鞄の中からスマホの着信音が響き始めた。


 スマホを取り出し画面を確認してみれば、そこには戸滝の名前が表示されている。


「もしもし」

「藍川? 今、時間大丈夫?」


 正直、戸滝はまめに連絡を取るタイプには見えないし、俺の方から電話をかけることはあっても逆はないだろうなと思っていたのだけれど。

 そんな俺の想像に反して、スマホから聞こえてくる声は確かに戸滝のものだ。


「別にいいけど、何か急ぎの用事か?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけどさ。明日はできれば朝から二号に関していろいろ実験してみたいと思って」


 戸滝が電話してきた以上、二号に関わる話が出るのは当然だけれど。

 

 いきなり朝から二号について実験しようと言われても、明日は普通の金曜日でありもちろん学校が休みなんてこともない。

 この際部活を休むのは仕方がないとしても、いつも通り登校することを前提に考えれば実験に取りかかれるのは放課後になってからだ。


「朝から? えっと、それはつまり二号の実験のために学校をサボろうって話か?」

「まさか。明日一日で全容を解明できるならそれもいいけど、たぶんそう簡単にはいかないでしょ。長期戦になる可能性が高い以上はなるべく既存の生活基盤を崩したくないし、学校を休むのは最終手段だよ」


 学校を休めとまで言われると流石についていけないと思っていたので、戸滝がその可能性を一笑に付したのは構わないのだけれど。


 しかし、そうなると彼女はどうやって実験の時間を確保するつもりなのだろう。


「とりあえず、明日は五時に学校の近所にある公園集合でどうかな?」

「……は?」

「あれ? もしかして公園の場所わからない? 学校の正門から出て駅に行く途中にあるやつなんだけど、わからないなら集合場所は学校の正門前にしとこうか?」


 戸滝は何やら見当違いな心配をしてあれこれ言っているが、俺が絶句しているのは別に公園の場所がわからないからじゃない。


「……一応聞くが、五時ってのは午前五時だよな?」

「当たり前じゃん。放課後はお互い教室にいるんだし、わざわざ学校の外で落ち合う意味ないでしょ」


 いや、こいつ、マジか。


 確かに戸滝の二号に対する反応には並々ならぬものがあったけれど。


 実験時間を捻出するために平然と朝の五時から活動することを提案するなんて、流石に予想外だ。

 

「なあ、いくら何でも五時はやり過ぎじゃないか? 運動部の朝練だってそこまで極端なことはしないんだし、せめて七時くらいにしといた方がいいと思うんだが」


 正直に言えば俺にとっては七時集合でも十分過ぎる程にしんどいのだけど、それでも五時よりはマシだと思い時間の変更を申し出るとスマホのスピーカーからは戸滝の不服そうな声が聞こえてきた。


「それだと、確保できる時間はどんなに頑張っても一時間半程度になると思うんだけど、藍川はそれでいいの? それに、始業時間が近づけば近づく程人は増えるし、人目に付きやすい実験もできなくなっちゃうよ?」


 戸滝としては少しでも早く二号の全容を把握したいのだろうし、そのためなら度を超えた早起きも苦ではないのかもしれないけれど。

 

 はっきり言って、そんなこと俺の知ったことではない。


 というか、五時に集合しようと思えば最低でも四時過ぎには起きることになるわけで、いくら何でもそこまで睡眠時間を削られるのは絶対嫌だ。


「そんなことより俺にとっては自分の睡眠の質を守る方が遥かに重要なんだよ」

「うーん……まあ、無理強いもできないもんね。わかった。じゃあ、明日は七時に正門前に集合ね」


 些か納得いかなそうにしながらも一応は妥協することにしてくれたらしく、戸滝は明日の約束を取り付けると早々に通話を切った。


 何とか、最悪の事態は防ぐことができたけれど。


「七時かあ」


 俺はあまり朝に強いタイプではないのだけれど、明日は早起きすることになりそうだ。

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