第5話 馴染みある劣等感
ただでさえ日が傾き始めているのに辺りを背の高い木々に囲まれているせいで余計薄暗くなっている無人の小さな神社の境内にて、俺はコンビニで買った棒アイスを食べながら横目に朱乃の姿を眺め続けていた。
朱乃は境内の隅にある切り株を椅子代わりにスケッチブックの上で鉛筆を動かし続けており、その視線は手元のスケッチブックと社の柱に背を預けアイスを食べている俺の間を行ったり来たりしている。
絵を描く朱乃の表情からは部室で見せていたような派手な感情表現は抜け落ちており、ただ口元だけが微かに上を向き彼女が上機嫌であることを控え目に主張していた。
こうしていると、朱乃は普段よりも大人びて見える。
いつもの彼女なら部室や教室で俺と下らないやり取りをしているのがしっくりくるけれど、今だけは余人の干渉を許さない高嶺の花のようで孤高に絵を描く姿が様になっている。
こう言うと彼女は怒るかもしれないけれど、少しだけ戸滝に似ていると思った。
朱乃曰く、気分転換のための落書き。
俺にはよくわからない感覚だけれど、朱乃はこの神社で絵を描いていると少しだけ気持ちが軽くなるらしい。
今日、朱乃が学校からの帰り道にここへ寄ったのは、やはり戸滝との一幕があったからだろう。
朱乃がここで描く絵には俺をモデルにしたものもあれば、木の枝にとまった小鳥をモデルにしたものもあり、ときには社だけを切り出して背景が一切ない絵を描いたりもする。
まあ、要はその時々によって題材はバラバラということなのだけど、たとえ何を題材にして描かれた絵であっても、それを見たとき俺の心は酷くざわつく。
朱乃は、絵が上手い。
それも、身内の贔屓目とか、一般の高校生にしては上手い方、なんてレベルの話じゃなくだ。
アイスの最後の一口を飲み込み残された木の棒を片手に朱乃の手元を覗き込んでみれば、嫌でもわかってしまう。
彼女の描く絵の中では、周りに落ちる影とは対照的にスケッチブックの白を最大限活かす形で明るく描かれた少年が、アイスを口に含みながら横目にこちらを見つめている。
朱乃が言うところの落書きだからか、それは決して描き込みの多い絵ではないけれど。
髪のクセだとか、重心の置き方だとか、自分自身でも普段は意識していない部分まで正確に紙の上に写し取ることによって、そこには間違いなくもう一人の藍川真夏がいた。
実際には薄暗い場所で俺がアイスを食べているだけだというのに、朱乃の絵の中で少年の姿は夜空に輝く星のように華やいでいてまるで映画のワンシーンでも切り取ったかのようだ。
「いい加減にしないと、アイス溶けるぞ」
絵が完成した頃合いを見計らって俺が声をかけると朱乃からは途端に大人びた雰囲気が霧散し、いつもの感情表現豊かな彼女が顔を出した。
「え、嘘! もうこんな時間!? どうしよ、中途半端に溶けてても嫌だし、一回家に帰って冷やしとこうかな。というか、自分だけしれっと先に食べてないで、もっと早く声かけなさいよ」
絵を描いている際中は時間感覚が抜け落ちていたのかスマホを見て驚いた声を出してから、朱乃は俺の方へ恨めしそうな視線を向けてきた。
「知るか。俺がアイス食べてからにしろって言ったのに、お前が無視して描き始めたんだろうが」
「それは、そうなんだけど。あれは、真夏がいい感じの場所に立つから描いてみたくなったというか……とにかく、仕方ないことなのよ」
何がどう仕方ないのかはまるでわからないけれど、朱乃がアイスを放置してまで絵を描いていたことは悪いことではないのだろう。
俺なんかとアイスを食べながら雑談に興じる暇があるのなら、やっぱり彼女は絵を描いているべきだ。
「流石、アキノ先生は絵のことになると後先考えないな」
「……うるさいわね。というか、アキノ先生はやめて。仕事で知り合った人に言われる分には平気だけど、真夏に言われるのは結構恥ずかしいのよ」
言葉とは裏腹に、朱乃は微かに顔を赤くしながらも満更でもなさそうな表情を浮かべている。
アキノ、それは朱乃が持つもう一つの名前だ。
事の始まりは、中学を卒業した後の春休みだった。
元々、朱乃は絵を描くのが好きで学校では美術部として活動し、家では暇潰しに描いた絵を俺に見せては感想をせがんできていたのだけれど。
受験が終わり暇を持て余した彼女は自分の描いた絵を公開するためだけにアキノという名でSNSのアカウントを作り、毎日のように投稿し始めた。
朱乃の絵は素人目に見ても心動かされるものだったから、彼女が当初抱いていた俺以外誰も反応してくれないんじゃないかという心配は杞憂に終わり、彼女の描いた絵は日を追うごとに拡散されていくようになった。
そして、増え続ける称賛の声に朱乃が自信を持ち始めていたある日、彼女のアカウントへ一通のメッセージが届いた。
そのメッセージの差出人はライトノベルを扱うレーベルの編集者で、内容は新たに企画が持ち上がったシリーズのイラストレーターとして朱乃を起用したいというものだった。
後から聞いた話だと、この依頼は自作のアニメ化経験もある人気作家が偶然見かけた朱乃の絵を気に入ったことが発端となっており、編集部というよりは作家の意向が強く反映された結果らしい。
当初、朱乃は依頼を受けるかどうか悩み、彼女に絵を教えた従妹にいろいろと相談していたようだったけれど。
結局は絵を描くことが好きだったのだろう。
朱乃は依頼を受け、アキノという名を使ってプロのイラストレーターとしての活動を始めた。
現在、朱乃がイラストを担当する『無限回目の月夜』は四巻まで刊行されており、売れ行きは好調だ。
ボイス付き宣伝動画の作成やコミカライズも行われており、ファンの間ではアニメ化既定路線なんて声も上がっている。
もちろん、『無限回目の月夜』が好評を博している理由として最も大きいのは、作者である
ループする世界の中でたった一人それを知覚できる少年が、月夜に出会った少女のため必死に運命へ抗う。
丁寧な心理描写と共に描き出される少年の努力には思わず感情移入してしまうし、儚げな少女は少年でなくても守りたいと思う程に魅力的だ。
そして、そんな物語に添えられた繊細なタッチのイラストは見事に作品の雰囲気と調和しており、ネット上で感想を漁っているとイラストに一目惚れしてこの本を手に取ったなんてコメントも散見される。
まあ、気持ちはわかる。
俺も初めて朱乃から表紙になる予定の月明りに照らされた少女のイラストを見せられたときには、星見光の作品を一度も読んだことがないにも関わらず『無限回目の月夜』への期待感で胸を高鳴らせたものだ。
けれど、だからこそ、俺は朱乃の絵を見るのが好きじゃない。
朱乃に仕事の依頼がきたとき、彼女は大いに驚いていたけれど。
俺は自分でも不思議なくらい冷静だった。
彼女なら、いつかはこういう日がくるだろうと心のどこかで思っていた。
ただ、それを認めたくなかっただけで。
朱乃の絵が凄いことなんて、誰に言われるまでもなく知っていた。
昔、俺は朱乃と同じ目線でものを見て、同じことを感じ、同じように生きていくのだと思っていた。
俺と朱乃が別々の人間である以上、そんなことあるわけがないのに。
朱乃の絵を見て、何の取柄もない俺と彼女の間には埋めがたい隔たりがあるのだと思い知らされなければ、俺にはそんな簡単なこともわからなかった。
俺と朱乃は同じ学校に通い、同じ部活に所属し、同じ場所で話をしているけれど。
本当なら朱乃は俺が日直の仕事を終えるのを待ったりせず、家に帰って締め切りが月末に迫っているイラストを仕上げるべきだ。
ここでこうして俺と下らない話をしている暇があるなら、その時間を絵の上達のために使えばいい。
そうすれば、彼女はイラストレーターとして今以上に活躍できるだろう。
俺は幼馴染として彼女を応援したいと思っているし、そのためなら多少の雑用くらいは引き受けてもいい。
この想いに嘘はない。
けれど、これが俺の想いの全てかと言われれば、それもやっぱり違うのだと思う。
俺は幼馴染として朱乃の側にいることに心地よさを感じている。
絵を描くことよりも俺と過ごす時間を優先してくれたとき、嬉しいと思う気持ちがないとは言えない。
本当に、嫌になる。
自分では手の届かない領域で活躍する彼女よりも、隣で自分と同レベルでいてくれる彼女に安心するなんて。
我がことながら、救いようのない情けなさだ。
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