合併症のインコが消えないのですが

ひつじのはね

合併症のインコが消えないのですが

「――っそんな!」

がばりと布団を跳ね上げて荒い息を吐くと、田沢は自室であることに安堵して汗を拭う。

まさか、そんなはずはないよな。だって俺、まだ32歳だぜ? 彼女も仕事もこれからって時に、糖尿病にかかった夢を見るなんて。

それもこれも、気になる子がいるせいかもしれない。美紀ちゃんのことを考えるあまり、自分の不健康な身体に不安が募ったせいで――俺の現実逃避は、そこで終わった。

ローテーブルに、確かに置かれた無機質な白い紙袋。『内服薬』と書かれたそこには、菓子が入っているはずもなく……。

昨日、病院で宣言された『糖尿病』の文字が脳内を占めた。


「――田沢さん、先月食事を考えるように言いましたよね?」

白衣にメガネの典型的なスタイルの医者が、こめかみに青筋を浮かべた笑顔で検査データを突きつける。会社の健診で引っかかったばかりに、田沢は先月この病院を受診した。確かにその際、言われた気はする。何かが高いからリスクがどうとか、栄養バランスがどうの……カロリーがどうの……。どうせ太っていると言いたいんだろう、余計なお世話だと思ったのだけは覚えている。


「え? でも、ちょっと気をつけていたんですけど」

むっと眉根を寄せて、ちんぷんかんぷんな検査データを睨み付けた。

おかしい、今日は採血があると知っていたから、慌てて前日の夜から絶食に近い食事にして、ふらふらでやって来たと言うのに。

「今朝、食事を抜いたでしょう。もしかして、前日も?」

「ウッ?!」

「それ以前は全く食事を改善していなかったでしょう」

「ハウッ?!」

なぜ、なぜバレるのか。この医者は俺のストーカーか何かだろうか。ちょっぴり怯えて見上げると、ため息を吐いた医者は、手早く何かパソコンに打ち込んで看護師を呼んだ。

「田沢さん、あなたは既に『糖尿病』です。食事で改善も見込めると思いましたが、難しいようなので、まずは内服治療を始めましょう」

「はい、では田沢さん、あちらで詳しい説明をしますので、待合でお待ち下さい。ああ、栄養指導はどうされます?」

そう言って覗き込んだ看護師は、多分可愛かったと思うのだけど、もう田沢の目には入っていなかった。


昨日の出来事が蘇り、田沢は深くため息を吐いた。

俺はこの先、糖尿病に囚われたまま一生を過ごすのか。

疲れやすいとは思っていた。水分を摂る量も多ければ、当然出る量も多い。だけど、仕方ないだろう、太っているんだから。太っていたらそのくらい、普通ではないのか。


「……いや、そもそも俺は最近痩せてきたんだぞ?!」

きっと、あの医者がヤブに違いない。もしくは、検査前に食事を抜いていたのが、かえって良くなかったんだ。

『それよ! それも糖尿病の症状だったのよ!』

甲高い声に、重い体がビクッと飛び上がった。恐る恐る視線をやれば、窓際に蠢くカラフルなものがある。


「は? 鳥……?」

黄色い頭に緑のボディ。昨夜隙間を開けていた窓から飛び込んで来たのは、ペットショップでよく見かける鳥だ。確か、セキセイインコだったろうか。

「シッシッ、フン落とすなよ?」

飛び回られたらかなわないと、ゆっくり立ち上がって窓を開ける。インコであるからにはどこかの飼い鳥だろう。さっさとお帰り願いたい。

『現実を見て! 私、あなたの指導に来たのよ!』

ぺんぺん、と片足を鳴らし、機械音みたいな声が言う。それは、どう考えても目の前のインコから発せられたようで。

「……は? 現実?! 現実ぅーっ?!」

目を見開いた田沢はどすりと尻餅をつき、階下の住人から苦情を寄越されたのだった。


『――まずは、食事。そして運動もしていきましょう!』

やけに懐っこく肩に乗って尾羽を上下させるインコに、田沢の目は死んでいる。

「へー。ところで糖尿病ってさ、幻覚も症状にある?」

『基本的にないわよ。だけど、目の障害も出やすいわよ!』

……そういうことじゃない。

『おしゃべりインコ』のレベルではないマシンガントーク、それも耳が辛くなるような糖尿病関連の情報オンパレード。これは、早々に治療しないと自分の心が死ぬ。まさか、こんな合併症があるなんて。

「糖尿病って、思ったよりも恐ろしい病気だった……」

『その通りよ! 分かってきたじゃない』

インコは、ピュロロ、とご機嫌な鳴き声をあげた。


『なってない! 全然管理がなってないわ! 私が選ぶ! それを離しなさい!!』

「いででで?!」

いつもの通り会社へ行って、さて昼食とコンビニに寄った時に事件は起きた。

選ぶもの選ぶものにケチをつけられ、面倒だと無視してカゴに放り込もうとしたところで、怒ったインコに思い切り噛みつかれたのだ。

「なっ、なんで痛いんだよ?!」

『噛んだら痛いに決まってるわ!』

幻覚に噛まれて痛いなんて、世も末だ。だけど、痛いものは痛い。田沢はしょんぼりとクリームたっぷりの菓子パンを棚に戻した。


ちなみに、インコは朝からずっと肩や頭に乗ったままだけれど、会社でも誰にも奇異の目で見られることはなかった。

やはり、これも合併症のひとつなんだろうと暗澹たる気持ちで納得する。

「こんな……こんなの、男の飯の量じゃない!」

『何言ってるのよ、正しく成人男性の摂取量よ! あなた大きいし、これでも緩めに設定してあるんだから!』

カチカチと鳴らされるくちばしに恐れをなし、田沢は唸り声を上げてデスクに並んだ昼食を眺めた。

お茶、サンドウィッチ、サラダ、野菜、野菜……そもそもコンビニにこれだけ野菜の総菜があったのかと驚きだ。

『次からは、近くのコンビニじゃなくて、会社から離れた定食屋さんへ行きましょう! そうすればもう少し満足するし運動にもなるわね!』

どうせ、そこでも飯は大盛りにできないし、野菜ばっかり食えと言うのだろう。

田沢は至極暗い気分でサンドウィッチの封を切った。


「あら……?」

後ろから聞こえた可憐な声に、田沢の気分は一気に天より高く舞い上がった。暗かった心はどこへやら、今やドラッグストアの照明よりも明るいだろう。

急いで見上げた先には、思った通り、田沢の手元に目をやった美紀ちゃんの姿。

「あっ、ごめんなさい。覗き見るつもりじゃなかったんですけど、いつも菓子パンが溢れそうになっていたから、つい珍しいなと思って」

「あ、はは! そうかな? 俺ももう少し健康に気をつけなきゃなと思ってさ!」

「いいと思います! 私も体質上コレステロールが高めなんですよ、だから気をつけていて……あ、これお揃いですね!」

にこにこした美紀ちゃんが取り出したのは、田沢が普段買うよりひとまわりもふたまわりも小さいお茶のボトル。視線を落とせば、確かに田沢が買った中にもそれがある。なにがしかの健康的な効果があるらしい。

「お、お揃い……」

感極まってそれを掴み上げると、こつん、とボトルがぶつけられた。

「乾杯! 健康に、ってことで」

にこっと微笑んだ美紀ちゃんが立ち去るのを、田沢は呆然と見送ったのだった。


『……なんか、あなた、どうしたの?』

インコが若干引いている。だけど、田沢の足取りは軽い。

「運動が健康にいいんだろ? 2駅ぐらい歩いたってどうってことないさ」

『そうね、そうだけど……』

事務的な会話しかなかった美紀ちゃんと、今日、初めて、初めてあんなに話したのだ。田沢の心は燃えていた。まさに、脂肪を燃焼させんと激しく燃えていた。

「会話の糸口を掴んだぞ! 健康、健康管理だな、なんだ、簡単じゃないか」

『健康管理は恋愛じゃなくて身体のためにするものよ……?』


フラれたら不健康になるではないかと、ピチテリックが言う。

……やめてほしい、告白どころか会話したばかりの頃からフラれるハナシは。

ちなみに、ピチテリックは田沢が適当に名付けたインコの名前だ。朝から晩までヒステリックにピッピギャアギャアうるさいので。

「逃げ切ってやる……! 俺は糖尿病から逃げ切ってみせる!!」

『その意気よ! 完治は難しいけど、健康を維持することはできるのよ!』

喜んだピチテリックがばさばさと羽ばたいた。

「そして……そして、健康を手に入れた暁には……」

『暁には?』

田沢の丸い頬がぽっと染まる。

「み、美紀ちゃんと……健康談議に花を咲かせるんだ!!」

『……まあ、いんじゃないかしら』

目標は、達成できるレベルに設定するのが吉だ。歩くたびに震動するアゴを眺めつつ、ピチテリックは哀れみの眼差しを注いだのだった。


「――おや、田沢さん頑張っていますね」

ドキドキしながら宣告を待っていた田沢は、青筋を浮かべていない医者の笑顔に目を瞬いた。

「と、いうことは?」

「食事管理を頑張ってらっしゃいますね、データは良くなっていますよ。この分だと内服の減量をしていけるかもしれませんね」

よしっ! 田沢は密かに拳を握る。まずは、糖尿病の檻から脱走することに成功したようだ。ここからは、どれだけ追いつかれずに距離を空けられるかが勝負。

「ダイエットもされているようですね。以前よりスリムになりましたね」

良いことです、とにっこりする医者に思わず涙が浮かびそうだ。ごめんなさい、ヤブだなんて言って。まだ誰にも痩せたと言ってもらえないのに、この医者だけは言ってくれた。

『あら、私も言ってると思うんだけど? あなた、痩せたわよ。誰もあなたに注意を払っていないから、気付かれないだけよ!』

……それは、言わなくてもいいことだ。ピチテリックから突如打ち込まれた特大の矢が胸に痛かった。


「おおう、着られる服がなくなった……」

どんどん緩くなるウエストに、もっと若い頃に着ていたスーツを引っ張り出して着ていたものの、それすらベルトなしではストンと落ちてしまいそうだ。

大した場所に出かけるでなし、私服はガバガバのまま着ていたが、さすがにそれも厳しいレベルになってきた。今では会う人会う人に痩せたと目を丸くされる始末だ。

『もう普通体型と言っても過言ではないわ! 血糖コントロールも完璧ね!』

ひと月がふた月に、3ヶ月に、と間隔の延びていた通院が、ついに先日『次は半年後でいいでしょう』と言われたのだ。あの時の晴れやかな医者の顔は忘れられない。もう、既に薬も飲んでいない。

「いっちょ、スーツ新調するか!」

太っていた頃は、採寸されるのも接客されるのも嫌で、通販で安いスーツを買っていた。どうせ、会社に行って帰るだけの服だ。だけど、今なら……。


『いいわね、素敵よ。これがキツくなったら糖尿病接近警報ね!』

「嫌なこと言うなよ……まあ、追いつかれないつもりだけど」

普段は見ることもない姿見に、全身を映してみる。

いいんじゃないか? 店員の勧めに応じて買ってしまったけれど、きちんと身体に合ったスーツはぐっとシルエットを美しく魅せてくれる。まるで急に出来る男になった気さえする。


「――おはようございま……あ、田沢さん、スーツ新しくしたんですね!」

さすが美紀ちゃん、さっそく気付いてくれたらしい。

美紀ちゃんとは、健康談議を通じて随分親しく話ができるようになった。今ではお勧めの健康グッズを紹介し合う仲だ。

「そうなんだ! どう? 似合ってる?」

ちょっと気取って顎を上げると、美紀ちゃんが一瞬、視線を彷徨わせた。

「その、はい。格好いい、ですよ」

「え?」

田沢は、サッと踵を返して離れていった華奢な背中を呆然と見つめた。

あの白い頬が、ほんのり染まっていたのは、田沢の希望が見せた幻だったのだろうか。

『目標を新しく設定する必要があるわね!』

ピチテリックは、尾羽を上下してピュロロロ、と鳴いたのだった。

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