(142)…………。

 ――バリッ!!


 と待合室から響いてきた音に、オルドロスは書類へ落としていた視線を上げた。

 立ち上がって待合室へと回り込んで見た物は、破られた『ディジーリアの冒険譚』の頁と、その周りで慌てる男達の姿だった。


「お、お前らぁ~~!!」


 地の底から響く様なオルドロスの声に、冒険者の男達はびくりと体を竦ませる。


「本は大切に扱えと俺は言わなかったか? 言ったよな!? それが何だこれは!!」


 頁の破れ目は、むほほの脳筋姫騎士に立ち向かうディジーリアを、物の見事に切り裂いていた。

 額に血管を浮かべる勢いで、獰猛な笑みを湛えるオルドロス。


「この本は回収するぞ。丁寧に本を扱えん者には宝の持ち腐れだ!」

「そんな~! 殺生な!」

「知るか! 返して欲しければ女共の様に丁寧に扱えばいいだけだろうが!!」


 そのまま破損した本を手に、執務机まで戻るオルドロス。

 ふと視線を向けたのは、壁の向こう、本棚が設けている辺りだ。

 その本棚にはオルドロス自身による本も多数収められている。しかしこの様な求められ方をされた事は無い。


「くっ……作家としては完全に負けたな」


 悔しそうな声を漏らして、オルドロスは『ディジーリアの冒険譚』へと目を落とすのだった。



 ~※~※~※~



 デリリア領商都に在る役所の地下では、ミズィリハ技官が二十四色多色刷り機と向き合って、調整作業に勤しんでいた。

 そのミズィリハ技官が驚愕の叫びを上げる。


「ああっ!!」


 その声に、丁度ミズィリハ技官の下へと向かっていたラズリム所長が、直ぐに駆け付けて来た。


「どうしたんだね、ミズィリハ君」

「――やっちゃった……」

「む。それでは分からんよ?」

「回転良くしようと思って少し速さを上げたら、乾燥が追い付いてなかった。滲んじゃった」

「む……ディジーリア君がまだらになってしまっているでは無いか!」

「器械の調整で出来高を上げるのは諦めた方がいいね。乾燥機構に手を入れるのも、顔料を改良するのも、直ぐには無理。何か有って器械を止めるくらいなら、今迄と同じ設定で動かし続けた方が余程いいよ」

「ふむ――もしくはこの器械を更に増やすかだな」

「え? でも、こんな趣味の器械、そう簡単に増やせないって――」

「それが状況が変わったのだよ。先程王都からコードライ様が戻られてな、どうやらミズィリハ君の多色刷りには、これから王国中の注文が殺到するかも知れんとの事だ。ディジーリア君の原版が有っての事だがな。取り敢えずはライセンの標準三十枚刷字器が必要だと伝えた所、取り急ぎ六台仕入れると即決したぞ? しかし一番詳しいのはミズィリハ君だ。他にも必要な物が有ればと確認しに来たのだよ」

「ろ、六台!? そんな、一人で六台の面倒なんて――」

「うむ、専門の技官も増やす事になるだろう。器械の改造に、新人の教育に、やる事は山積みだ! しかし安心し給え。お前を多色刷り機の調整で忙殺させたりはせんよ。お前にはこれからもっと面白い器械をどんどん作って貰わねばならんのだ。ディジーリア君への報酬もまだだからな!」

「所長~~っ! ――所長が所長で本当に感謝してます。最高です。最高序でに何かいい案無い? 面白いって思う何かって何!? 注文するなら仕様ははっきり! 白い尻尾飾り送りつけるぞ!! …………あー、もうやだ」

「ミズィリハ君~……」


 地下刷字所ではディジーリアの思い付きで頭を悩ませている技官が一人居たが、それを愚痴で発散するのもいつもの事で、其処には概ねいつも通りの時間が流れていたのである。



 ~※~※~※~



 デリラの街から南へ向かい、豊穣の森を越えて更に南、巨獣領域と呼ばれる場所で或る冒険者パーティが狩りを行っていた。

 ガズンガル、ドルムザック、ダニールシャ、ククラッカの四人である。


「『魔弾』~~って、駄目だぁ。巧く行かないよぉ」


 既に彼らは、ディジーリアから貰った武具に、一度は外した輝石を付け直していた。

 それでダニールシャ以外の三人は、手加減含めて何とかそれぞれの武具を扱える様になっているのに、ダニールシャだけがどうにも巧く行ってなかった。


 尤も、杖を通じて魔法を使おうとしないならば、ダニールシャも普通に魔法が使えている。寧ろ多少威力が上がっているのは、確かに杖の効果が出ているのだろう。

 杖を通じて魔法を使おうとすると巧く行かないのには、そもそもダニールシャも、そして製作者のディジーリアも、魔法の発動体が具体的に何をしているのか理解出来ていない所にも原因が有った。


 指輪や杖の形をした発動体。これが何をしているかと言えば、周囲に存在する魔力を集める働きをしていたのである。つまり、術者のお漏らし魔力を一箇所に集めて回収し易くする為の物であり、完全に『儀式魔法』に特化した品だった。

 ディジーリアは、魔力の通りや蓄積量が発動体に関係すると考えていたが、それは『根源魔術』遣い故の発想であり、ディジーリアが造った剣や杖は『儀式魔法』の発動体とは成り得なかったのである。


 しかし、それならば何故ダニールシャはディジーリアの造った杖を用いながら、威力の高い『儀式魔法』を使えるのかという疑問が残る。

 これに関しては、ダニールシャが器用な遣い手だったとしか言い様が無い。

 それなりに思い通りに魔力を操る時点で『根源魔術』の才能は高いが、放出した魔力から器用に自分の意思のみを抜く事で『儀式魔法』遣いとしても高い技量を誇っていた。

 そんな人物がディジーリア製の杖を使えばどうなるか。

 意思の抜けた魔力は杖に流し込まれ、杖以外からは放出されない。故に神々の徴収は杖の周りで行われるが、徴収する先からその領域には新たな魔力が送り込まれる事になる。

 要するにディジーリアの言うお供え式の魔力を詰め込んだ状態であり、それ故に『儀式魔法』も威力が上がって発動する。

 同じ魔力の詰め込み現象は、良い発動体を用いた場合にも実は起こっていて、それ故に良い発動体を用いれば魔法の威力が上がると言われていたが、方向性を持っての詰め込みは発動体による詰め込みとは桁が違った。それを見て、ディジーリアの杖は凄まじい発動体なのだと勘違いするのもまた当然だったのである。

 因みに、狙いを付けられないのは杖を通す分のラグで感覚が狂っていたから。ダニールシャ達も混乱していたのか、『根源魔術』的な修正を加えようとしても、実際の物は『儀式魔法』として発動されていたのだから、巧く行く訳は無かったのだ。


 そんな勘違いが悲劇を齎す。


「いっその事、魔術を発動しようとかせずに、魔力のまま撃ち出せば巧く行くかも知れないぜ?」


 『根源魔術』の感覚なら四人の中で一番だったククラッカが、そんな助言を口にする。

 その言葉に理有りと認めたダニールシャが、魔力を籠めながらブンと杖を振り回せば、それまでが嘘の様に、飛び出た魔力はあっさりと標的を打ち砕いた。

 これで漸く冒険が出来ると大いに盛り上がる四人だったが、ふと冷静になったダニールシャが呟いたのだ。


「これってさぁ、魔法使いと言うより、どう見てもメイス遣いの殴り屋じゃね?」


 ガズンガル達は、肯定も否定も出来ず、そっとダニールシャから視線を逸らしたのである。



 ~※~※~※~



 蜂蜜採り名人として冒険者に復帰したリアンカリカは、娘のディジーリアにプレゼントされたおニューの装備を身に着けて、傍目から見ても分かるぐらいに浮かれていた。

 二振りの大きな包丁も、動き易い革鎧もリアンカリカにぴったりで、嬉しくなってしまったのだ。


「たぁー!」


 と楽しげな声が響くと、森犬デリガウル大森蜘蛛デリチチュルの首が飛ぶ。

 辺境の主婦は逞しい。兎も鳥も自分で捌く。

 加えてキャラバン出身のリアンカリカなら、狩りを含めてお手の物だった。


 流石の森犬も逃げろや逃げろと、尻尾を巻いて逃げ出したが、突如頭上より感じる絶望の気配と、竦ませた身のその首元を通り過ぎる死の刃に、抗うすべは持たなかった。

 しかし、それでもまだ今の段階でリアンカリカと出会った森犬は幸せだったのだろう。

 余りの恐怖に動きを止める森犬の首を落とすばかりだったリアンカリカは、「ん~? 首を落とさなくても下拵え出来ちゃう?」と、恐ろしい言葉を口に上らせていたのだから。


 リアンカリカの戦い方は、そのふわふわした見た目を裏切り、豪快にして大胆。

 兄であるライガンロアと旅をしていた時は、決してそんな戦い方はしていなかった筈なのに、魔獣達のど真ん中に飛び込んでは、思うが儘に蹂躙していく。

 見ただけで覚えてしまったが故に、「何でですか!」とディジーリアに叫ばせたのは、宙に引っ掛け魔力の業。それを自在に操り、魔獣達に襲い掛かるリアンカリカは、丸で荒ぶる竜を思わせた。


 竜族――そう、最も古き竜の一族が率いると言われているアセイモス・キャラバン、その長老でありリアンカリカの祖父でも有るアセイモスは竜だ。その真実を知る者は同じ長命種の中にも僅かしか居ないが、長き進化の果てに人の姿を得た多くの種族とは違い、竜族は竜がその力で人に転じた一族だった。

 故に、リアンカリカの中には強大な霊獣の力が眠っている。リアンカリカの魔力をこれでもかと練り込んだ二本の包丁を爪として、同じく魔力の色で黄色く見える革鎧を甲殻として、ディジーリアの造った装備が竜の本能を刺激したに違い無い。


「たやぁー!」


 掛け声ばかりはディジーリアに似て気が抜けるばかりだが、戦い方は存在感を見せ付けるディジーリアとは真逆の在り方。

 一度は活け作りを思い付きつつも、本能に導かれてリアンカリカは伸び伸びと、豪快に体を動かす事を楽しんでいた。


 とは言え、圧倒的に実戦経験が足りない。爪は本能で振るえても、剣の術理は分からない。

 故に当然失敗もする。

 リアンカリカが振り抜いた大包丁が、森犬の背後に隠れていた大岩を打ったのだ。


「ああーーー!! リアちゃんの包丁がぁああああぁぁぁぁああ?

 …………あれ? 何ともなってない?」


 鈍い音を立てて半分大岩に埋まった包丁は、しかし何とか引き抜いてみても、何か変化が有る様には見えなかった。

 リアンカリカは首を傾げながら、次の獲物へと飛び掛かったのである。



 ~※~※~※~



 バルトーナッハは、丁度ディジーリア達が『武術』の講義を受けている時間に、丸々二駒の時間を使って『装備』の講義を受けていた。

 『装備』の講義は基本的には騎士団で学ぶのと同じ、武具の手入れと改造の手引きだ。ランク三のバルトーナッハともなれば、寧ろ講師が務まるぐらいなのだが、王都には洗練された遣り方が有るのでは無いかと思って受講を決めていた。

 実際に受けてみればそんな特別な遣り方を教えて貰える訳では無かったが、今、バルトーナッハは、よくぞあの時受講を申し込んだものだと思いつつ、五日毎のこの講義へと臨んでいたのである。


 それというのも、まさか『武術』の講義で魔界に潜る以上の損耗を装備が受けるとは思いもしなかったからだ。時間が空いた時に騎士団の訓練に交ぜて貰う事も有るが、『武術』の講義の方が格段に負担が大きいのには、これはもう笑うしか無い。

 当然日々の手入れは欠かしていないが、これだけ損耗が大きくなると、じっくり時間を掛けて装備と向き合う時間は必要不可欠である。


 それに、もしもこの講義を受けていなかったならと思うと、バルトーナッハはぞっとする思いを抱いた。

 今はこの時間を利用して、部屋の仲間や他の上級生達と、教え合いながら鎧の手入れをする事が出来ている。しかしこの講義を受けていなかったならば、一人で黙々と作業するしか無かっただろう。その時には、恐らくは耐え難い虚しさを感じるに違いない。


 そんな事情も有った為、バルトーナッハは既に合格を言い渡されていながらも、殆ど休む事無く『装備』の講義には出る様にしている。

 しかし同時に、他よりも手際良く手入れも調整も済ませる分だけ、早くに手が空くのも事実だった。

 周りを見渡しても、今日は殆どが集中して作業に入り込んでいる。

 こういう日は、早めに上がるのが吉だろう。


「お、もう上がるのかい? 私の今の気分はハリダ茶だね」


 切り上げようという気配を見せていたバルトーナッハを目敏く見付けて、ミーシャロッテが遠慮の無い言葉を掛けてくる。それに苦笑しつつ、バルトーナッハは講師に断りを入れてから、鎧を担いで講義室を出たのだった。


 部屋に戻ってロッカーに仕舞い込んだ鎧を眺めながらバルトーナッハは思う。

 ラタンバル教官の講義を受けている者には悪いとは思うが、恐らく今の時間に『装備』の講義が有るのは、イグネア教官の『武術』講義の時間との兼ね合いなのだろう。一撃に賭ける様な戦いをする者程、須く武具の損耗も早くなる。それを見越してイグネア教官の『武術』講義を受けている者が、『装備』の講義も受け易くなっているのに違い無い。


「まぁ、今年は異常だろうがな」


 今となっては当然の如く便利に使っているが、このロッカーにしても立派に商品として売られていておかしくない出来だ。誰に聞いた所で新入生の作品とは思わないだろう。

 それでもこのロッカー一つだけならまだ理解出来ても、同じロッカーが五十は有って、更にこの部屋の中に有る物の殆どが事情を同じくする物だ。

 ならばそれを為したのは天才的な木工職人なのだろうと思えば、本職は鍛冶師で冒険者だと宣うのだから堪った物では無い。

 そしてその鍛冶の腕前に至っては、天才だとかいう凡百の言葉では形容出来ない意味不明な有り様だ。鍛冶に関わる事なら格安で引き受けると言われて、バルトーナッハが自らの武具を任せてみれば、大剣のランクが二つは上がった。

 その遣り方が良く分からない。大剣に手を添えて、ギャリギャリと怪音を響かせながらディジーリアが添わせた掌を柄元から剣先まで撫で上げれば、それだけで何故か大剣が化けたのだ。何処の誰に聞いた所で、それを鍛冶とは認めないだろう。


 その時ディジーリアはバルトーナッハの大剣を見て、恐らく鉄の甲殻で鎧われた魔物の素材だろうとずばりと当ててきた。それにも実際驚いたが、どうやらディジーリア曰くこの大剣の潜在能力は遥かに高いものであり、ディジーリアは本のちょっぴり調えたに過ぎないだけらしい。

 その言葉をそのまま信じる訳では無いが、ディジーリアにとってはその程度との認識には、嘘偽りは無いのだろう。

 いとも簡単に本気で打ち直せば特級になると言い放たれて、バルトーナッハは興奮よりも戸惑いを覚えたのである。


「恵まれ過ぎもそれはそれで間違っている様に思ってしまうな」


 とは言え、未だにマディラ・ナイトの剣を用いている様な者達にとっては福音だったに違い無い。流石にディジーリアも顔を顰めたなまくらは、ディジーリアの手によって軽くランクが三つは上がったのだから。

 なまくらを振るった所で剣の腕も上がらなければ、怪我をするだけだ。彼らは貴重な学院での時間を無為に過ごす事を免れたのだ。


 荷物置き場を出たバルトーナッハは、多目的室壁際の戸棚を開けてミーシャロッテご所望のハリダ茶を探す。

 確か黄色い粉状の物だ。

 戸棚には他にも様々な嗜好品が備蓄されていて、折を見て侍女組が供している。

 気前の良過ぎる首席のディジーリアに触発されて、無理をして資金を捻出した貴族組も居るかも知れないが、それだけの効果は充分に得る事が出来ていた。


 言うなれば、入学式でサイファスラム卿の述べた恵まれた環境を自ら作り上げたのが今の部屋の状況なのである。


 それだけでは無い。

 ディジーリアが職人として理解出来ない高みに有るとして、冒険者としてのディジーリアはどうだろうか。

 手合わせに臨んだバルトーナッハだからこそ語れる事かも知れないが、バルトーナッハのスタイルに合わせて大剣遣いの真似事をしていた時で既に格上。その後気配を消して見せた時に、目の前に居ながらにして姿すら捉えられないのには、父である第五将とも方向性の違った得体の知れ無い恐ろしさを感じさせられた。

 そうなると、スノワリンの語る大陸東側での呼び名の如く、超越者と呼んで自分とは違う何かだと思いたくもなる。

 しかし、それを許さないのがディジーリアが始めた『武術』講義での鍛錬だ。


 話に聞くだけでも無茶と狂気に彩られたその地獄の特訓において、ディジーリアは自らその無茶と狂気の中に身を落とし、それでいてそれを無茶とも思っていない。他の受講生と同じくへたばりながらも、いつもと同じだと飄飄とされては、嫌でもディジーリアを作り上げて来たのがこの無茶と狂気の積み重ねだと理解出来てしまう。

 そしてそう感じたその通りに、回を重ねる度に五歩も十歩も先へと進んでしまっている。

 ディジーリアと一緒に『武術』の講義を受ける仲間達は、皆焦燥を感じているのだ。今はまだ見える場所で一緒に鍛錬しているディジーリアは、ちょっとでも気を抜けば遥か先で鍛錬をする様になって、直ぐに見えなくなるに違いない。

 だから、ディジーリアの仲間でいようとする者達は、狂気に身を焦がしながらもディジーリアの鍛錬に付いて行こうとするのだ。仮令その自覚が無かったとしても。


 一度『装備』の講義を休んで、ラタンバル教官の『武術』講義を見学したバルトーナッハには、その事が良く窺えた。

 正直同じ講義を受けていない事に悔しさを感じた。

 同じく狂気に身を窶してみても、丸で足りている様に思えなかった。

 だから何処までもエスカレート激化する。

 恵まれた環境と、自ら求めた狂気の鍛錬。

 その結果はバルトーナッハにランク二という形で齎された。

 上級が学院の講義でランクを上げる? ――きっと冗談としても語られる事は無いだろう。


 そんな新入生の筆頭が一番おかしなディジーリアなのだから、当然今年は異常になる訳である。


「お待たせ!」

「おっと、引き継ごう」

「ちょっと先に食堂に行ってるよ? レジーの様子を見ておかないと」

「待って、私もロリカが気になるから一緒に行くわ!」


 ミーシャロッテが帰って来て、ロッドワーズが小厨房に立つバルトーナッハに気が付いて交替を申し出、他の講義から戻って来た貴族組が家の侍女組の様子が気になると再び部屋を飛び出して行く。

 昼食を持参してきている者も思いの外多く、今日『家政学』の講義が無ければ、更に数組の仲間達が部屋で食事の準備を始めていただろう。

 因みにロッドワーズは昼食持参組で、バルトーナッハとミーシャロッテは食堂が空いた頃に向かおうというのんびり組だった。


 そして、折角自分でも用意したのだからとバルトーナッハが一服してから、フラウニス達とも一緒に大食堂とはまた別の食堂へ向かおうと立ち上がろうとした時、つい両手でテーブルの端を押さえてしまった。

 もふもふの毛皮敷の上に置かれた丸テーブルは、食器程度で揺れ動く事は無いが、流石に体重を掛けるとそちらの側が沈み込んだ。

 魔王の杯が揺れて倒れ、テーブルから転がり落ちる。

 バルトーナッハが思わず受け止めようと伸ばした足先は、沈む足元に目測が外れ、見事爪先が落ちた杯を蹴り飛ばした。

 蹴り飛ばされた魔王の杯は、隣の女神の丸テーブルの角に当たって勢い良く床へと跳ねて、思わず追い掛けていたバルトーナッハの足の下に潜り込んだ。

 ごりっと響く感触に、立ち尽くしたバルトーナッハが表情を歪めた。


「見ーたーぞー!!」

「それはわたくしも使いますのよ!!」


 ミーシャロッテとフラウニスの糾弾に、バルトーナッハは全面降伏と両手を上げてから、足元の杯を拾い上げた。

 幸いな事に割れてはいない。

 と言うよりも、何処がぶつかったのか傷も分からない。


「――頑丈だな!!」

「それで済ませるのは駄目だな~」

「ええ、ディジーに見て貰いましょう」


 そんな言葉を聞きながら、もしかしたらディジーの作る装備なら、整備自体が要らなかったりするのだろうかとバルトーナッハは考える。

 しかし少し考えて頭を振った。

 もしもそんな装備が有ったとして、今の自分には少しも魅力的には思えなかったからだ。


「じゃ、俺らも食堂に行くとするか!」


 この過剰な質という行き届き様は、喩えて言うなら、お節介な親戚の小母さんだ。要らないと言っても、小母さんの趣味による贈り物攻勢や、お見合いの斡旋が留まる事を知らないのと同じだ。しかし自分の鎧は自分で磨きたい様に、手を掛ける実感は何も悪い事では無い。要らないお節介なら、適当にあしらえばいいのである。


 実際の所は、ディジーはお節介を焼いているつもりも無く、もっと淡泊な事は知っている。単に受け止め方の問題なのだろう。部屋の仲間へ匠の作品を押し付けるつもりは無く、部屋の中での売れ行きが悪ければ購買に置いて貰うので構わないと言っている。それならば、受け取りたい分だけ受け取って、それ以外を遣り過ごしたとしても、不愉快とすら感じはしないだろう。

 この頑丈過ぎる杯と一緒で、ディジーが毀れるなど想像も付かない。


 ――いや、結構感動屋だったか?


 極稀に見せる子供らしい表情を思い出して、バルトーナッハは口元を緩ませた。

 ディジーを毀す事は出来無くても、ふにゃふにゃにしたりぐねぐねにしたりするのは、案外簡単そうだと思いながら。



 ~※~※~※~






 響く轟音、少女の叫び。

 その時ラタンバルは、学舎の裏手に有るテラスに足を踏み入れた所だった。

 或る意味厄介な講義も終わり、気を抜いた所を突かれたと言っても良かった。

 振り向いたラタンバルが目にしたのは、血の糸を引いて宙に飛ばされた少女の姿。

 考える迄も無く体は動いたが、既に一歩も二歩も出遅れたラタンバルの目の前で、その少女――信じ難い事にディジーリアは、大地へとその身を打ち付けた。


 しかし、その時の異様な動きに、直ぐ近くにまで迫っていたラタンバルは、蹈鞴たたらを踏んで立ち止まる。

 あれだけ吹き飛ばされて落ちたならば、その体は大地に落ちた後も跳ね飛びそうな物なのに、そんな勢いなど無かったが如くディジーリアはぺたりと大地に貼り付いて動きを止めたのだ。


 尤も逡巡は一瞬。

 ラタンバルも直ぐに手を差し延べたのだが、その時にはディジーリアがむくりと起き上がっていた。


「あー、やってしまいました。殆ど魔力の無い地域で編み出された超効率の魔術を、いつもの調子で試してしまったのは失敗でしたねぇ」


 ゆらりと立ち上がったディジーリアだが、その姿を目にして思わずラタンバルは言葉に詰まる。


「結構やっちゃってますねぇ。――ですが、こんな事も有ろうかと! 私はマール草をいつも持ち歩いているのですよ!」


 声だけはいつもと同じで元気潑剌はつらつとしているが、右手の指は全て有らぬ方向に折れ曲がり、見えてる範囲は赤や紫の痛々しい色合いに彩られている。

 透き通る様に綺麗な赤髪も、右側はちりちりに縮れて見る影も無い。

 顔も右側は赤黒く変色し、閉じた瞼から流れ落ちる血の筋や、紫色に腫れた唇から滲む血が、瀕死の様相を思わせる。

 無事に思える左眼までもが虚ろなのだ。


 それなのに、聞こえる声と動きはいつも通りで、それが余計に異様さを感じさせるのだ。


「それではマール草の癒しの力よ! 今ここに! ――おや? !? 駄目です、これでは寧ろ悪さをしてしまいますね。本当は結構焦っている所に有り難く有りませんけど――水でしょうかね? でも、水も一緒となるとそれは只の回復薬なのですが……今は仕方が有りませんか。では、改めまして、マール草の癒しの力よ! 今ここに!」


 唇を動かさずに何事か喋り続けるディジーリアに、誰も何も言えないままに時間だけが過ぎて行く。

 左手で薬草を掲げ、薬草が青味掛かった緑色の光に変じて、その光を右腕に押し付けたディジーリア。一度首を傾げてから、慌てて右腕からその緑色の光を引き剥がし、今度は宙に浮かせた水の玉と混ぜ合わせてから、再び右腕に掛けるのだった。


 すると顔を強張らせた受講者達の目の前で、パキパキと音を鳴らしながら折れた指も腕の変色も戻っていく。

 再び首を傾げたディジーリアが、今度は薬草と水の玉と金色の雫を混ぜ合わせて金色に輝く水の玉を作り上げると、その水の玉を唇まで下ろして飲み下す。

 くぅ、と少し呻いたかと思うと、煤けた装備と縮れた髪以外は元通りのディジーリアが立っていた。


 まだ、誰も口を開かない。


「お~。自賛してしまいますけど、流石私の特別製回復薬ですね。いえいえ、これは自慢しても良いと思うのですよ? まだちょっと感覚にずれが有る気はしますけれど、魔力や“気”をぶん回して調整するしか有りませんね。

 それにしてもお騒がせしました。私もちょっと疲れて判断力が鈍っていたのかも知れませんね。一の魔力を使う業に、万の魔力を籠めればどうなるかなんて分かり切った事でしたのに。

 でも、まぁ、『根源魔術』寄りの業でしたから、弾けた魔力も私の魔力には違い無くて、何とか周りに被害が出ない様に納めましたし、お咎め無しという訳には行きませんかね?

 ほら、良く有る事では無いですか」


 しかし、瀕死の重傷が癒されていつも通りの姿を示されたなら、冷たく暴れていた心臓も落ち着きを取り戻し、少しは頭が回り始めてくる。

 そうしてラタンバルが考えたのは、どうにもならないという思いだった。

 それは、ディジーリアを相手に回した時に、どう戦うかという視点からの発想である。

 ラタンバルは、魔力を枯渇させていない本気のディジーリアを知っている訳では無い。しかし、殆ど魔力枯渇の状態にも拘わらず、極至近からの不意討ちに対して致命傷を避け得るディジーリアなら、万全の魔力を保持した状態では凡ゆる手立てが通じないだろうことは想像に易い。そしてもしも運良く傷を与える事が出来たとしても、その時は一瞬で傷を癒される悪夢を見る事になるだろう。

 陛下や十二将軍達とはまた違って、決して敵には回したくない相手だった。


 そう慄くラタンバルの周りでは、ディジーリアと同じ新入生達が、くしゃりと顔を歪めていた。


「良く、有る、事な訳が無いよ!」

「何で! 何で! 何で! まだ十二歳なのに何で!!」


 ラタンバルは、掠れる声で泣きじゃくりながら、ディジーリアに抱き付いた少女達に感嘆する。

 少し前の有り様を見ていて、中々そうは出来ない。恐怖を感じるのが普通だろう。


「え? ちょっと!? いえ、本当に大した事は有りませんよ?? 文献に載っていた『触媒魔術』を試してみる余裕だって有りましたし。ほら、『根源魔術』の講義のねたにもならないかとか。結局回復薬と同じにしかなりませんでしたけどね。でも、手っ取り早く回復薬として使いましたけれど、使わなくても三日有れば元に戻る程度の怪我で――いえ、本当ですよ!? ランクが上がるとその辺りは――いえ、焦ってはいましたけれど、私にとってはほら、ざっくり指を切っちゃった程度で――あーもう、ぅう~って唸らないで下さいよ!?」


 この事件を契機に、また一つディジーリアの噂が学院の中を駆け巡る事となる。

 それは手出し禁止で、不死身で、血塗れな、これ迄とは違う凄惨さを感じさせる味付けで。

 光差す中では無く影に隠れる様に、表では無く裏から這い寄る様に。

 ディジーリアの噂は静かに広がって行くのだった。

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