(108)パッと行って、パパッとやって、ドーンなのですよ!

 さて、秋の一月二十日。オリハル領へ行く日がやって来ました。

 私は学内拠点の鍛冶場に立って、心を落ち着かせる為に深呼吸です。


『ふふふ……今日まで実験はしてきたけれど、いよいよ本番だねぇ』

「ええ! 時空のメイズ様の御蔭です」


 折角移動するのですからと、今日、私は初めて「通常空間倉庫」に入ってみる事にしたのですよ。

 本当は、もしも漂流したとしても安心出来る様に、『亜空間倉庫』に食料を一杯詰めてからと思っていたのですけれど、幸いにして大量に狩った大猪鹿のお肉の御蔭でその条件も解決する事が出来ていました。


『それじゃあいつでもいいよ。『倉庫』に留まるのは出来るだけ短く心懸けてねぇ』

「はい、何が起こるか分かりませんから、さくさく行きます。では、三、二、一、――」


 時空のメイズ様の監視の下で、さっと開いた「通常空間倉庫」の入り口に足を踏み入れ、五歩進んでから振り返ります。「通常空間倉庫」の広さはまだ小部屋程しか無く、既に部屋の半ば迄踏み込んでいます。

 「通常空間倉庫」を内側から閉じるのも、中に入れたディジー人形の体に同調して実験済み。同じくディジー人形として別の場所に入り口を開いて「倉庫」から出るのも実験済みです。

 そして、私のどきどきする緊張の割りには何事も無く、実験通りに一旦「通常空間倉庫」の入り口を閉めて、そしてまたオリハル領に飛ばした輝石の傍に入り口を開き、何も起きないのが当然の顔をして「通常空間倉庫」から歩いて外へ出たのでした。


『あははははははは!! 凄いよ! 凄いよ! 君は本当に凄い事をしてのけたんだけれど、分かっているのかな? あはははははは!!』


 時空のメイズ様がとても楽しそうにしていますけど、最後の締めに「通常空間倉庫」を閉じるのを忘れてはいけません。


『くふふふ……それで、どうかな?』


 そんなメイズ様の言葉に考えてみますけれど、私自身では違和感も感じていません。腰の“黒”や、「通常空間倉庫」に入って貰っていた“瑠璃”に聞いてみても、問題は無いとの事です。


「問題は無さそうですよ?」

『くふふ、僕もそう思うよ? でも一応安全第一で様子見はするんだよ? じゃあねぇ』


 呆気なく気配を遠くする時空のメイズ様に、私は深い感謝を捧げたのです。



 さて、オリハル領にやって来ました。まだ時間は朝ご飯の準備をしている頃合いです。

 こんな時間にやって来たのも訳が有るのですよ。

 私だと分かる様に、肩に冒険者ディジー人形を乗せて、私はシャビルバ老の家の玄関を叩いたのです。


「御免下さ~い」

「はーい、ただいまー……おや?」


 扉を開けた小母さんの目が、まず私を見て、私の肩に乗った冒険者ディジー人形を見ます。

 そして、破顔しました。


「まぁ! あんた、ディジーリアちゃんだね! 良く来たねぇ~。ほら、上がんなさいな。お爺ちゃーん! ディジーリアちゃんが来ましたよー!」


 小母さんに案内されて家に上がると、縁側から遠くにムタを眺めるお爺さんの姿が有りました。

 私の姿を見て、何故か肩を揺らし始めます。


「よう来たな! ちょいと早過ぎるが、それにしても人形そのままじゃのう。若作りした婆さんかと思っていたが、予想が外れたわい! かっかっかっ!」

「お婆さんになるのはずっと先の予定ですけど、早く来たのは訳が有りますよ。朝が未だならいいのですけれど、朝ご飯のおかずを一品増やしに来たのです」

「何じゃ? 良く分からんが、ロロナ! ちょいと面倒見てやってくれ」

「はいはい、分かったわ。でも、おかずねぇ……。ほら、厨房はこっちだよ」


 案内された厨房では壮年の人が何人も包丁を振るっていましたが、その片隅で大猪鹿肉の薄切りを炙って更に果粒を塗し、それを大皿に盛り付けました。

 ロロナと呼ばれた小母さんが、その場に居た人達に私を紹介するのに合わせて会釈をすれば、軽く会釈を返されます。

 その後食卓に並べられた朝ご飯には、私の分のお皿も用意されていました。


「おお……これはどうも有り難うございます」

「何、構わんよ。家族が多いから序でだ」


 ぶっきら棒な壮年の人は、シャビルバ老の息子だと紹介されました。ロロナ小母さんの父親だそうです。

 そして家族が多いと言うだけ有って、食堂には十人近い人達が集まって来ました。でも、五日間では呼び戻せなかっただけで、本当はもう少し多いらしいです。


「で、これが増えた一品じゃな。肉という事は――」

「ええ。毛皮の持ち主の肉ですね。お肉は食べ慣れているかも知れませんが、超が付く高級肉です。これで職人さん達の遣る気を引き出せないのでしたら、他に何か手立てを考えないといけません」

「まぁ、春肉は既に無い。喜ぶ者も多いじゃろうが、年寄りに肉は――」


 そう言いながら、シャビルバ老は手元に一枚取り寄せた薄切りのお肉を弄んでいたのですけれど、その表情が固まりました。

 お肉は手の中に小さく千切り取られていました。


「……随分と軟らかい肉じゃな」

「場所によってはちゃんと歯応えも有りますよ?」

「軟らかい部分で良かったわい。どれ――」


 そうして千切り取ったお肉を口へと運ぶシャビルバ老。

 再び表情を固めて、くわっと目を見開きます。


「う……美味い! 何じゃこの肉は!?」

「素性を言うのが問題になりそうな程にいいお肉ですよ? ですから内緒です」

「美味い! 美味過ぎる!! 美味いぞい!!」


 そのシャビルバ老の叫びを切っ掛けにして、他の皆さんもお肉へと手を伸ばし、そして次々と賞讃が送られます。この分だときっと勝算も高いですね。


 そんな一幕を経た後で、連れ立ってムタン敷生産者の会合へ赴く事になったのです。



「良し! 始めるかのう! 皆も良く来てくれた!」


 シャビルバ老が集まった人々に呼び掛けたのは、つんと来る匂いが漂う工場の中です。

 百人近い人達がシャビルバ老へと視線を投げています。


「概要は伝えておるが、毛皮持ち込みでの敷物加工の依頼が来ておる。儂は受けるつもりじゃが手が足りん。総出で受けねば冬にもなろう。冬になれば作業は出来んから、皆にも協力して貰いたいと集まって貰った訳じゃ。

 ムタンは春じゃと秋の鞣しは考えておらんかったが、持ち込みの毛皮が有れば話は別じゃ。お主らの中にも秋は出稼ぎに出とる者も居るじゃろうが、秋の仕事が入るならここに残る事も出来るじゃろう。嫁取りに行きたい者は好きにすればいいがの。

 儂らの今後を決める大事な仕事じゃ。忌憚の無い意見を聞かせてくれや。

 それと、こちらの嬢ちゃんが依頼主じゃ。小さいが只者では無いぞい。五日前に訪ねてきたのは肩に乗っとる人形じゃったが、今日は可愛い嬢ちゃんになって来よったわ」

「ご紹介にあずかりましたディジーリアです。こんな形ですけれどそれなりの冒険者で魔術師ですから、何か要望が有れば応えられる事も多いです。お仕事をお受け頂いた方には、美味しいお肉の食べ放題も用意していますので、宜しくお願い致します」

「おお、そうじゃ! 適当に焼いただけの肉を儂も食わせて貰うたが、途轍もなく美味かったぞい」


 その声に響めきが上がります。良かったです、どうやらお肉は受け入れて貰えそうですね。


 そこからは、私が渡していた毛皮の実物を検分したり、脚一本分試しに鞣した毛皮を皆で確かめたりとしながら、懸念や疑問を解消していきます。


「皮が大き過ぎるぜ。ムタ用の作業台じゃあ全然足らん」

「ほうほう、つまり、台が有ればいいのですかね?」

「いやいや、作業台だけで無くて、薬液槽に鞣し台に乾燥台、陰干しするのに小屋自体も小さ過ぎるわ」

「作業台は、毛皮と同じ大きさでいいのですか? 必要な大きさと数を、一つ一つ教えて欲しいのですよ」

「いや、だから無理だと言ってるんだが」

「設備が調えば出来ると言っているのですよね? 無理を言っているのは私ですから、必要な物が有れば手配しますよ?」


 何を言っているんだこいつという顔をする小父さんと、回りくどい事を言っていないで必要な事を教えて欲しいと思っている私。資材の調達へと私の肩を離れて外へと飛び立つ冒険者ディジー人形と、それを目で追う幾人か。

 その時、シャビルバ老が笑いをこらえながら言いました。


「お前の負けじゃよ、シビラバル。儂は今の設備でも工夫を凝らせば可能じゃと思うとったが、この嬢ちゃんは恐らく用意すると言うなら本当に用意するぞい? 儂としても合った設備が有る方が作業も捗るのには間違い無い。ほれ、皆も快適に仕事をする為の要望を出してみるが良いぞ。言うだけは只じゃからのう!」


 シャビルバ老のその言葉が有ってから、それまで傍観していた人達も本腰を入れて検討を始めました。何しろ、欲しいと思っていた設備が今なら只で手に入るかも知れないのですから。半信半疑ながらも、シャビルバ老が言う通り、言うだけなら只なのです。


「作業台は、毛皮の大きさが有ればいいぞ。数は四家に二つずつの八つか?」

「いや、待て。儂は毛皮と同じ大きさのは二つで充分と思うのじゃが。代わりに長さは毛皮の長手分、幅は今の作業台と同じ幅で、角を丸めた物を八つじゃな。それなら両側に人を付けられる。終わった分はずらせば良いのじゃ」


 例によって例の如く、クアドラ石で模型を作って示します。


「こうですかね?」

「ぬぁ!? ……やるのう。じゃが、角というのは四隅では無く縁じゃな。むぅ、これだけじゃと大きさが良く分からぬ」


 言われてささっと形を直して、人の形の小さな石像と毛皮の形をした石の板を追加します。

 特に何も無い所で円陣を組んでいたのですが、分かり難いと工場の中の作業台周りに集まる事になりました。

 作業台の上に作った模型を置いてみれば、毛皮は布でとの要望で、これまたささっと切り抜いた布を模型の上に載せました。


「うむ。とても分かり易いぞい。こう、細長の作業台でずらしながら作業するんじゃ。この方が良かろう?」

「ええ、確かにそうねぇ」

「でも、大きな机も四つは必要なんじゃ無いの?」

「ふぅむ、そうじゃろうか。最後の鞣しにしか使わんなら混み合う事も無さそうじゃが」

「だが、家毎に分けておかねば喧嘩になりそうよな?」

「それも確かに。なら、大きな作業台も四つじゃな」


 言われて大きな作業台も四つに増やします。


「作業台は箱形の石で良いのですかね?」

「む?」

「いや、ずらした毛皮が足下に溜まると遣り辛いから――ああ、いいね。そんな感じなら良さそうだ」


 作業台の脚はHの形に造る事になりました。


「薬液槽はこれも細長で――いや、もう少しここはこう。――うむ、それを八つと、洗浄用に大きめの物を二つ。うむうむ」


 言われるがままに私が模型を作っていくと、目に見えて形が現れた事で現実味が増したのか、あれもこれもと要望が増えていきます。

 薬液槽は半分埋めるのだとか、ここには段差を設けて階段を造れだとか、柵が無いと危ないよねだとか。

 何処で何の作業をして、どう人が動いてという事を含めて検討していましたから、私も凄い勉強になりましたよ。

 つい石像の数を増やして、しっかり道具も持たせているので、何て言うか遣り切った感が皆さん含めて凄いです。


「設備はこれで決まりでしょうか? ――なら、次は建屋の場所ですかね」


 設備には問題無いという事なので、石材部分はクアドラ石で、木工部分は冒険者ディジー人形が伐ってきたばかりのサルカムの木で早速造り始めましょう。

 でも、その前に場所を決める必要が有るのです。

 ですけど、それにはもう当てが有るとの事でした。


「場所ならここらの裏じゃな。元より次に建てるとしたら其処と決めておった。後で――ぉお!? これはここらを上から見た……幻じゃな? うむ、その辺りで南に傾斜を付けた片屋根じゃ」


 その言葉に、模型を中心に周りに幻を展開して、その模型に柱を立てて片屋根を設けます。


「そこまで! ……なぁ、俺はこの柱と屋根だけで充分だと思うんだが」

「……言われてみればのう」

「柵は要るわね」

「まぁ、獣は薬の匂いで近づきはせんだろうが」

「柵も無くても良いかも知れんなぁ」


 ちょっと頭を悩ませている様子でしたので、柵を付けたと仮定して、その分今有る建屋から新しい作業場の位置を離します。


「ここに建てるとして、許可とかは必要なんでしょうかね? それと、いだ上土はどうします?」

「細かいのう……。儂らの土地じゃ、許可なんぞ必要無いわい。土もそこらに盛ればいいじゃろ」

「いや、どうせなら盛り土にして畑にしたらどうだ?」

「やだよ、この人はもう!」


 まぁ、それも一つの案と、畝の様な形にした模型を横に並べましたら、何故か笑い声が響き渡ったのでした。

 一応、商業組合に冒険者ディジー人形を飛ばして、前にもお話をした受付の人に、シャビルバ老達の土地に新たに作業場を建てるのに、許可とか必要なのかは聞いてみましたけどね。



 シャビルバ老達の工場が集まったその中に、食堂が一緒になった炊事小屋も在りました。

 ざくざく刻まれ豪快に煮込まれていく野菜汁に、一口大に切って軽く火を通した大猪鹿の肉も放り込んで、麦ご飯と合わせればお昼ご飯の出来上がりです。


「美味ぇ! まじで美味いぞ、何だこの肉は!?」

「マルロの奴め、可哀想に」

「シェリマフもシャルベリもな!」

「本当に美味しいねぇ。ムタみたいな毛をして、肉は全然違うんだね」

「ははは、これは本当に肉の為に仕事を受けたくなるな!」


 どうやら、大猪鹿の肉は皆さんの気持ちを引き上げるのに、とても大きな働きをした模様です。

 それに安心しつつも、話を進める為には新しい作業場が必要なのです。

 その予定地の四隅には今も私の人形達が陣取って、せっせと整地作業に勤しんでいます。冒険者ディジー人形に、所長ディジー人形、ディジー姫人形、ディラちゃん人形と勢揃いですよ?

 上土を剥いだら「流れ」で圧力を掛けながら同時に水分を抜き出して、更に「活力」で熔かして固めます。柱は地中深くに突き刺して、取り出したクアドラ石を成形して――


「まぁしかし何じゃな。嬢ちゃんには済まんかったのう。儂は今の設備で出来ると踏んでおったんじゃが、こうも無茶な話になるとは思っておらなんだわ。今の設備でも作業出来るとは思うが、何処まで出来るじゃろうかの……」

「いや、俺も手伝うぞ! 美味い肉の為ならな!」

「ええ、毛皮が有れば直ぐにでも始められるわ。用意出来るのはいつ頃になるのかい?」

「え……ええ!? 毛皮は余裕を持ってもう用意してますけど……。

 でも、大丈夫ですよ? ご飯の後で、現物で確認しましょうか」

「おお! それが良いな!」

「うむ、やはり現物を確認せんと始まらんわ!」


 ですから、作業場の現物は今造っているところだと言っているのに、何故か慰める様な乗りで皆さん盛り上がるのでした。

 ……それにしても、ご飯が美味しいですね。美味しいお肉の美味しい味が野菜にも染み込んで、何とも言えない美味しい味に仕上がっています。麦ご飯に掛けて食べると、更に美味しく、喉の奥からお腹の中へと美味しいが滑り降りていくのですよ。

 今迄は焼いて食べるだけでしたけれど、勿体無い事をしていたかも知れません。


「うむ……美味い。いや、美味い」

「あんた、美味いしか言ってないさね」

「だが、美味いだろう!?」

「ほら、まただよ」

「いやいや、しかし美味いんだから」

「もう、やだよう! あっはっは」


 皆して美味い美味いと言い合う和やかな時間が過ぎれば、さて続きを話し合う前に厠へ行こうという人達が何人か席を立ちました。

 私は残っている人達に、デザート代わりにウネウネジュースを注いで回ります。

 そして、何人か戻って来た頃になって、外から魂消たまぎる様な「うおおああああ」との叫びが聞こえて来たのです。


「何じゃ!?」


 と席を立つシャビルバ老と、それを庇う様に立つシャビルバ老の息子さん。小屋を飛び出した人達は、未だ造り掛けの作業場へと目を向けて呆けています。

 私も小屋の外へ出て、呆けている人達に呼び掛けました。


「もう、小屋の中に入っていて下さいよ。私も見られていると気が散ってしまうのです。現物が出来上がるのにまだ一刻三十分程は掛かりますから、それまで休憩でいいですよね?」

「良い訳無いじゃろがぁあああ!!」


 シャビルバ老が背後で叫びました。吃驚するのですよ、やめて下さい。


「これは一体どうなっとるんじゃあ!!」

「どうって、言いました通り、私はそれなりに凄い魔術師なのですよ」

「そんな言葉で済ませるんで無いわい!!」


 何一つ嘘は吐いていませんのに、何故か怒られてしまったのですよ。



 ~※~※~※~



「只者では無いとは思っとったが、特級じゃったとはのう」

「凄いお嬢さんでしたねぇ」

「いや、全くとんでもないわい」


 空を飛んで行った常識外れの客を見送って、シャビルバは深く息を吐いた。

 初めて訪ねて来た時は人形の姿だった。そんな客の相手をして、あまつさえ仲間と繋ぎまで取ったのは、ひとえにシャビルバ自身が変化を待ち望んでいたからだった。

 シャビルバの若き頃からムタンの名声高く、その人気は留まる所を知らなかったが、それだけに予約の客を何年も待たせている状況を心苦しく思っていた。

 勿論、そんな状況を打破せんと、ムタに代わる獣を求めた事も有る。だがそのいずれもシャビルバ達の基準を満たす事は無く、手を出す事は憚られた。


『お主の様にムタンに強い憧れを抱いて貰えて、本当に有り難い限りじゃ。じゃがお主の持ち込んだこの毛皮を儂らが加工してもムタンにはならん。そこらの鞣し屋に持っていくのと同じ様な物にしかならんじゃろうて。儂らがそれをオリハルのムタンじゃと渡す事などは出来んし、お主にしたところで贋物を掴まされたと笑われるだけよ。済まぬがこの話は受けられん。諦めてくれ』


 ムタン敷を特別としていたのは、加工の腕が良いのも有っただろうが、何よりオリハルのムタが特別なのだとこの頃には分かっていた。

 気候、餌、ムタの性質、その上で手を掛けて育てたが故に、奇跡の様な毛並みを得たムタ。軽々しく増やす事が質を落とす事にも繋がると分かれば、ムタを増やす事も諦めるしか無かった。


 秋に出稼ぎに行く者達の中には、同じくそんな現状を憂いている者達も居るだろう。何か無いかと外へと答えを求めて、僅かな期待を胸に各地へ赴く仲間達。

 あの奇跡の様な毛皮が持ち込まれたのは、そんな最中さなかの事だったのだ。


 そう、奇跡だ。ムタをこそ奇跡と思い、その代替を求めていた頭をガツンと殴られたかの様な真の奇跡だ。

 ムタにも劣らぬ毛並みでいて、どう見ても成体の獣。なんて大きな一枚皮だろう。なんと目眩く色彩豊かな風合いだろう。

 丸で何の怖れも抱く事無く、この巨体となるまで大事に大事に育てられたかの様な、曇り無き毛並みは何だろうか。

 これこそが奇跡、いや神秘の獣と言うべきだった。


 そして処置も完璧。剥がれた皮には血や肉の汚れは欠片も残さず、それでいて傷の一つも付けられていない。下処理の幾つかを省く事が出来る程に、素晴らしい処理がされていた。

 冷静な振りをしながらも、シャビルバは興奮を抑えられずにいたのだ。


「特級のお嬢さんが持って来た見た事の無い毛皮にとんでもなく美味い肉。……竜肉ですかね?」

「ぶふっ! ――ば、馬鹿を言うんじゃ無いぞい! どう見ても獣じゃろうが!」

「ですが、ねぇ……」


 シャビルバ自身、あの破天荒なお嬢ちゃんなら有っておかしくないとは思いつつ、毛皮の形自身がそれを否定している。

 シャビルバが更に言い募ろうとした時、その惚けた声は新しい作業場の隅から聞こえて来たのである。


「違いますよ~。確かに幻のお肉で凄い値段が付きましたけれど、ドラゴンでは無いですねぇ」


 うぉっと仰け反ったシャビルバともう一人。

 声がした場所に目を向けてみれば、台に乗った小さな小屋の模型を、ディジーリアの人形が隅に据え付けているところだった。

 そして小さな小屋の扉を開けた人形が、こちらへ振り向いてから言うのだ。


「お肉も渡さないといけませんから、一応毎日様子を見に来るつもりですけど、何か有りましたらノッカーを使って下さいね」


 その言葉の通り、小さな小屋にはノッカーが付いている。

 小さな小屋の中へと姿を消した人形を見送って、シャビルバは深く息を吐いた。


「何にしろ、この仕事は気合いを入れて取り掛からんとな」

「ええ、全くです」


 待ち望んでいた変化が思いも寄らない訪れ方をした事に、シャビルバは頬を緩ませた。

 さて、来年からあのお嬢ちゃんに、どう依頼の話を持っていこうかと思いながら。

 真新しい作業場の中には、既に作業に入った職人達の、威勢のいい声が響き渡っていた。

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