カフェで彼女のことを思い出した午後

渚 孝人

第1話

相手先へ向かう山手線に乗っていた時に、営業がキャンセルになったという連絡が上司から来た。どうやら午後の予定はなくなってしまったみたいだ。僕は小さくため息をつくとイヤホンをはずし、次の駅の駒込でホームへ降りた。電車は音を立てて発車し、背中の方から少し暖かい風が通り過ぎた。さてどうしたものか。僕は何をするか考えるでもなく改札を通り過ぎた。ゴールデンウィーク開けの5月の平日、太陽の光は街に降り注ぎ新緑はその光を眩いばかりに反射している。


少し古びた本屋で新刊の推理小説を買い、目についたカフェに入った。平日の午後で客はそれほど多くはない。店内にいたのは大体が中年の女性だった。僕は店員を呼び止めてブレンドコーヒーを一つ頼んだ。

「ご一緒にケーキはいかがですか?セットにしますとお安くなりますが。」とアルバイトの女性店員は言った。

「そうですねえ。」と言いながら僕はメニューに書かれたケーキの写真を眺めた。


苺のショートケーキ、モンブラン。確かに美味しいけれど、そんなに甘い物を食べたい気分ではなかった。

僕の心を読んだかのように女性店員は言った。

「もし甘いものがお好きでなければ、チーズケーキはいかがでしょうか?当店のチーズケーキは人気なんですよ。」

チーズケーキか。たまにはいいかも知れない。

「じゃあ、それでお願いします。」

「ありがとうございます。」と言って女性店員はにっこりと笑った。


お冷やを飲みながら小説を読んでいると、コーヒーとチーズケーキが運ばれてきた。食べてみると、人気と言うだけあって確かに美味しい。チーズは濃厚だが甘すぎず、ブレンドコーヒーと良く合った。2、3口ほど口に運んだ時、何かが僕の心を打った。


「そう言えばあいつ、いつもチーズケーキ食べてたっけ。」


2人で喫茶店に来ると、彼女はいつもチーズケーキを頼んだ。何でいつもチーズケーキばっかりなの?と僕が尋ねると、彼女はこう答えた。

「何でだろう?特別好きって訳じゃないんだけど、喫茶店に来たらなぜかチーズケーキが食べたくなるの。ほんとはチョコレートケーキの方が好きなんだけど、何でだろうね。」

彼女でさえ理由が答えられないのだから、僕にもその理由は全く思いつかなかった。でもあれから10年が経ってこうして一人でチーズケーキを食べてみると、不思議と彼女の気持ちが分かるような気がした。甘すぎない、それでいて優しい。チーズケーキは喫茶店で食べると、いつもとは違う魅力にあふれていた。


あいつ、今何してるんだろう。僕は窓の外を眺めながらぼんやりと考えた。10年も昔にたった3か月ほど付き合っただけの女の子、いや女性と言うべきか。正直な所、顔もぼんやりとしか思い出せなかった。少しとがった鼻、大きめの耳、ちょっと広いおでこ。ひいき目に見ても美人とは言い難い顔だったかも知れない。でも顔の美しさというのは、彼女を語る上でそんなに重要な要素ではなかったような気がする。彼女は何というか、ミステリアスだった。僕が彼女の核心に触れようとした時、彼女はいつも腕利きの闘牛士のようにその身をひらりとかわした。


僕は机に置いてある推理小説を何となく眺めた。いつだったか、彼女がコナン・ドイルのある話が好きだと言っていたことがあった。

確か、百科事典を延々と書き写す男の話だった。そうだ、「赤毛組合」だ。僕は読んだことがなかったのでなぜ好きなのか尋ねてみると、彼女はこう答えた。

「最初にこの話を読んだときね、百科事典をただ書き写すなんて馬鹿みたいだし、絶対やりたくないって思ったの。でも段々こう思うようになったの。私たちの仕事って、結局百科事典を毎日書き写しているのとそんなに変わらないんじゃないかって。」


長い事働いていると、時々彼女の言っていたことが分かるような気がする。仕事って、確かに結局は同じことの繰り返しだ。でも彼女はそれを、ネガティブな意味で言っていた訳ではないと思うのだ。むしろその逆だったのだと思う。つまり単調な繰り返しの中にこそ、大事にするべきものが隠れているということ。恐らくそれが彼女が言いたかったことだ。言葉には出さなかったけれど、彼女の口調や表情はそう語っていた。


窓の外の桜はもうすっかり葉桜に変わっていた。彼女と上野公園へ桜を観に行った時、桜はもう散り際だったのを覚えている。

「ねえ、何で今日にしたの?満開の時の方が良かったのに。」と僕は言った。

彼女は桜の舞い散る様を見上げながらこう答えた。

「桜は、散り際が一番綺麗なんだよ。満開がずっと続く桜なんてないの。満開がずっと続く人生がないのと同じように。」


僕は彼女の言葉を思い出しながら緑に色を変えた桜を眺めた。その姿には春先のような華やかな美しさはなかったけれど、心の澄むような清々しさがあった。そうだ、桜の満開の時期なんて一瞬で過ぎ去ってしまう。人生と同じだ。けれど桜はその後も、新緑の若葉を見せてくれているのだ。多くの人たちは、その横を通り過ぎてしまうかも知れないけれど。


僕はイヤホンをつけて、彼女が好きだったテイラースウィフトのBegin againを流した。耳の奥に、心をくすぐるような優しいメロディーが流れ込む。10年前はテイラーがまだカントリーソングを中心に歌っていた時代だった。

僕がなぜ好きなのかを尋ねると、彼女はこう言った。

「彼女のギターと声を聴いていると、何だか心の琴線に触れられたような気がするの。訳もなくただ泣きそうになる。屋根裏部屋で一人膝を抱いて両親の帰りを待っている子供に戻った様な、そんな気持ち。」


10年が経ってもう一度聴いてみると、彼女の言っていたことが何となく分かった。今のポップとかロックを歌っているテイラーもいいけれど、あの頃のギターと声で奏でられるカントリーソングは、心の一番深い所に直接降りてくるような優しさと悲しさに満ち溢れていた。

僕は目を閉じてその響きの中に心を沈めた。たった3か月だったけれど、彼女は僕に多くの示唆を残して去って行ったのだ。人生というものを、より深く感じられるような多くの示唆を。



気が付くと僕は、喫茶店のソファーで眠り込んでいたようだった。目を開けて店内を見渡すと客は減り、窓の外の日は少し陰っていた。もう夕方が近いのだろう。時計を見ると4時を回っていた。

僕は残っていたコーヒーを飲み干すと会計を払って外へ出た。太陽の穏やかな光を浴びて、大きく一つ伸びをした。

そしてふとこう思った。自分は彼女のように、誰かの心に深く残るような生き方を出来ているだろうかと。いや、それは難しいかも知れない。彼女はやはり、普通とは違う特別な感性を持っていたのだ。いつか彼女にもう一度会えたら、また尋ねてみたいと思った。彼女が今までに見つめてきた、世界の姿について。

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