キャシー先輩は英語が苦手
六月下旬。梅雨本番を迎え、湿度と気温が高まる。
藍沢さんの台本執筆も大詰めとなっている。徹夜はしていないでしょうね、と私なりに気を遣ってみると「深夜テンションというのは、必ずしもプラスに作用しないんです。なるべく日を跨ぐことなく眠るようにしていますよ」と言う彼女だった。
当分は執筆に集中したいと話した藍沢さん。ここ数日の放課後は、教室前ですぐに別れ、隣のクラスの照井さんと合流して部室へと行くを繰り返している私。
月曜日以外は宮尾先輩も練習に参加してくれ、あのキャシー先輩も顔を出してくれた。私の発声が上達しているのかチェックしてもらった。
照井さんはキャシー先輩の目力に気圧され、宮尾先輩の後ろに隠れようとしていたが、彼女の長身では無理があった。「なによ、あたしってそんな怖い?」といじける先輩に、いつもどおりのんびりと「可愛いよぉ」とフォローする宮尾先輩だった。
照井さんはアニメの影響とはいえ、合唱部に入る決意をして実際に入っていただけあって、発声はけっこうできるんだよね。中学生の頃は吹奏楽だったみたい。「いっそミュージカルにするように藍沢に頼んでみたら?」と笑うキャシー先輩に、首を横にぶんぶんと降っていたけれど。
ところで七月初旬に三日間かけて実地される一学期の期末考査のテスト範囲が発表された。未履修の部分もわずかに残っている。五月の大型連休前にあった、主に中学生の範囲での学力試験や五月半ばの中間考査と異なり、高校生になってはじめての全教科のテストである。
照井さんは私と藍沢さんの訪問、そしてアニメ鑑賞会を経て、不登校を脱してまた通い始めたが勉強には遅れが出ていた。私や藍沢さんと違って、理系(予定)女子らしいが、英語と社会分野はかなり苦手なようだ。
「勉強会しないとねぇ」
そう提案したのは宮尾先輩。
藍沢さん不在の、木曜日の放課後のことだった。ストレッチからはじまり、発声練習に体幹トレーニング、そして導入を検討している即興劇等の演劇部らしい別の練習について話し合っていて、話題が勉強に飛んだのである。照井さんがテストへの不安を漏らすと、そういうことならと宮尾先輩が力になってくれるとのこと。
「キャシーちゃんも参加してくれるよねぇ?」
「悪いけどパス。あたしは勉強は一人で集中してやりたいタイプ。てか、そうしないと捗らない。中学のときに、それで痛い目見たわ」
聞けば、成績の悪い親友のために時間を割いた結果、志望校を変えないといけない事態になったのだとか。その親友のために時間を作っていたのを考えると、望ましい結果は出なかったけれども、キャシー先輩の心根は優しいのだとは思う。
「ムカつくのは、最終的にそいつのほうが上の高校にいったってことなんだよね。入ってすぐ、彼氏作って自慢してきたし。今じゃ、全然連絡取り合っていない」
吐き捨てるように言うキャシー先輩だった。照井さんがびくびくしている
……。優しさだけでは生きられない世界なのだな。うん。
「テルちゃんたちは日曜日って時間空いている?」
キャシー先輩を誘うのを諦めた宮尾先輩が照井さんと私に問う。ちなみに照井さんのあだ名はルール通り、テルちゃんとなった。
「は、はい! いくらでも空けます。ガラガラです!」
「私も予定はありません」
「それならどこかに集まろうかぁ。えーっと、どこがいいかなぁ」
「そ、それなら、わ、私の家でよければ使ってください。ここから徒歩でいける場所なので」
「ありがとねぇ。助かるよぉ。シノちゃん、アイちゃんを誘っておいてくれる?」
「でも台本書くので忙しいから来ないと思いますよ」
「それでも誘っておかないと、あとで怒っちゃいそうだからねぇ。そうじゃない?」
それはそうだ。除け者にするだなんてひどいです云々と無表情で喚く彼女が頭に浮かぶ。それに勉強会に関して言うなら、前に彼女からも話があったので、声はかけておくべきか。
「篠宮さんは、藍沢さんとは幼馴染なんですか?」
ふと照井さんがそんなことを訊いてくる。
「ちがうわよ。そんなふうに見えないでしょ」
「えっ。み、見えますよ? 表に出さないだけでどことなく通じ合っている雰囲気で、尊いものを感じます」
「……何を言っているかよくわからないけれど、照井さんまで私に敬語を使うことないわよ。あの子はああいう口調だけれど。私のことを名前で呼んでくれてもかまわないわ」
「ええっ!? そ、それはちょっと。それこそ藍沢さんに何言われるか……ううっ」
大きな背中を丸める照井さんに、キャシー先輩がやれやれといった具合に肩をすくめ、宮尾先輩はやっぱりにこにこしている。なんだこの空間。
「じゃ、じゃあ、間をとって宮ちゃんって呼ぼうかな、あはは……」
「それだと宮尾を呼んでいるみたいでしょ」
すかさずツッコミを入れるキャシー先輩。ひいっ、と小声で叫ぶ照井さんだった。
そんなわけで、もうしばらくは篠宮さんと言われそうな流れであった。それなのに「歌織と呼び捨てでかまいませんから」と言われても、困る。もしかしなくても、コミュニケーション能力が高いと、こういう呼称でああだこうだ言わないのかな。
その夜、藍沢さんから勉強会への誘いの返事がきていた。
『順調に進めば、土曜日に草稿が整うんです。ですから、日曜日にそれを持って参加します。篠宮さんが一番に読んでくださいね』
稽古をしていく流れで訂正があるのを前提としているから、彼女の言う草稿というのがとりあえずの決定稿ともなる。つまり、六月末が期限とされていた台本という意味で。部員たちを召集して、全員の賛同を得ないといけない代物。
雪乙女――――。
主人公はあたたかな心と涙を失った少女。ううん、そう思い込んでいた少女、か。そして出逢うのは美しい妖。設定だけみれば、ありふれた物語をどう彩るのか。藍沢さんはどんな台詞を書いているのだろう。ト書きってどのぐらい細かく書いているのだろう。私はそれをどう演じていくのだろう。
わくわくした。日曜日が。
雨止まぬ日曜日。
私は学校の最寄り駅で宮尾先輩と落ち合って、照井家に向かう。照井さん自身が駅まで迎えにいきましょうかと申し出てくれたが、雨の中を歩かせるのもと思い、断った。ちなみに藍沢さんは少し遅れるそうだった。あのキャシー先輩も渋々入ってくれている演劇部のグループチャット上で、藍沢さんがその旨を報告したのが一時間前。
私たち一年生三人組は、グループチャットなんてしたことがなかったのはここだけの話である。
それに関連して、照井さんの交友関係について触れておくと、合唱部を退部して今や演劇部一本となった彼女はクラスでは浮いてしまっているという。幸いにも、慈愛と使命感に溢れる委員長と、偶然前の席になった誰にでも優しく面倒見のいい女の子のおかげで、孤立まではしていないそうだった。捨てる神あれば拾う神あり、と言ってしまうと彼女が捨てられたようなのであるが。学校に来てくれさえすればフォローもできるし、話も聞ける。廊下ですれ違った真壁先生にも感謝されたっけ。「うまいことやるもんだな」ってのは感謝ではないか。
「るるも気にはなるんだよねぇ」
駅から出て、傘を差して並んで歩くと宮尾先輩が口にした。
「何のことですか?」
私としては宮尾先輩の私服姿が妙に気合が入っていることのほうが目に着く。ガーリーな白いティアードミニワンピというのは、後輩との勉強会で着て来る服装としては普通なのかな。経験がないから判断に困る。参考書類が詰められているであろうハンドバッグはやや膨らんでしまっている。
「シノちゃんが、アイちゃんをどうやって虜にしたのかだよぉ」
だよぉと言われても、何の脈絡もなかったはずだ。いや、たしかにさっき会ったときに挨拶をしてかから藍沢さん遅れるみたいですねとは口にしたけれど、だからって。
「虜になんてしていませんから。慕ってくれているのはわかりますが」
「ええっとねぇ、今でこそ、るるとも仲良くしてくれているアイちゃんだけどぉ」
「入部したての頃は違ったってことですか?」
藍沢さんが高校に入学し、演劇部に所属してからの二カ月。私はその頃に関しては、彼女をほとんど知らない。クラスメイトではあったので、名前は覚えていた。
ううん、その理屈だと今現在も隣の席である前田君も覚えていないとダメなんだけれど、とにかく藍沢さんは顔を名前が一致していたのだ。人柄までは把握していなかった。入学式直後のHR、あの子はどんな自己紹介をしていたっけ。愛想のない簡単な、つまりは私と同じで、他の人の記憶に残らない部類の紹介ではなかったか。
「そうだねぇ。理想と現実のギャップに打ちひしがれていたんだぁ」
「というと?」
「よくある話だよぉ。高校生は中学生と違う。中学生ではできなかったことができる。そうに違いない。そんな気持ちでやってきてくれて、でもそうでもないと思い知っちゃう」
「藍沢さんはうちの高校の演劇部に過度な期待を寄せていたと?」
「早い話、そうだねぇ。けど、不思議だよねぇ。だってうちの演劇部、べつにここ数年で、大会に出場して誇れる成績を残していたわけではないのにねぇ。演劇部があるってだけで、アイちゃんは興奮したのかなぁ。なんだか躍起になっていたよぉ。その熱量はるるたちには、ちょーっと、合わなかった」
「…………」
空回りしたってことよね。
中学一年生のときも藍沢さんは当時の顧問と諍いがあって、雑用仕事に徹していた――――誉ある裏方仕事だってあるには違いないけれど――――のが、高校生になって、また新しい環境でやらかした。
聞けば、木下部長をはじめとして、先輩部員たちにあれこれと無理難題や禅問答や頓珍漢な発言を押し付けていたのだという。あの無表情と恭しい敬語で。
「シノちゃん、気を悪くしちゃったらごめんねぇ」
「いえ、そんな」
「あのねぇ、るるが言いたかったのは、そんな自分一人で突っ走っていたアイちゃんが今では、シノちゃんを頼りにして周りとも足並みを揃えようとしているってこと。あの日、アイちゃんがキャシーちゃんたち相手に、台本執筆の件を宣誓した場に、るるはいなかったんだけれどその時には既にシノちゃんと仲を深めていたんでしょ?」
「え? ちがいますよ」
その数日後に私は放課後の図書室で藍沢さんに長話を一方的にされている。
「またまた~。だって、聞いたよ、キャシーちゃんから。そのときのアイちゃんが自信満々にヒロインにあてがあるって話していたって」
「はったりですよ、きっと。そこを含めて、キャシー先輩が言ったように博打だったんです。演劇部を彼女が望む形で動かすための。藍沢さんらしいです、ある意味」
「そうかなぁ。どっちにしても、アイちゃんの心を射止めたシノちゃんはすごいよぉ」
褒めてくれる先輩に、私は曖昧な返事しかできなかった。
「あの……言うのが遅れてしまいましたが、今日の先輩の服可愛いですね」
「え~? シノちゃんったら、るるまで口説こうだなんて生意気だよぉ? えへへ~」
満更でもない様子の先輩をよそに、私が考えていたのは藍沢さんのことだった。
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