朝に弱いから早くは来ない
翌日、火曜日。
私たちの住む地域で梅雨入り宣言がなされた。雨が降っていると自宅から最寄り駅までの道のりが遠く感じる。普段、自転車で通学している生徒は大変だろうな。
学校に到着して教室に入る。藍沢さんの姿を探すが、まだ来ていない。
昨日はどうだったか、それ以前はどうだったのかを思い出そうとする。私のほうがいつも早く来ているんだ、たぶん。
そもそも、高校に入学して以来、登校してすぐに誰かを目で探すなんて初めてだった。そういうの本人に言うと、喜びそうだから言わない。まぁ、今はいないわけだけれど。
なんでなのかな、って昨晩は何回も同じ疑問を抱いてしまった。
藍沢さんに渡されたプロットを読み直して、それぞれの物語、そのヒロインを自分が演じるとしてと考えてみて。それでなんでなのかなって。
あの子が私を選んだ理由がまだ伝わっていなかった。
彼女に「まだ伝わっていませんでしたか」と返されたときに「伝わっていないわよ」と突きつけてやればよかった。
舞台に上がることに前向きになったくせして、いざ具体的な形でヒロインを要求されると、自分にこれができるのかと怯んでしまった自分がいて憂鬱になる。自己嫌悪。もしも藍沢さんが口ばかりで全然大したことない物語を書いてきたのなら、ううん、そんなたらればって誰も得しない、望んでいない。
一時間目の数学の宿題でも見直そうか、それとも持ってきている文庫本を読もうか。勉強か読書。この二カ月、私が朝の時間にしてきたことってそれがすべてと言ってもいい。そういう態度だから誰も話しかけてこないのか。などと考えていると、斜め前方の席でノートを広げてシャーペン片手に課題にでも取り組んでいると思しき女子に、今まさに教室に入ってきたもう一人の女子が声をかける。そして「今、予習しているんだから邪魔すんなってー」と笑いながら話し始めた。
本気で邪魔とは思っていないのは私にだってわかる。
ああもう、なんで今日に限ってそんなの気にしちゃうんだか。
私は席を立つと、窓辺にいって外を見やった。雨だ。知っていた。いい風景でもなんでもない。知っていたのに、べつに見たくもないのに、しばらくそのまま呆けた。
「様になりますね」
そんな言葉を背後からかけられ、反射的に振り返っていた。
自分と関係ない声――――とは思わなかった。
それが藍沢さんの声だとわかったから。
「おはようございます、篠宮さん」
「あ、うん。おはよう」
「どうしたんですか。朝一から悲劇のヒロインの役作りですか。雨景色に物思いに耽るだなんて。いっそ外にいって雨に打たれるのもありかもですね。そのほうが悲壮感あります」
「風邪引くでしょ」
「あと、人目も引いちゃいますよね。どうしたんです? 何か悩み事ですか」
「プロットの件」
「候補がまだ決められないと」
「そう」
口をついて出てしまった。
この子に遠慮はいらない気がしていても、そのまま言うのではなく遠回しに伝えたかった。まだちょっと候補は絞れていないんだってのを、自分からそれとなく。
彼女からすれば、物語のアウトラインしか記されていない六つの物語のうちで、どれがいいかを一晩かけても決められないなんておかしいと感じるだろう。
幻滅されてもいい。ただ、自分の弱さを彼女に晒したくないと思った。このふたつって矛盾するだろうか。
「大切に想ってくれているんですね」
「えっ?」
「劇のこと。でなければ、さっと決めちゃうだろうから。さささっーと」
「なによそれ。私は……優柔不断なだけ。それに私が、その……舞台に上がるわけだから。変に慎重になっちゃっている」
周囲の生徒が耳をそばだてていないとも限らない、私は小声で言う。
でも、よくよく考えてもみれば、いずれは伝わるのだから堂々としていたほうがいいのかも。文化祭当日までの秘密ってことはないでしょ。
「ちがいますよ」
「何がよ」
「篠宮さんはぐずぐずしているのではなく、大切にしてくれているんです。そう思ってはいけないですか?」
藍沢さんが小さな一歩を踏み出して言う。その歩みで私と彼女の距離はぐっと狭まって、私はたじろいでしまったのだから、ある意味で大きな一歩だった。
「べつにいいけれど」
自分でも素直じゃないってわかった。でも、急にはやめられなかった。
「明日は宮尾先輩とのレッスンの日ですよね」
「ええ、そのはずよ。ストレッチから教えるから、体育がなくても体操服を持ってきてねって」
「わたしもご一緒しますね」
「それはそうでしょ」
「そう言っていただけるなら、わたし、まだ嫌われていないですね」
「まだっていうか……」
嫌う予定はない。その台詞はなんだか彼女に言わされたふうだから避けた。
「あんたが私を引き込んだのだから、そこはちゃんと見ていなさいよ。近くで。いいわね」
「はいっ。責任とってよね、ってことですよね」
「それなんか違くない?」
あっていますよ、と微笑む藍沢さんをしっしっと手で払って彼女の席へ戻した。
私も自分の席に戻る。その前に、何気なく窓の外をもう一度見た。光の反射で映る私はどこか安堵した表情をしていたのだった。
昼休みに「何もしていないのは落ち着かなかったので」と藍沢さんが例の六つのプロットの加筆修正版をしれっと渡してくれた。ルーズリーフに六つともに加筆と修正。律儀という印象よりも熱心。それは最初からか。だから嫌いになれないとまで言うつもりはないが。
あっという間に放課後を迎える。雨は止む気配がない。
私は藍沢さんに肝心なことを聞きそびれていのを今更になって気がついて、一緒に帰ろうと誘いに行った。ううん、行くつもりだったのだが、終礼が終わると、藍沢さんはバッグを持って何の躊躇もなく私の席にやってきて「では、帰りましょうか」と口にした。あまりに自然で、かえって調子が狂ってしまったほどだった。
隣に座る、古文と英語表現の授業間に「藍沢と仲良いの?」と訊いてきた横……ではなく前田君が、ああやっぱりみたいな顔していた。ちなみに私は「まぁまぁ」と応じたのだけれども。
「藍沢さん、こんな歩きながら聞くことではないかもしれないけど、いい?」
校門を出たところで私がそう言うと、傘を少し傾けて藍沢さんは灰色の空を仰いだ。
「では商店街に寄りましょうか。ほら、例のお肉屋さんのコロッケ。食べておくと、明日に宮尾先輩の好感度が上がりやすいでしょうから」
「そんな効果はないわよ」
「鰯の頭も下心からですよ」
「信心よね、それ」
「アーケード商店街なんです。だからお互い水入らず、水濡れず、傘いらずで過ごせます。話したいことがあるなら、そこで」
「良いこと尽くしってやつね」
「踏んだり蹴ったりですね」
「願ったり叶ったりでしょ」
そうして私たちは件の商店街へと向かった。
校則遵守の優等生ぶりたいわけではないが、普段は一人で寄り道して買い食いしない私にとっては、この前の洋菓子店といい、今回の商店街といい、初めて訪れる場所だった。私がもともと住んでいた町にあったのとそう大きく変わらない。活気に溢れているとは言い難い、田舎の商店街。
いわゆるシャッター通りにはなっていないから、まだ見込みはあるのか。
懐かしい匂いがする。
商店街で駆け回るような幼子でなかったというのに、この商店街からはノスタルジーを感じた。
「わびさびですね」
「そこまで奥深い美意識がここにあるのかと問われると、首を縦に振れない自分がいるわ」
「ですね」
高校生相手も慣れているのか、私たちは愛想のいい肉屋のマダムから、包み紙から顔を半分だしたコロッケを受け取る。「昔はもっと安かったらしいですよ」と藍沢さんが店を出てから言った。宮尾先輩の受け売りだという。訪ねたことはないが、商店街から徒歩数分の高層マンションに住んでいるそうだ。
先輩が生まれた頃は近辺で最高層のマンションだったが今はそうではなく、マンションを見上げて「昔はもっと高かった気がする」と漏らしていたのだとか。
これは藍沢さんなりのジョークなのかな。
「それで聞きたいことがあるんですよね」
「うん。聞きそびれてしまっていたわ」
「推理していいですか」
「は?」
「こうして同じ釜の飯を食べた仲ですから、何を考えているかは、しゃもじを手に取るようにわかります」
「よそうな、よそうな」
「釜飯にコロッケっていけそうな気がしません?」
「推理どこいった」
「ずばりっ、わたしの得意科目と苦手科目についてですよね」
「ごめん。興味ない」
「ですが、今月末からは期末試験です。台本執筆の進捗によっては赤点必至になります。しかし篠宮さんと勉強会を開催すればそうしなくて済むというもの。ああ、我ながらなんて名案。懸念は、お互いに苦手科目が一致していた場合に効率が悪くなってしまうことです。ですから、興味ないねなどとクール気取りせずに聞いてください、そしてわたしにも篠宮さんのことを教えてくださいませ」
台本の件を出されたら、答えないといけないふうになってしまう。
情報交換の結果、私たちはどちらもが文系寄りと言える成績をしているのが判明した。直近にあったテストは一学期中間テストであるが、あれは高校生活上で最も易しいテストであるはずだから、あまりあてになるデータでもないか。私たちがクラスを別にする、つまり入学時点でコースが違うのならまだしも、実際には入学時の成績に大差はないのだ。おそらく。
「意外ですね。篠宮さんは、数学が得意だと勝手に思っていました。計算高いとか打算的って言われません?」
「それ、数学の成績と関係なくない?」
言われた記憶はない。相手がいない。悪女ではない、たぶん。
「困りましたね。まさかクラスのいかにも才色兼備な美少女が実は全教科平均よりちょっとだけ上の、話題にしにくい人物だったなんて」
「しなくてよろしい。はぁ、中学校のときと比べると、科目の細分化で自分の得手不得手が否応なしにわかっちゃう……って、それはいいのよ。こんなのはいくらでも学校で話せるのよ」
「そう言う割には、わたしに話しかけてこない篠宮さんなのでした」
「うっさいわね」
お互い、コロッケを食べ終えてしまった。予定と違う。まぁ、もとよりコロッケ一個分で終わるような話でもなさそうだから、いいか。美味しかったし。
「では、そろそろ本題としますか。けれど、学校では聞きにくいことって……えっと、わたしの性感帯がどこか、みたいな?」
そんなの聞いてどうするんだ。私は藍沢さんを睨みつける。
「私が聞きたいのは、あんたが演劇に惹かれたきっかけよ」
ぶっきらぼうになった私の問いかけを耳にした藍沢さんはどこか嬉しそうであり、そして悲しそうでもあった。
もしかすると私はクラスで一番彼女の表情を読み取るのに長けた人間に、ここ数日でなってしまったのかもしれない。
幸か不幸か、それを確かめる試験はない。
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