第29話:グレイゴースト
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地を這うような速度で、エミリアは徐々に竜症から快復していった。それは確かに良い知らせだったが、俺たちの予想や願望よりもずっと遅い快復だった。彼女の竜症を甘く見ていたわけじゃない。ただ、俺たちは期待してしまっただけだ。エミリアの燃えるような情熱と決意に彼女の体が反応し、奇跡的な快復を見せるんじゃないかと。皆は俺たちのはかない希望を笑うだろうか。どん底に蹴落とされたら、誰だって夢を見るじゃないか。
奇跡的な快復、なんてものはなかった。確かに、竜症の一番ひどい病状は収まったが、彼女の体の中からは炎症の原因となった竜因が少しも減っていない。エミリアを診た医者は「骨組織にまで竜因の侵蝕が進んでいます」と言っていた。「お気の毒です」とその医者は無痛の顔でうなずいていた。あのひどい高熱と悪寒は、骨まで竜因が蝕んでいたからなのか。
エミリアの苦痛を考えると、俺は心臓が錆びた刃物で抉られるかのようだった。それでも、エミリアはベッドから起き上がり、食事をし、自力で歩き、前へ進もうとしている。その目に、ばい煙で汚れた空を写して。
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ある日の午後。俺はエミリアに付き添って一緒にエリザベスの屋敷の庭を歩いていた。ただの散歩ではなく、れっきとした体力トレーニングだ。そういえば、散歩とは極東の方では、仙人を目指す人間が秘薬を飲んだ際、発生する熱を散らすために歩くことを指していたと聞いたことがある。その秘薬には、竜因を含む竜の角や牙を煎じたものが入っていたらしい。だとしたら、俺たちの行動にも意味があるのだと思いたい。
「勉強の方はどうだ」
頼りない足取りのエミリアの隣で、俺はゆっくりと歩を進めながら言う。
「家庭教師の教え方が上手で、今のところ問題はないわ」
「嘘はつくなよ」
「しないわよ、そんなこと」
エミリアがかすかに笑う。こいつの通うエリウゲナ学院は金持ちの子供が通う学校だ。家柄や資産だけじゃなくて、頭の中身もそれなりのものが要求される。名前のスペルが間違ってさえいなければ卒業できるとまで言われた、俺が通っていた学校とは大違いだ。
「ジャック、あなたは学生の頃どうだったの?」
エミリアにそう言われて、俺は昔を思い出す。ろくでもない学生時代だった。
「補習から逃げ回ってばかりだったな。試験をうまい具合にさぼる言い訳を思いついたら、仲間内で共有するんだよ。おかげで、教師は何十回も別の生徒からまったく同じ言い訳を聞く羽目になったらしい」
「なんなのそれ、めちゃくちゃじゃない……」
「そんなだったから、ライダー試験の筆記で地獄を見た。俺のようにはなるなよ」
「安心して。そんな綱渡りな学生生活、したいとも思わないから」
エミリアは真面目にそう言った。確かに、エミリアが目指すのは冒険家を導く先導者としてのライダーだ。頭の中身がスポンジ同然では務まらない。エミリアにはライダーとしての技術のほかにも、地理や気象やあらゆる生物学、植物学の知識を学ぶ必要がある。
「歩くのも立派なトレーニング、よね?」
しばらく無言で庭を歩き、やがてエミリアは少しだけ不安そうな顔でこっちを見た。
「そうだ、エミリア。今の君の体にはまだ、竜因が高濃度で溜まったままだ。少しずつ排出するしかない。それまでフライトはお預けだ」
「分かってるわ」
エミリアはやや強引に俺の言葉を遮る。
「分かってるけど――もどかしいわね」
「そうだな」
その気持ちが、俺には痛いほどわかった。だからこそ、俺ははっきりとこれからの状況を口にした。
「これから当分、俺たちは他のライダーが竜に乗り、レースで栄光を手にするのを指をくわえて見ていなくちゃいけない。蚊帳の外って奴だ」
エミリアは黙り込む。容易に想像できたのだろう。健康ならば出場できたレースを見学しかできず、自分以外のライダーが表彰台の栄光に浴するのをじっと見ていなければならない場面を。事前に予測できれば、少しは直面する前に心の準備ができるだろうか。俺はそんな気持ちからあえて言ってみたのだが、もしかすると逆効果だったかもしれない。
「苛立ったら俺に当たれ。少しはすっきりするぞ」
「余計に惨めになるからしないわ、そんなこと」
エミリアはあっさりとそう言って横を向いた。
「……話題を変えよう。玄関に飾ってあったバラはずいぶん見事だったな」
口下手な俺は、何を言えばいいのかわからず、不器用にそう言って話題をそらすしかなかった。
「ああ。あれ、アーサーがお見舞いで持ってきてくれたの」
「あの英雄様がか?」
「彼とのレースの約束、果たせなかったわね」
「まだチャンスはあるさ」
そう、まだチャンスはある。少なくとも、チャンスはあると思いたかった。竜症という壁に盛大に正面衝突したエミリアとは異なり、アーサーはドラゴンライディングのライダーとしてまさに王道を堂々と進んでいる。あの聖剣の輝きに捕らえられて逃れられたライダーはいまだにいない。もはや彼のレースは、二位以下のライダーを予想するだけの遊戯になりつつある。
「ジャックは辛抱強いのね」
エミリアが俺を誉めるが、俺は首を振った。俺は何もしていない。ただ、こうやってエミリアの隣にいるだけだ。その程度のことなら、誰だってできる。
「よせよ。ただ単にあきらめが悪いだけだ。救命ライダーってのはしぶといんだよ」
再び俺たちは無言になった。本当にしぶとければ、空から落ちたって何食わぬ顔で復帰できたはずだが、俺はずいぶんと長く地べたを這いずり回っていた。けれども、優しいことにエミリアはそこを追求することはなかった。
「――ねえ、ジャック。アイルトンカップの前に、なぜ私がライダーを目指したか教えてあげるって言ったわよね?」
「ああ、覚えている」
少し疲れたらしく、エミリアは立ち止まって俺を見た。
「私はね――見たことがあるの。あのグレイゴーストを」
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