第28話:幻影来たる02
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「見て分からないのか? 俺は忙しいんだ。与太話はまた今度にしてくれ」
俺の名前をなぜ知ってるのか、そういうことはどうでもいい。もしかするとこいつはオールドレディの知り合いなのかもしれないし、アーサーの友人かもしれない。少なくとも、俺にはどうでもいいはずだった。しかし、ファントムの次の言葉に俺は衝撃を受けた。
「君は、新しい右腕が欲しくはないかね?」
「……なんだって?」
白いのっぺりとした仮面の奥で、ファントムが含み笑いをした気配が伝わる。俺は無意識に義手の付け根を左手で押さえた。
「単刀直入に言おう。君に新しい右腕をあげようじゃないか。ただし、代わりに私の願いを聞いてもらいたい」
「お前……何者だ?」
しかし、ファントムの声に俺をからかっている感じはない。心底こいつは俺に右腕をあげる代わりに、自分の願いを聞いてもらいたがっている。その態度に俺は不気味なものを感じた。
「私は君の失ったものだよ。そして同時に、私はそれを取り戻せる力を持っている者だ」
「失ったものが多すぎて、見当がつかないんだが」
嫌味な奴だ。人の古傷を抉れるくせに、わざと一番痛いところに刺さずに周辺をつついている。思わせぶりな言葉と、安っぽい喜劇役者のような動作。そのくせ、底のしれない異質さがどこまでも付きまとっている。
「少なくとも私は、竜に乗る故にライダーだよ。翼で語る私たちに、それ以上の情報が必要かな?」
ライダーだと言われ、俺は少しだけ安心した。ライダーならばまだ、話が通じる。しかし本当にそうなのか、俺は尋ねた。
「その竜の名前は?」
ライダーにとって、竜は相棒であり何よりも信用するべき存在だ。もしファントムが本当にライダーならば、竜をどう呼ぶかで見極められるはずだ。
「イラストリアス」
ファントムは即答した。その声の響きには、確かにライダーらしい竜とのつながりを感じた。
「知らない名前だ」
俺はそう言いつつも、わずかにこの滑稽で不気味な男を信用する気にはなった。少なくとも、ライダーであることは確かだからだ。
「俺に新しい右腕をくれる、と言ったな。ライダーで技師とは忙しい奴だな、お前は」
「君が欲しい右腕は、最新の機能がついていて、一流のメーカーが製造した高級品ではないだろう? 私は君に――痛みのない右腕を与えることができる」
こちらを弄ぶようなファントムの言葉に、俺はたじろいだ。俺はこいつを何も知らない。それなのに、こいつは俺のことを何もかも知っているかのようだ。チェスで達人を相手にしている初心者の気分だ。こちらは五里霧中の盤面でうなっているのに、相手は余裕綽々でこちらの手の内を予想し尽くしている。
「なぜ俺の幻肢痛を知っている?」
「知っているんだよ。君の痛みは、我が事のように感じる」
かすかにファントムの声に、苦痛のようなものが混じった。なぜそこで同情するのか、わけが分からない。俺を弄びながら、同時に傷ついているなど理解不能だ。
「……お前の願いはなんだ」
だからこそ、俺はつい尋ねた。
「簡単な話さ。もう一度、空を飛んでもらいたい」
「さっきまで飛んでいたぞ」
「こんな低空ではない。もっともっと高く、遠く、君がかつて飛んでいたところまで、君自身の竜で来ていただきたい」
改めてファントムは俺に凝った仕草で一礼する。舞台で観衆を前に深々とお辞儀する道化師のように。
「我が名はファントム。大空という舞台で喜劇にして悲劇を演じる孤独な演者。ジャック・グッドフェロー、貴公を私の劇場に招きたいのだ」
頭を上げたファントムと俺の目が合う。夜だから分かりにくいが、恐ろしいほどの空虚な目だった。何一つそこにはない。深酒に溺れていた俺だって、きっと泥沼のような目だっただろう。なのにファントムの目は空っぽだった。情熱も諦観もない、正真正銘の虚無がそこにあった。
「最近のライダーの業界は頭のいかれた奴が野放しだな。ギャロッピングレディがコースを我が物顔で跳ねまわり、ファントムがレースを三文芝居か何かと勘違いしている」
俺はわざと皮肉たっぷりに答えてやった。
「悪いがお断りだ。俺は忙しいんでね」
「ギャロッピングレディのコーチングに四苦八苦、と言ったところかな」
「あのお嬢さんはとんでもないじゃじゃ馬でね。すっかり冷えたはずの燃えカスに無理やり火をつけやがったんだ」
そうだ。何がファントムだ。何が孤独な演者だ。俺に痛みのない右腕をくれるだと? エミリアはなんて言ったと思う? あいつはとんでもないことに、俺が空に忘れたそれを代わりに見つけてくると言ったんだぞ。そこまで言われて――信じてもらえて――魂に火がつかないわけがないだろ。まったく、本当にとんでもないお嬢さんだよ、エミリアは。
「それにしても詳しいな。ライダーなんて辞めてドラゴンライディングのライターにでも転職したらどうだ? お前ならゴシップで食っていけるぞ」
「私と空は不可分の関係だ。演者である以上、幕が下りる前に舞台を降りることは許されていないのだよ。私は演じ続けなければならない」
相変わらずファントムの言葉は意味が分からない。いや、そもそもこいつは俺に自分の言葉を理解してもらおうという気さえないのだ。
「俺が飛ぼうと飛ぶまいとどうでもいい。でも、俺の教えるエミリア・スターリングには飛んでほしい。今の俺はそれだけだ」
俺は挑戦的に笑う。
「ファントム、お前が誰なのかは知らないが、見ていろ。必ずあの子は再び離陸する。あの子は誰も手にしたことのない自由を求めているんだ。あいつの竜が加速する先にきっとそれはある」
そうだ。それはエミリアの願いであり、俺の願いだ。あの子の祈りであり、俺の祈りだ。どこまでも自由を求めて、どこまでも自由に、エンタープライズに乗ってエミリアは空を駆ける。たとえ竜症で血を吐くほど苦悶しようとも、あの子は再び飛び立つに違いない。それこそがエンタープライズ(冒険心)だからだ。
「そのついでに、俺は自分の忘れ物を取り戻すさ。失くしたのは俺だ。だからきっと見つけるのも俺だ。お前がくれると約束する何かじゃない」
そんなエミリアの重荷にならないために、俺は再び飛び立つと誓ったんだ。痛みと罪悪感を抱えたまま、不格好に飛ぶのが俺はお似合いなんだよ。いまさら痛みのない右腕をくれるだと? ありがたくて門前払いにしたくなる申し出だな、それは。
「……いやはや。所詮私は大根役者か。たった一人のライダーの心さえ台詞で動かすことができないとは、つくづく私は芝居に向いていないらしい」
ややあって、ファントムは感嘆したようにわざとらしく両手を広げた。手足が長いので、操り人形のようなぎくしゃくした動きになっているのが言いようのない不安感を与える。
「分かったらさっさと帰れ。いつまでそこにいるんだ」
駄目押しとばかりに俺がさらに突き放すと、ファントムはようやくイラストリアスのサドルにまたがった。体重がないかのような軽やかな動きだ。
「では、なにとぞ彼女を空のかなたへと導いてくれたまえ。私はその時を楽しみに待つとしよう」
「おい、エミリアは関係ないだろ――」
ファントムの不穏な言葉に俺は焦った。こいつは俺に飽きたから、今度はエミリアにちょっかいを出すつもりなのか?
「アンヌン大渓谷。騎士の潔白を証明する神前の飛行場。君が飛ばないのならば、私が彼女を見定めるとしよう。安心したまえ。私は紳士だ。エスコートはこう見えて得意なのだよ」
「待て!」
叫ぶ俺を無視し、ファントムを乗せたイラストリアスはふわりと舞い上がった。ほとんど音も風圧もない、異様なほど静かな離陸だ。竜炎の熱さえも感じない。エンタープライズの、あの全身が震える重低音と、肌を焦がす熱さとは正反対だ。
「なんなんだ……あいつは」
月光さえも竜とその乗り手を照らすことはなかったようだ。闇の中に幻影のように消えていったファントムとイラストリアスを見上げながら、俺は苛立ちで軽く地面を蹴った。
「――ファントム(亡霊)だと?」
人をかき乱すだけかき乱して、一方的に仮面のライダーは飛び去っていった。そのくせ、ファントムからはなぜか不思議と懐かしい感じがした。どこかで会ったような気がするが、思い出せない。あの個性のありすぎる言動と、個性のまったくない外見とのギャップが激しい。確かに礼服に仮面といういでたちは特徴的だが、その下の体格にはまったく特徴がないのだ。
それにしても、亡霊か。
俺は、エリザベスの言ったとある正体不明のライダーの名前を思い出していた。
「……まるでグレイゴーストだな」
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