第19話:打つ手なし
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アイルトンカップ会場。俺は誰もいなくなった観客席に座ったまま、ぼんやりと空を眺めていた。何もかも終わった。エミリアの棄権をさらりと流し、司会は嬉々としてレースの主役とでもいうべきアーサー・フィッツジェラルドの紹介に終始していた。観客も、エミリア・スターリングがいないことに気づいてさえいないかのように、ル・ファンタスクに騎乗したアーサーに声援を送っていた。
レースは終始アーサーのペースで進み、司会もほぼずっとアーサーのことばかり実況していた。狂暴極まるル・ファンタスクが咆哮と共に空を駆け、アーサーの剣の形状のアームが振るわれる度に他のライダーが宙に舞いネットへと落ちる。独壇場という言葉がこれほどふさわしいレースも珍しい。一着は当然アーサーだった。果たして、竜症を患わず、体調を万全に整えたエミリアがどれだけあの聖剣に食い下がることができただろうか。鎧袖一触に叩き潰されたか。それとも互角に剣戟を交わしたか。いや……あの子ならば、もしかしたら。
そこまで空想していたことに気づき、俺は苦笑した。何を馬鹿なことを考えているんだろうか。全部妄想だ。優勝したのはアーサー。エミリアは棄権。そもそも勝負という同じ土台に立つことさえなかったのだ。こんな滑稽なことがあるだろうか。
「レースは終わりましたよ、ジャック・グッドフェローさん」
絶対に聞くはずのない声がした。爽やかで明るく、誰もが耳にしただけで声の主に好感を抱きそうな声だ。俺は空を意味もなく眺めていた視線を下ろす。
「英雄様がどうしてこんなところにいるんだ? 祝賀会はここじゃないぜ」
そこには、まだユニフォーム姿のアーサーが立っていた。『英雄』。簡素なその名称が、次第に『聖剣』に取って代わろうとしている。この少年は既にこの年齢で生きた伝説になろうとしているのだ。ドロップアウトしたろくでなしの俺とあまりにも対照的で、同じ場所に立ってるだけで世界が歪みそうだ。
「あなたの姿が見えたので。少しだけ、時間を取ってここに来ました」
「物好きだな、君は」
報道陣のみならず様々なスポンサーや政財界の有力者、ありとあらゆる有名人がドラゴンライディングの英雄を待っているというのに、アーサーはわざわざ時間を取ってここに来た。それを嬉しく思う気持ちも、光栄だと思う気持ちも俺にはない。ただ、煩わしいだけだ。雑巾みたいに絞っても、今の俺にはアーサーに対する賛辞なんて一つも出てこない。
「エミリアのことは、残念でしたね」
不愛想な俺に眉一つ動かさず、アーサーは隣に座ってそう言った。
「ライバルが一人減ってむしろ有利になっただろ? 喜んでくれよ」
わざと失礼なことを俺は言う。今更こいつに媚を売っても何にもならないし、むしろどこまで挑発すればその人好きのする顔が怒りで歪むか見て見たかったからだ。我ながら悪趣味すぎて自殺したくなる。
「心中、お察しします」
「やめてくれよ、白々しくて笑えてくるぜ」
俺は足を投げ出して再び空を眺めた。ばい煙でわずかに曇った空。俺にはこう見えるが、エミリアには耐えがたい汚れた空に見えるんだろう。俺はあの子に――こんな汚れ切った空じゃなくて、清浄な空を見てほしかった。だけど、俺がバカなせいで何もかもをぶち壊してしまったのだ。エミリアの夢を踏みにじったのは、ほかでもないこの俺だ。リチャードを死なせたのが、俺であるのと同じように。
「耐えきれない試練だよ、これは」
「え?」
「君が以前喜色満面で言っていただろう。『神様は耐えられない試練はお与えになられない』って。俺にとっては――これは耐えられない痛みなんだ」
俺の支離滅裂な告白にも、アーサーはうろたえなかった。
「ジャックさん……」
鼻で笑わずに耳を傾けてくれるアーサーに甘えて、俺は思っていることを口から垂れ流す。
「昔、こんな物語を読んだことがある。ある国に魔女の呪いによって眠り続けるお姫様がいた。彼女の眠りを解くためにたくさんの国からたくさんの王子が挑戦し、ことごとくがお姫様のところにまでたどり着けずに敗れ去る。ある者は道に迷い、ある者は怪物に食われ、ある者は呪いで石にされてしまう。九十九人の王子が失敗し、最後に来た百人目の王子がすべての害悪を打ち破ってお姫様のところにたどり着いた。百人目の王子はお姫様にキスをして目覚めさせ、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。よくある話だ」
そんなよくある話が、なぜか俺は子供のころから気に食わなかった。それがなぜなのか。今なら分かる気がする。
「成功した百人目の王子は語り継がれるが、残りの九十九人は忘れ去られる。九十九人がどうなったかなんて、誰も関心がないのさ。九十九人は試練に耐えられなかった。そいつらの声を誰が聞く? 誰がそいつらに同情する? 誰が手を差し伸べる? 皆が聞くのは百人目の成功した王子の言葉だけだ。だからいつまで経っても、『神様は耐えられない試練はお与えにならない』なんてクソの役にも立たない言葉が真実として横行しているんだ。迷惑この上ないな」
痛みが胸の中にある。俺のなくなった腕を焦がす激痛と似た痛みだ。この痛みは――耐えがたい。痛みは人を打ちのめして、ぼろぼろにする。良心の痛み? そんな御大層なものじゃない。バカでどうしようもなくて、期待にさえ応えられなかった自分に対する、死にたいくらいの自責の念だ。こんな痛みが続くのならば、俺は試練なんて投げ出して頭を抱えてうずくまっている方がよほどましなんだよ。
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