魔女たちは黄昏の夢に眠る

可本波人

プロローグ

第1話 あなたの魔術は、あなたを必ず不幸にします

「いけません。あなたは魔術を使っては」


 黒いローブの老婆は静かに首を横に振った。

 灰色の長い三つ編みの髪。首から提げた銀の護符タリスマンが揺れる。正三角形を二つ組み合わせた六芒星ヘキサグラム印形シジル。ソロモン王の紋章だ。


「どうして、長老さま。わたしも魔女になりました。ほら、こうして……今年は自分だけでこの夜・・・に来られました」


 瑠璃るりは老婆を見上げて目を丸くする。

 初めて『ヴァルプルギスの夜』に参加したのは去年。九歳の時だった。


「あなたは、お母様に会うために魔術を使おうとしているのでしょう」


 瑠璃は息を飲んだ。

 老婆は肯定ととって続ける。


「あなたは魔女たちに尋ねていましたね。わたしのお母さんを知りませんか、と」

 不意に月明かりが遮られた。

 黒い羽根が舞い落ちる。老婆の肩にカラスが降り立つ。するとカラスは人語でつぶやいた。


《すまないね瑠璃。アタシが全部聞いていたんだよ》


 煉瓦屋敷のガーデンに円卓が並ぶ。中央の燭台に優しい炎が灯り、葡萄酒のグラスが囲んでいる。テーブルに着いた魔女たちはこちらの様子をちらりと窺っていた。


 瑠璃の母親も魔女だったと、父親から聞かされた。

 瑠璃は母親を知らない。物心が付く前には会っていたはずだが、母親に関する記憶がない。ただ温かくて優しい手。イメージだけが胸に残っているが、どうしても顔には霞が掛かる。


 お母さんに会いたい――。


「それは出来ません。あなたのお母様は、もう亡くなったのですから」


 瑠璃の母親はこの世にいない。瑠璃が二歳の頃に死んだ。


「でも長老さま。わたしの魔術を使えば、お母さんに会えるんです」

「あなたの魔術は素晴らしい。私でも、見た事がないくらいです」


 老婆の顔は古い紙幣のようにしわだらけなのに、瞳だけは深い湖のように澄んでいた。


「あなたの魔術なら、お母様に会う事も不可能ではありません。しかしですよ。あなたの魔術は他の誰にもない素晴らしさもあり、同時に恐ろしさもあるのです」


 口を尖らせ俯く瑠璃。その真っ黒な髪に、長老の枯れ枝のような手が置かれた。


「死者に会う――。それは決して許されない事なのです」


「魔女は神さまに背く存在なのでしょう。だったら神さまのルールに縛られなくても良いじゃないですか」

「神のルールではありません。神も悪魔も全てを含めた、自然の摂理です」


 瑠璃は首飾りを握り締める。手のひらほどの砂時計。上に溜まった白い砂が揺らいだ。


「魔女が操る魔術は古来より、社会に大きな影響を与えてきました。人の心を操る事も出来ます、空を飛ぶ事も出来ます、大嵐を呼ぶ事も出来ます、国家一つを滅亡させる事さえ出来ます。しかし大きな力には、大きな代償が必要です。あなたは強大な力を持っています。その分、あなたを蝕む代償も大きい。魔術を使えば、大切な物を失いますよ」


 大切な物と言われても、すぐには何も思い浮かばなかった。


「魔術を使っても決して幸せにはなれない。あなたの魔術は、あなたを必ず不幸にします」


 老婆は暗い森の奥に向かって「ユウグレ」と呟いた。すると木々の間から真っ黒なシルエットがぬうっと溶け出した。


「紹介します。彼はユウグレ」


 真っ黒な山羊だった。

 長い顎ひげを蓄え、ホルンのような太く立派な角を両耳の上から生やしていた。金色の瞳が瑠璃を向く。


「大人しい子でしょう。無口ですが、仲良くしてくださいね」


 ユウグレは無表情のまま傍らに来て腰を下ろす。老婆は東の夜空を眺めて目を細めた。


「東の空が明るくなります。明日も学校でしょう。今夜はユウグレに乗って帰りなさい」


 ユウグレは喉の奥を低く鳴らして瑠璃を見上げる。背中に乗れと訴えているようだ。


「お母様に会おうと考えるのは、もう止めるべきです。過去に縛られず、未来を向いて生きなさい。あなたはまだ子供です。この先、過去が霞んでしまうくらいの明るく眩しい未来が待っているのですから」


 瑠璃はユウグレの背に後向きに腰掛ける。温かな獣臭が鼻を衝いた。

 老婆はユウグレの首に金の鈴を付け、柔らかい顎ひげを撫でた。


「ユウグレ、急いであげてください。もうすぐ教会の鐘が鳴ります」


 ユウグレの身体がふわりと浮かぶと、瑠璃はユウグレの身体にしがみ付く。ユウグレは階段を上るように夜空に歩き出した。


「瑠璃。絶対に魔術を使ってはいけませんよ。分かりましたね」


 のんびりと夜空を歩くユウグレ。

 煉瓦屋敷や庭園、他の魔女たちの姿が遠ざかる。東の空から太陽の気配を感じ、ふと顔を向ける。微弱な陽光が伏見の山々を染めてゆく。

 瑠璃はだんだん白くなりゆく山際を望み、ユウグレの背に頬を押し付けた。


「……お母さん、会いたいよ」

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