第69話 銀色の轡
「あれぇ、ここは何処かな?」
悠樹が目覚めると、目の前には白い天井が広がっていた。薬品の匂いと、精密機械が動き続ける音。どうやらここは病室らしい。
「!」
彼の枕元には、可愛らしい少女が座っていた。美青年が突然声を出して、ビックリしたように目を見開いている。それからパタパタと足音をたてて、部屋の外に駆け出して言った。
すぐに部屋の中に、懐かしい悪漢が飛び込んで込んでくる。
「悠樹の意識が戻ったって、
「あ、レオンじゃなかった、チリさん。久しぶり。少し痩せたぁ?」
美青年の声を聞いて呆然としていた大男は、顔をクシャクシャにして立ち尽くす。いつの間にか戻って来ていた少女が、悠樹の枕元から離れない。
「お前の方が痩せているだろう。どれだけ寝れば気が済むんだ。この馬鹿野郎」
「うわぁ。怖い顔が、もっと怖くなってるよ」
美青年が両手を挙げて、チリの顔を隠そうとするが動かなかった。見れば彼の両手には、無数のチューブやコードが突き刺さっていたのである。
「痛たた! これなぁに?」
「……お前は死にかけていたんだよ」
チリは、これまでの経緯を彼に話し始めた。
オートバイに轢かれた後、美青年は直ちに大病院で手術を受けた事。骨折などの治療は終わったが、どうしても意識が戻らなかった事。この病院に入院して、約一年が経過した事。この辺りまで話したところで、髭面の医者と看護師がユーキの病室に駆け込んで来た。
彼はユーキの顔をマジマジと見て、口をアングリと開ける。
「驚いた。今日、明日の命だと思っていたのに……」
「うわぁ、随分はっきり言うお医者さんだねぇ」
「本当に先生、縁起でもありませんよ!」
和服姿の大奥さんが、病室に入って来た。その姿を見た医師と看護婦は、最敬礼を行う。この病院は、地方私鉄会社のグループ会社なのであろう。その代表者の母親は悠樹を見て、ホッとしたような表情を浮かべ、深く頭を下げる。
「意識を取り戻したのね。本当に良かった。身体を張って、孫娘を助けて頂き言葉もありません」
「孫娘って?」
大奥さんは枕元にしがみ付いている少女を指差した。
「ウチの地方では、女の子は小さい内は、男の子の格好をさせる風習があるの。今は、そんな事は少ないでしょうけど昔、女の子は拐われてしまう事が多かったから。この子は何時までも男の子の恰好を好んでいたのだけど、貴方と会ってから女の子の恰好をするようになったのよ」
「あぁ、あの少年! 髪の毛が伸びて、スカートを履いているから分からなかったよ。元気?」
「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう」
やっとお礼が言えたことに、ホッとしたのだろう。少女はポロポロと涙を流し始めた。
「わっわ、泣かないで。えーっと」
「
少女の名前を聞いた美青年は、辺りをキョロキョロと見回す。
「どうした?」
チリが心配そうに悠樹の顔を覗き込む。
「まだ、どこかに神様がいるんじゃないかなぁって、思ったの」
「? あぁ、疲れているんだな。これまで眠り続けだったから、これだけ喋れば疲れるだろう」
「……そう言うことじゃ無いんだけど」
美青年は部屋の中の確認をして、ため息を付いた。
「こんな立派な一人部屋の病室に一年も寝ていたんじゃ、料金も凄い事になっているよねぇ。引越の仕事に戻れたら、少しずつ返すとして幾ら位するのかしら」
「お金の事は心配しないで頂戴。この病院は、私たちの自由が利く施設なのよ。孫娘の恩人に、お金なんて使わせられないわ。完全に体調が戻るまで、ゆっくり過ごしてね」
「……でも」
「お願い。その位はさせて頂戴。それから目が覚めるまでに時間が掛かったから、引越会社や顧客から貴方の評判を集めさせて貰ったわ。評判いいのね。あの小姑みたいに煩い東京支社の管理者も、太鼓判を押していたわ」
大奥さんは微笑むと、チューブとコードだらけの手を取った。
「体調が戻ったら、ウチで働かない? 引越屋さんよりは、お給料も出せる筈よ」
「げぇ! 大奥さんが言うウチって、鉄道会社だよな。一流大学を出ていても、入れない位の人気企業だった筈」
「今は、鉄道会社もグループ企業の一つですけどね。不動産や百貨店なんかを含めて、大株主になって傘下にしているから。この子に働いて貰いたいのは、その持株会社なんです」
チリは表情を引きつらせた。恐らく破格の申し出なのだろう。悠樹はキョロキョロ周りを見渡し、フニャリと笑った。
「やっぱり神様が、近くにいるのかなぁ。ありがたいお話ですけど、僕は引越屋さんで働くのが好きなんです。身体が治ったら、また引越屋さんで働かせて下さい」
「いやいやいや、お前なに言ってんだよ。グループ本社で働けたら、人生一発逆転だろうが!」
慌てた巨漢は美青年に詰め寄る。しかし何を言っても悠樹はヘラヘラと笑っているだけだった。大奥さんは残念そうに肩を竦める
「あら残念ね。まぁ今は、そういう事にしておきましょう。早く身体を直して頂戴。さぁ、忙しくなったわよ!」
大奥さんはパタパタと病室を出て行った。恵瑠麻は彼女に手を引かれたが、ベッドの傍を離れようとしない。
「お前、馬鹿だなぁ。上手くやれば一生安泰なのに」
「チリさん。僕がスーツを着てパソコン打っている所、想像できる?」
「それは…… 無理だな。あっという間に居眠りだろう」
美青年はフニャリと微笑んだ。
「きっとそうなるよ。だから僕は、出来る事を一生懸命やるんだ。早く身体を直さなくちゃね。……そう言えば背中がゴツゴツするんだよ。なんだろうねぇ?」
チリが美青年のベッドに手を入れた。変な表情を浮かべて、手を引き抜く。巨漢の手には銀色の轡が握られていた。
「こんなもの、この部屋にあったか?」
部屋の人間は、悠樹を除いて不思議そうな表情を浮かべている。
賑やかな病室。美青年の同僚が入れ代わり立ち代わり出入りし、収拾がつかない。ガリガリに痩せた目付きの悪い作業員など、起きている悠樹を見た瞬間に男泣きを始める始末である。しまいには看護師に強制退出を命じられてしまった。
静かになった病室でヘラヘラと笑っている悠樹は、銀色の轡をシッカリと握りしめる。
(死に別れ以外は、別れでは無いのだろう? 今はレヴィアタンの力に敵わぬが、奴に出来て私に出来ない道理はないぞぇ)
ケルピーの囁き声と、レヴィアタンの苦笑いの声が聞こえたような気がした。
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