第16話 孤児院炎上
月が分厚い雲に隠された、暗い闇夜。人も獣も寝静まった深夜には、物音一つ聞こえない。
ユーキ達の馬車が消えてから数時間後、孤児院の中庭に幾つものランプの明かりが浮かび上がった。人相の良くない輩の集団が音もなく現れる。ヴォルフ一家の若い衆たちである。年下の輩が足跡を忍ばせて、建物の中を覗き込む。
「灯りは全部消えている。全員寝ているな」
「できればシスターを、駄目なら何人かのガキを攫えば良かったんですよね。坊ちゃん」
ランプの明かりに照らされて、闇夜に小柄なデブが浮かび上がった。
「シスターは教会に泊っていることもあるらしいから、ここに居ないことも考えられる。その時はガキを人質にすれば、彼女はノコノコ姿を現すだろうよ。そうしたら……」
バカ息子はハインリヒの立案した搦め手を捨て、ギャングらしく直接行動に出ることを採用したのだ。彼は見る者の胸糞が悪くなるような、厭らしい笑顔を浮かべている。
足音を殺して闇夜を進むギャング達。もう少しで建物の玄関に辿り着く植え込みの前で、何かが転がっているのに気づく。手下の一人が近づいて、声を上げた。
「おい、大丈夫か!」
目隠しと猿轡を毟り取られた見張り役は、大きく息を吐いた。
「畜生! 突然襲われて、気が付いたらこの様だ。手と足のロープを外してくれ。血が止まって痺れてら」
「お前、見張りはどうしたんだ?」
「へい坊ちゃん。申し訳ありませんが俺は、この有様で。ただ縛り上げられた後、気付いた時から人が出入りした気配はありませんでしたぜ」
若い衆の一人が、玄関ドアのノブに手を掛ける。
「不用心だな、鍵がかかってねぇ。これじゃ、悪い奴に何かされちまうぞ」
悪い奴である筈の輩が、勝手な事を話した。部屋の中を覗き込むが、真っ暗闇で何も見えない。闇夜に目が慣れた頃、雲に隠されていた月が姿を現し、薄いカーテンを通して部屋の中を青白く照らした。
「人の気配がしねーな」
手下たちはゾロゾロと建物の中に踏み込んでいった。一番近くのベッドは無人で、布団に人の温もりは残っていなかった。
「……まさか」
慌てた手下たちは手当たり次第にベッドの中を改める。
「誰も居ねぇ!」
「どういうことだ?」
バカ息子は憮然として、手下に問いかける。誰も彼と目を合わせようとしない。周囲に強く促されて、一番年嵩の輩が仕方なく口を開いた。
「あー、えーっとですねぇ。ガキどもは何処かに逃げちまったんじゃありませんかね」
「どうしてだ?」
「アッシらに襲撃されることに、感づいたのかもしれやせん」
「どうしてこの事が分かったんだろう?」
「それをアッシに聞かれても……」
年嵩の輩は無精髭の生えた顎を撫でた。手下達も首を捻っている。
「ガキどもは、どこに消えたんだ?」
「それはこれから探さないと。こんな時にハインリヒがいたら、便利だったんですがね」
しばらく無言のバカ息子。油染みた黄色い顔が、赤く染色される。
「ええい、糞ったれが!」
ガシャン!
バカ息子は手にしていたランプを、床に叩きつけた。ハインリヒは居ない。俺が追い払った。あの時に喰らったしびれクラゲの麻痺毒のおかげで、ひどい目にあったのを思い出す。何もかも上手くいかない。
「皆、俺をバカにしやがって!」
地団太を踏むと、ランプの火の粉がベッドカバーに降りかかった。よほど乾燥していたのだろう、ブスブスと煙が出始めて火勢も強くなる。
「ちょっと、坊ちゃん!」
手下たちが慌てて、火を消そうとするが火の勢いは増すばかりだ。炎が天井に届くようになった頃、輩たちは消火を諦め、孤児院から逃げ出した。
青白い月が灼熱の炎に照らされて、悲しく輝いていた。
「何てことを……」
翌日、知らせを受けたゾフィアは、孤児院の焼け跡の前で立ち尽くした。周囲は火災後の異臭に満ちている。屋根は焼け落ち、木製部分はすべて崩れていた。とてもではないが、人が住むことのできる状態ではない。
付き添っていたユーキは、悲しみに暮れる彼女の背中に声もかけられないでいた。
「全てを失ってしまいました。私がヴォルフさんから逃げ出したために……」
「シスターは悪くないよ。それに全部、無くしたわけじゃない。少なくとも子供達は生きてるよ」
慰めても意味がないことを知りながら、辛うじて言葉を返す。衝撃のあまり意識を失いかけた、ゾフィアの身体を彼は慌てて支えた。
「あらあら、大変」
火事場見物の人だかりから、シュルツ家一同が姿を現した。子供達はホフマン老夫妻が、旧邸で面倒を見てくれている。エルマは慌てて、ゾフィアの介抱に回った。
「僕の話を聞いてくれる?」
シスターをエルマに預けたユーキは下を向き、顔を上げることなく話し始めた。
「僕が働いていた引越屋さんでは、夜逃げの特別チームもあったんだ。夜逃げと言う言葉が大嫌いだったから、夜の引越チームって呼んでいたけど……」
悠樹は昼の引越専従だったが、ある晩、配車係に呼び止められた。夜の引越の人手が足りず、ピンチヒッターを頼みたいと言われたのである。東京から北海道への引越で、DV被害を受けている女性が依頼人だった。
洗い物の溜まったキッチン。積み上げられた新聞と雑誌類。人は荒れた生活を送ると、住居の事に気が回らなくなる。荒れ果てた部屋の中で、悠樹達は急ピッチで荷造りを行った。
暴力を振るう愛人はパチンコ屋で時間いっぱいまで遊んだ後、スナックなどで吞んだくれることが日常となっていた。気が向いたときに女性の部屋を訪れ、金をせびる。出さなければ出すまで大暴れするクソ野郎だった。
「それで本当に必要な物だけをまとめて、ワゴンで空港に向かったの。暫く走ってから、依頼人が大切な物を忘れたって言い出して……」
慌てて車はUターンする。助手席から依頼人は飛び出して、部屋に走り込んだ。悠樹達は車内で待っていた。
彼女が扉を開けた時、誰も居ない筈の部屋には、最悪のタイミングでクソ野郎が帰って来ていた。部屋の様子、彼女の服装から異変を感じた彼は、荒れ果てた台所から錆びた包丁を掴み取った。
「しばらく待っても依頼人が帰って来なかったから、僕たちは様子を見に行ったのだけど」
間に合わなかった。依頼人は血の海の中で、事切れていた。最悪の結果で夜の引越は失敗する。夜の引越チームのリーダーは、俺は悪くないと大声で叫ぶクソ野郎をぶちのめす。サブリーダーは、ため息を付きながら、警察に連絡する為にスーマートフォンを取り出した。
「その時、僕は自分に約束したんだ。本当に必要な物が何か、人によって違うかもしれない。でも一番大切なのは、その人の命だ。だから僕は、それを運ぶために手抜きや油断を絶対にしないって。
シスター。お家は焼けちゃったけど、みんな生きてる。生きてさえいれば、きっと何とかなるよ!」
ユーキの呟きにゾフィアは胸元で手を組み、祈りを奉げた。エルマは下を向き、顔を上げない。カールとレオンは事の重大さに、小さく首を振るしかなかった。
「お話の細かい所で分からないこともありました。でも大事な事は理解できたと思います。私も子供達も怪我一つ負わず生きています。ユーキさん、ありがとうございます。私が間違っていました。」
話に一区切りがついた所で、ハンナは腰に手を当てて焼け落ちた建物を見回した。
「ウフフッ、やってくれたわねぇ。このお代は高くつくわよぉ」
目が全く笑っていない彼女の微笑を見て、シュルツ一家とユーキは背筋を凍らせた。
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