康介の過去・残された希望

 今日も、あの男が来ている。

 康介は何も見ずに二階に上がり、すぐさまドアを閉める。

 考えうる限り、最低にして最悪の状態であった。学校の成績は、もはやどうしようもないレベルまで落ちていた。教師は、完全に匙を投げている。同級生とも口をきかなくなり、それまで普通に付き合っていた友人たちも離れていった。クラスでは、完全に孤立した存在である。

 近所の人間もまた、二見家の異様さには気づいていた。何が起きているか具体的には知らないが、何かが起きていることには感づいている。最近では、この家のことをネタにひそひそ話をすることも多くなった。

 康介もまた、その事実に気づいていた。近所の者とすれ違うと、今までとは違った視線が投げかけられてくる。好奇とも、侮蔑ともとれる感情のこもった視線だ。時には、案じ顔でそれとなく話しかけてくる者もいる。何とかして、事情を聞きだそうとしているのだろう。

 だが、康介はそれら全てを無視した。それ以外に、とれる対処法がなかったからだ。




 今の二見家は、飛田孝則に逆らえない。奴が来たら、したいようにさせるしかないのだ。康介は黙ったまま、二階の部屋に行き扉を閉じた。ヘッドフォンをつけ、外からの音を遮断する。

 飛田はというと、子供の存在など気にも留めていなかった。そもそも、家の主人であるはずの幸平の存在ですら、彼にとっては沙織との情事のスパイスでしかない。康介の存在もまた、飛田にとってピザのトッピングのごときものなのかもしれない。その事実が、たまらなく不快だった……。

 そんな心情など、飛田はお構い無しである。沙織の肉体を、欲望のおもむくままに扱った。しかも、彼の性欲は尋常ではない。ほぼ毎日、二見の家に現れた。そして夫や子供の見ている前で、平気で沙織を犯した。五十を過ぎているとは思えない異常さである。

 そんな家庭で、康介は姉の冴子と共に育っていった──


 自分の家族が、嫌で嫌で仕方なかった。

 虚ろな目で、腑抜けのように日々を過ごしている父。自分の目の前だろうとお構いなしに、狂ったような痴態を見せる母。下卑た笑みを浮かべ、母に手を伸ばす飛田。

 そんな異常な光景を、黙って受け入れなくてはならない自分たち──

 当然ながら、康介は飛田を憎んでいた。できることなら、今すぐ殺してやりたいと思っている。だが、出来なかった。

 実際の話、何度かは本気で飛田を殺そうと思ったし、それを実行しかけたこともある。だが、その度に自分の中の何かがストップをかけた。当時はまだ小学生で体も小さく、大人の飛田に立ち向かっても勝ち目が薄い……ということも理由のひとつだ。さらに、もし殺してしまったら、法の罰を受けることにもなる。

 しかし、それらと同じくらい重要なことがあった。あの男を殺したら……この家の醜い部分を、白日の下に晒すことになる。母が必死で守ろうとしていた秘密が、マスコミによって暴かれてしまうのだ。あの醜い男の奴隷と成り果ててまで、守ろうとしていた秘密が──

 そうなったら、自分の人生も終わってしまう。結局、部屋で膝を抱え耐えるしかなかった。

 そんな康介の部屋に、時おり姉が訪れるようになった。彼に寄り添い、そっと声をかける。


「いつか、姉さんと一緒に家を出よう。こんな家を出て、ふたりきりで暮らそう」


 優しく声をかけてくれた冴子の顔を、康介は今もはっきり覚えている。

 姉は、とても美しく清らかな存在だった。幼くして、この世の狂った部分を嫌と言うほど見せつけられてきた少年にとって、姉だけがこの世界で唯一まともな存在であった。

 いつか姉と一緒に、この家を出て行こう。

 誰も知らない場所で、まともに生きよう。


 康介は、そう心に決めていた。それだけが、彼に残された唯一の希望だった。だからこそ、彼は生きていられたのだ。

 ところが、運命はどこまでも残酷だった。悪魔は、この不幸な少年から何もかも奪い去ろうとしていたのだ。

 破滅の日は、間近に迫っていた──


 



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