康介の過去・飛田という男
デボン共和国で地獄を見た日から、二見幸平は完全に変わってしまった。
PTSDか、あるいは他の心の病かは不明である。確かなことは、幸平の中から、社会人として必要とされる能力が完全に失われてしまったということだけだ。
毎日、ずっと自室にこもっている。家族とは、話そうともしない。中で何をしているかというと、虚ろな目で椅子に座りテレビを観ているかスマホをいじっているか、床で寝ているだけだった。家族を養おうという気力は全く感じられず、性的にも不能になっていた。当然ながら、仕事など出来るはずもない。
会社からは、毎月わずかばかりの金が振り込まれてはいる。しかし、これでは今までの生活レベルは維持できない。
もし、幸平の精神が病んでおらず、若松のような裏稼業の知り合いでもいれば……逆に、この事件を利用し会社から金を巻き上げようと試みていたかもしれない。デボン共和国で起きたことは、松島電器にとって命取りである。会社の対応が遅れたばかりに、若い社員が命を落とした。のみならず、事件を秘密裏に処理しようとしたのだ。
これが全て
もちろん、二見家の人間がそんな事情を知るはずもない。わかっているのは、幸平が変わってしまったという事実だけだ。
こうなった以上、取るべき手段はひとつしかないはずだった。自宅を手放し、安いアパートに引っ越す。生活レベルを収入の額に見合ったものに変え、二見幸平を通院もしくは入院させる。場合によっては、様々な手当ての申請も考えるだろう。身の丈に合った生活レベルにまで落としていけば、家族四人が生きていくには何の問題もないはずだった。
ところが、沙織は違う選択をした。現在の二見家で家の全権を握っていた沙織は、学歴はあったが実生活に直結した知恵がない。さらに、お嬢様育ちでもある。これが、二見家を襲った二番目の不幸であろう。
見栄っ張りである彼女は、生活レベルを少しでも下げることに耐えられなかった。また、夫が壊れてしまっている事実を、世間に公表したくもなかった。
沙織は、二見家の実情を周囲の人々に知られることなく、今の生活レベルを維持する手段を考えた。だが、そんな都合のいい方法などあるはずもない。幸平が働けない以上、収入はがくっと落ちる。入ってくるのは涙金だ。
となれば、今度は沙織が稼ぐしかない。だが、彼女には商才などなかった。もともとお嬢さま育ちの沙織は、アルバイトすらしたことがない。さらに言うなら、自分が働いているという事実を近所の人間に知られたくなかったのだ。両親や親戚筋にも頼りたくなかった。
そんな沙織に手を差しのべたのが、複数の会社を営む
この男、貧乏な家に生まれたが、たった一代で巨万の富を得た傑物だった。無一文の状態から、様々な手段を用いて金をかき集めていき、手段を選ばないやり方でのし上がっていった。表社会でも裏社会でも、飛田の名前は知れ渡っていく。全盛期の頃の彼に逆らった者は、マグロ船送りか山に埋められたか、あるいは事故死で片付けられた……などという噂すらあった。
やがて三十歳の時には、大手金融会社を初めとする数社の代表取締役という肩書を得ていた。名前を言えば「そういえば、そんな会社聞いたことあるな」という答えが返ってくるような会社の社長である。
五十二歳の現在、彼は飛田グループ会長の座についている。もっとも仕事はセミリタイアしており、暇と金はたっぷりある状態だった。放蕩の日々を過ごしてきた過去は、現在の顔や体つきに色濃く現れている。
かつては、傑物とよばれるに相応しい野生味溢れる風貌であった。美形とは程遠い顔だったが、それでも雄としての強さや魅力を感じさせるタイプであった。ところが今は、全体的にふっくらとしている。顔と体に脂肪が付きすぎており、髪も薄くなってきていた。
その上、この男には焦りがあった。若い頃のような気力が湧いて来ない。性的な部分も、明らかに弱くなって来ている。五十を過ぎると、ますます顕著になっていた。自分は、このまま衰えていくのか……という不安に苛まれていたのである。
そんな飛田が、どういった経緯から沙織と知り合ったのかというと……この男、もともと幸平とは知り合いであった。いや、友人といってよかったかもしれない。最初は仕事で知り合ったのだが、やがて個人的に会うようになる。しばらくすると、お互いの家を行き来するような関係になっていた。
当然ながら、デボン共和国での事件については何も知らない。しかし、二見家の状況は何となく察していた。
ある日、飛田は沙織に援助を申し出る。もしかしたら、最初は純粋な同情からの言葉だったのかもしれない。今となっては不明だ。
確かなことはひとつ。援助が始まって一ヶ月もしないうちに、沙織は……いや二見家の全員が、飛田の奴隷となった。
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