この指輪をあといくつ集めたら願いが叶いますか?

いまりょう

第1話 1-2 狂った果実

2006年6月

わたしには友達がいない。

そのかわりと言ってはなんだけれど、わたしの左手薬指には指輪があった。

別に結婚している訳ではないし、彼氏から貰ったものでも無い。小学生のわたしに誰か男の人が指輪を贈る事なんてありえないし、ましてや夫がいるはずもない。

大体、わたしには恋人どころか、今までに1人だって友達がいた事は無かった。

わたしにはずっと、指輪だけがあった。

この指輪は生まれた時からわたしの左手薬指にある。それはまるでわたしが誰かの奥さんであると世界に宣言しているみたいな気分だ。

そもそも指輪をつけて生まれてくるなんてすごく変な話だけれど、わたしにとって指輪がある事はとても、とても自然なことだ。

「!!? 」

ボンヤリと考え事をしながら歩いていたら、不意に「ダダダッ」っと足音がした。

あわただしくて不快な足音がわたしの真横を通り過ぎた時、スカートがフワッと舞い上がった。

「パンツ見ちゃったぁ! 」

テカテカと光る紺色のランドセルを背負った男の子は、走り去りながら振り返ると、その細い一重の瞳を歪めて叫んだ。

「! 」

わたしはただただビックリして、あっという間に遠ざかる意地悪な子の背中をただ見つめることしかできなかった。

でも……、あの顔には見覚えがある。確か隣のクラスの男子だ。あの子とは一度も話した事は無い。

「ダダダッッ!! 」

さらに2人の男の子がわたしの横を駆け抜けた。

「やーい、水色だ! 」

「水色だぁ! 水色だぁ! 」

隣のクラスの男子達はゲラゲラと笑いながら遠ざかっていった。初めにわたしのスカートをめくった子の友達か……。

恥ずかしさで頬がカッと熱くなった。

いつの間にかこっそり後ろをつけられていたんだ……。

いつから?

何でこんなことをするの??

わざわざ人が通らない道を選んで帰っているのに……。

スカートなんか履かなければよかった……。

ため息をついてわたしはまた歩き出す。

いつもの事だ。これくらい何でもない。お尻を触られなくてよかった……。

自分にそう言い聞かせる。

俯いた視線の先には最近、舗装されたばかりの真っ黒な道路。鈍く光る黒い道を睨んで歩く。黒い地面が霞んで滲んだ。

わたしはグッと唇を噛み締めて左手の指輪を見つめた。

指輪は鈍く揺らめいている。

途端にモヤモヤした気持ちがどこかに吸い込まれていく。心が落ち着く。

空っぽになる……。

わたしの名前はいおな。11歳の小学5年生だ。この変わった名前はお母さんが「いい女になれ」と言う願いを込めてつけてくれたそうだ。なんだか中二の男子が考えそうな名前だったけれど、案外、わたしはその響きを気に入っている。

お母さんはわたしが生まれてすぐに死んでしまった。だからわたしにはお母さんについての記憶は一欠片もない。あるのはパパの思い出だけ。わたしの家族は今も昔もパパだけだ。

ただ、部屋に飾られているお母さんの写真を見て、綺麗な人だな……、と思った。

いまより若いパパの横で、ほとんどメイクもせずに笑うお母さんは、とても幸せそうでキラキラと輝いていた。そしてその顔は驚くほどわたしと似ていた。

いや、正確にはわたしがお母さんによく似た顔立ちをしているのだけれど、覚えていない美しい女の人を見ても、それが自分を生んだ母親だという実感なんて湧かなかった。

そして……。

お母さんもまた、その手にわたしの持つ指輪と同じデザインのリングを身に付けていたらしい。

その指輪は赤い目をした銀色のヘビが、自分の尻尾を飲み込むようにして輪っかを作っている。

不思議な事に、この指輪は確かにそこにあるのだけれど、ほかの人には見る事が出来ない。わたしとパパ以外、そこに指輪がある事に気付かない。それは確実にそこにあるというのに。そしてその指輪はどんなに力を込めても指から外す事が出来ない。さらに指輪はいつもほんのりと暖かった。まるでそれ自体が生きているみたい。

「……」

「……、……」

ふと、子供の話し声が耳に入ってきた。

聞き覚えのある声……。同じクラスの女の子達だ。そう思って顔を上げると、少し先のコンビニの前でクラスメイトの女子数人が楽しそうに笑い合っているのが目に入った。

わたしはそっと方向転換して違う道に入る。クラスメイトの笑い声がスッと遠くなった。

そしてわたしはため息をつく。また左手の指輪を見つめる。

ザワザワとした心の波が落ち着いていく……。空っぽになる……。

不思議な指輪だ。

この指輪を見つめていると心に浮かぶ色々な気持ちが、まるで掃除機に吸い込まれるチリみたいに消えていく。心がぽっかりと空白になって心地がいい。この指輪を見つめているだけで、わたしは穏やかになれた。

小さな頃から嫌なことがある度に、わたしは左手の指輪を眺めて過ごした。そうすれば大抵の事はやり過ごす事ができた。

幼稚園で意地悪な男の子にいじめられたり、公園で変なおじさんに声を掛けられたり、小学校の先生がお母さんについての作文の宿題を出した時なんかに、わたしはこの指輪を見て辛い気持ちを消してきた。

学校にはお父さんがいない子供は何人かいたけれど、お母さんがいない子はわたし1人だった。お母さんの事を誰かに尋ねられるとわたしは悲しい気持ちになった。初めから当たり前にあるはずのものが、わたしは持っていなかった。

それだけじゃない……。

わたしはパパ以外の男の人が苦手だった。年の近い男の子達はもちろん、お兄さんやおじさんや、果ては近所のお爺さんまでも……。全ての男の人はわたしを見るとみんな目の色が変わってしまう。本当に目の色が変わるのだ。

昔からわたしのまわりにいる男子達は、スカートをめくったり、上履きを隠したり、嫌な事ばかりしてくる。幼稚園の頃、乱暴な男の子によく髪の毛を引っ張られたので、その頃からわたしの髪型はずっとショートカットだ。

年上の男の人はもっと嫌いだ。ベタベタとわたしの体に触ってきて気持ち悪い。見知らぬお兄さんや、怪しげなおじさん達は、みんな、みんな、同じような嘘の笑顔を浮かべてわたしに近づき、嫌な視線でわたしの体を眺めると、まだ膨らんでいないわたしの胸やお尻なんかを触ってきた。ひどい人はわたしのパンツに手を入れてきたりした。

だからわたしは小さい頃から男の人が苦手だ。男の人なんてこの世から消えてしまえばいいのに……。

大きくなるにつれてそういう嫌なことが増えていった。わたしはますます男の人が嫌いになった。そして指輪を見つめる時間が増えた。

でもパパだけは別だ。

パパはいつだって優しくてカッコよくて頼りになる。小さい時からわたしの話し相手はパパだけだった。

そして……。パパの手にはわたしと同じ銀の指輪がある。だからパパだけがこの世界で特別。パパ以外の男の人なんていらない。

男の人に比べれば、女の子達は別に嫌いでは無いけれど、何故か彼女達はみんな揃ってわたしに冷たく接した。

別に意地悪をされたりする訳ではない。ただ小さな時からわたしに話しかけてくれる女の子は殆どいなかった。幼稚園の女の先生でさえ、他の子に比べてわたしに接する時は距離を感じた。子供ながらにそれがわかった。

わたしは女の人に何となく避けられている気がする。それはわたしが大きくなるにつれてよりハッキリと感じるようになった。

理由は全然分からなかった。どうしてわたしは避けられるんだろう……。

そして何より。

男であれ女であれ、普通の人間は指輪を持っていない。指輪を持っていないことが当たり前で、生まれながらに指輪を身に付けているのは異常なのだ。

パパにそう教えてもらった時、わたしはすごくショックだった。

どうしてみんなは指輪を持たないのだろう。どうしてわたしとパパだけが指輪を持っているのだろう。

わたしにとって、指輪を持たない人はひどく遠い存在だった。

こういう気持ちを何というのだろう?

違和感? 劣等感? いや、……疎外感。

そう……、多分、そういう気持ちだ。

わたしは生まれてからずっとこの世界に溶け込めないという疎外感を感じていた。ここはわたしの住むべき世界ではないように感じた。どこかにわたしにピッタリの世界があるような気がした。

わたしだってそれなりに努力もしたのだけれど….…。結局、指輪を持たない人達に対して、わたしは心を開けなかった。本当の事を話せない。信頼する事ができなければ友達にもなれない。結局、指輪を持たない人々は、なんだかわたしとは別の生き物みたいだった。

だからわたしには1人も友達がいなかった。

でもわたしにはパパがいる。だから寂しくはない……。

そう思ってまた指輪を見つめる。

周りの音までスーッと吸い込まれたみたいに、わたしの心は空っぽになる。

そんな風にして薬指の指輪を見つめながら、いつものように1人で学校から帰る。友達がいないから、帰り道はいつも1人だ。下校時間の通り道には楽しそうに大声ではしゃぐ同じ小学校の生徒達が溢れている。みんなが使う活気のある広い通りはなんとなく気まずくて、わたしはわざとあまり人気のない道を選んでトボトボと帰宅する。それでもさっきみたいに意地悪な男子にからかわれたり、楽しそうに話しているクラスメイトを見かけたりすると、わたしはそそくさと逃げ出した。それがわたしの日常。

友達がほしいのに、友達になれそうな人は1人もいなかった。

高く登った陽に晒されて、地面に長く伸びた自分の影に目を落とす。黒い道路に浮かぶわたしの影。その影は本物のわたしよりずっと背が高くて大人みたいだ。

「友達……」

わたしは呟いて青い空を見上げる。まだ6月なのに真夏みたいな入道雲と強い日差し。

わたしは晴れの日が嫌いだった。わたしみたいにこの世界に溶け込めない人間は、明るい日の光の下ではしゃいだりしてはいけない気がする。雨が降っているか、せめて曇りならもう少し気分もマシなのに……。

いつもの憂鬱な気分で自宅マンション前の公園に差し掛かった時、どこか遠くから太鼓の音が聞こえた。

どこかでお祭りでもやっているのかも知れない。

「トン……、トン……、トン……」

ボンヤリと遠い太鼓のリズムを聞きながら、わたしは公園に入った。

白い砂が敷き詰められた公園の中は、初夏の強い日差しでなんだか調整のきいていない液晶画面みたいに、無闇に真っ白な世界が広がっていた。この公園を通り抜けると自宅への近道だ。だからわたしは5年間、毎日この公園を通っている。

公園の中に人気は無かった。全く無かった。

「……」

不思議な事に、今日に限って公園には人っ子ひとりいない。いつもなら小さな子供とその母親達がたくさんいるのに。仕事をサボっているスーツ姿のサラリーマンのおじさん達が、必ず何人かはいるのに……。今日は誰もいない。

公園のベンチにはナイロンの黒い鞄と飲みかけのペットボトルがぽつんと残されていた。

「トン……、トン……、トン……」

先程から聞こえている太鼓の音は近づいたり遠ざかったり、まるでさざ波みたいに不安定な音量で一定のリズムを刻んでいる。

変な感じだった。何かがおかしい……。

わたしはゆっくりとあたりを見回しながら慎重に歩く。

低い柵で区切られた芝生の丘に、小さな時に遊んでいた滑り台やちょっとしたアスレチックが佇んでいる。通り沿いには大きな桜の木。

「あれ……? 」

桜の木下には薄いピンクの花びらが積もっていた。

「えっ? いまは6月なのに…… 」

この桜は今年、3月の終わりに一度咲いていたはずだ。

ふと周りの木々を見渡せば、鮮やかな朱色や黄色に色付いて紅葉している木もあれば、青々と茂っている木もあった。

公園の中の草花は季節がごちゃ混ぜになったように思い思いに色付いたり、枯れたりしていた。

そして公園の中には人がいない。1人もいない……。

あたりには不穏な空気が漂っていた。

なんだかこの公園の中だけ世界が壊れてしまったみたいだ。そしてその中に佇むわたしの様子を世界中が息を潜めて伺っているみたいに、辺りはしんと静まり返っていた。

不安になったわたしは、無意識に左手の指輪を撫でた。それから茶色のランドセルにつけた緑色の怪獣のキーホルダーを握る。

このキーホルダーはパパが子供の頃に使っていた物らしい。わたしが小学生に上がった時、記念にパパがくれたものだ。元は淡い緑のふっくらした怪獣だったみたいだけれど、今ではすっかり色あせてシワシワになっている。タレ目で程よくブサイクなそのデザインが、わたしは好きだった。なんとなく手持ち無沙汰な時なんかに、指先でそのぬいぐるみをクシャっと握るのは、わたしのクセだ。

わたしは緑のキーホルダーに指を這わせた。いつもどおり少しシワのある肌触りと、古い割にはふっくらとした弾力がわたしの指先を刺激する。……すこし落ち着く。

このキーホルダーは指輪の次に大切なわたしの宝物だ。

気を取り直したわたしは、ゆっくり息を吐き出すと、足早に公園を横切って行く。

無意識に左手の指輪に目を落とす。気のせいか指輪がいつもより熱い……。

そうしてわたしが公園の出口にさしかかった時、不意に、人の大きさほどもある肌色の塊が、サッと目の端をかすめた。

わたしはぎょっとして立ち止まった。

そして恐る恐る……、ソレを見た。

その異常さにわたしの肌が一気に粟立つ。

ソレは今までわたしが見た事の無いものだった。形は大きな芋虫みたい。表面は肌色をベースにところどころ白や紺色のまだら模様をしていた。ソレは色も形も異様だったけれど、何よりもその大きさ……。大人の男の人くらいのサイズ。表面は生き物のように見えるけれど、とりあえず動いてはいない。

マダラ模様の芋虫風の何かの周りには、散ったピンク花びらが悪趣味な趣で積もっていた。

しばらくの間、わたしは事態が飲み込めずにその物体をただ眺めていた。

「タン……、タン……、タン……」

遠い太鼓が聞こえる。

「何これ……、気持ち悪い……」

誰にともなく呟く。

その大きな芋虫みたいな塊からは、なんだか生臭くて鼻を突くツンとした嫌な臭いが漂っていた。

けれど……、わたしの視線はその塊に吸い寄せられてしまう。何故だかその怪しげな物体から目が離せなかった。その気持ちの悪い物体が纏っている奇妙な力のようなものがピリピリと肌を刺激する。

気持ち悪いはずなのに……。

そんなもの見たくないはずなのに……。

そう思えば思うほど、わたしの視線はそれに吸い寄せられてしまう。

すると……。

その塊の表面から赤黒い液体が染み出してきた。赤い液体はみるみるうちに広がって、肌色の表面をドロリと伝い地面に黒いシミを作っていった。

「これ!? ……血だ 」

思わずそう口にした時、唐突にそれがボロ雑巾のようにねじれた人間だとわかった。それはものすごい力で人の体をねじって作ったツイストドーナツみたいな死体だった。

「やっ!? 」

身体中から血が抜けていくような感覚が襲う。地面が揺れる。視界がぼんやりと歪んで目に涙が溢れてくる。

「ドクン! 」

不意に左手の指輪が大きく脈打つ。

それでわたしは我に帰った。

「だ、誰か……、助けを呼ばなきゃ……」

焦ったわたしは、ひどく手間取りながら背中の茶色いランドセルを引っ掻きまわしてなんとか携帯電話を取り出した。

耳にはまだ遠い太鼓の音が仄かに響いていた、

「パパ……」

震える指でわたしは携帯のリダイヤルを押した。

「プッ、プッ、プッ……」

数秒のタイムラグの後、目の前のイモムシの中からくぐもった着信音が響いてきた。

それはわたしのよく知っている着信音だった。

「……!! 」

数秒間、わたしはそのイモムシ状の死体から聞こえてくる着信音を聞いていた。

それから殆ど無意識に自分の携帯の発信を止めた。

するとイモムシの内部から聞こえていた音も止まった。

「パパ!? 」

目の前にあるこの捻れた塊が……、パパだ。

理解するのと同時に頭のてっぺんから魂が抜けるみたいにスーッとわたしは気を失った。

意識がなくなる寸前、遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がした。

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