第40話 ダンスを踊りながら

 二人が過ごした時間は、二人の心を結びつける結果になったようである。

 始め、真一郎は愛菜に会って、会社を退職させたことについての謝罪と彼女に就職に対する相談のつもりでいた。しかし思いの外、愛菜との時間を楽しんでいる自分がいる。


 彼ほどの男なら女性にモテないわけは無いのだが、愛菜の場合は特別だった。それはかつて、自分が愛した女性の娘だと言う特別な意識が働いていることは否めない。

 愛した女性の娘も真一郎にとってはやはり好きなタイプだった。


 愛菜は鮎川房江の面影を持ちながら、愛菜の個性を持っていた。時折見せるしぐさの中の手の動き、笑い方、話しかけるときに、ちょっとうつむきながらじっと見つめる仕草が驚くほど房江に似ている。やはり親子と言うものは、血を争えないようである。


 愛菜は、それだけではなく、体つきもどことなく似ている。

(あの身体の中も房江と似ているのだろうか? 感じ方や、濡れ方などは、どうだろうか)等、不謹慎なことを思ってしまう。


 慌てて頭を振り、雑念を払い除けようとしたがそれは中々消えてくれそうにない。しばらく忘れかけていた昔の思い出が、再びよみがえってくるのだ。その瞬間の時間の中で、真一郎はタイムスリップしたように昔の恋人の房江といるような錯覚になる。


 その洒落たスナックバーは、ゆったりとしていて落ち着いていた。真一郎と愛菜以外にも四、五人のカップルがいて、それぞれの時間を楽しんでいるようである。


「どうかね、愛菜ちゃん」

「ん? 何が、真一郎さん」

「私といると楽しいかな」

「はい。勿論ですよ」


 それは愛菜の偽らざる気持ちだった。

 いつの間にか、真一郎は愛菜を「ちゃん」と呼んでいた。愛菜もすっかり真一郎に打ち解けていた。二人とも、これが全くの初対面ならばこのようにはならなかったのだろう。


 今まで、会社の中で時々顔を合わせていたし、愛菜は真一郎が昔、愛した女性の娘だと言う安心感があった。その安心感が、二人を妖しい関係に導くとはその時は思っていなかった。欲望の悪魔は、どうやらそのターゲットを二人に絞ったようである。



 少し照明を落としたその店の中では、何組かのカップルが抱き合って踊っていた。ハーレム・ノクターンの甘いテナーサックスのメロディーが流れている。


「素敵な曲ですね。母もこの曲が好きでした」

「そうだね。昔、この曲で私たちも良く踊ったものだよ」

「そうですか」

「さあ。少し踊ってみようか」

「あまり上手くないのですが。お願いします」


 淡く薄暗い照明の中では、真一郎と愛菜は曲に乗せて抱き合い揺れていた。二人は始めダンスのホールドしていたが、やがて恋人のようにピタリと身体を合わせ揺れあっていた。


 愛菜はもう母のことは気にしないようにした。抱かれて踊っている相手が母の恋人だったということも。

 その母が真一郎から去った本当の理由は分からない。それは後で分かったことであり、知らなければ苦しまないはずだった。


(でも、何もかも今夜は忘れたいの)


  自分は自分、母の分身ではない。その時の心は愛菜自身のものになっていた。真一郎に抱かれながら愛菜は甘えた声で言った。


「今夜は帰りたくないの」

「えっ?」

「帰りたくありません。真一郎さん」

 そう言いながら、愛菜は真一郎の胸にしがみついていた。


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