第36話 たゆたう空間の中で
その週の週末の土曜日の喫茶店の中は、比較的ゆったりとしていた。愛菜と真一郎は、奥の窓際に面して座っている。店の中では、ヘンリー・マンシーニのメロディーが、たゆたうように空間に溢れ、心地よく心を洗うように流れていた。
愛菜が、前から憧れていた存在の男性と同じ時間を過ごすには、最高のシチュエーションだった。しかし、来る時と違って、愛菜の気分は少し期待が外れたようである。もし、その話題がなければ、言うことないのだが……だが、そこから話を
母が、この目の前にいる男性と愛を交わしていたということである。愛菜は、この話しをクリアにして前に進まなければならないと思った。
それは、これからの自分にとっての心の清算として、新しい出発としてこれから立ち向かう自分の人生の為に……。
大好きな母の為にも、自分は辛くても真実を知らなくては。
(もし、もしも……自分が母の実の子で無くても良い、真実が知りたい)
「あの、母が、真一郎さんの元から去って行ったと言うことですが」
「ええ」
「なにか、それで思い当たる事は無いのでしょうか?」
「それが、特に私たちが喧嘩をしたということもありませんし、他に思い当たる事は……」
「では、母が心がわりをしたとか、他に好きな人が出来たということはありませんか?」
愛菜は、心の中では、そんなことを言う自分が嫌だった。
(しかし、真実を知る為には、逃げてはいけない)と自らに言い聞かせていた。
「いや、私には分かりませんが、それはないと思います。でも彼女には何かがあったのでしょう。それしか考えられません」
そのころ、房江との逢瀬を楽しんでいるとき、浦島愛子との縁談の話しがあったのだがここで言うことは避けた。それは当時の房江には言っていない。
母親の房江が知らないことをその娘が知ったらどうなるのか、今それを言うことは得策ではないと真一郎は思っていた。
「そうですか。ではこういう仮定はどうでしょう」
「おや。それは何という仮定でしょう?」
真一郎は愛菜が意外なことを言ったので驚いた。
「そのとき、そのときですが……母は妊娠はしていませんでしたか?」
「に、妊娠ですか?」
「ええ、ただそう思っただけです。女の勘とでも言うのでしょうか」
あのころ、真一郎と房江との性交渉では、何度かは避妊をしないで行ったことがある。当時の二人は口には出さなかったが、結婚するつもりだった。その彼女が妊娠をしたということは聞いていないし、そんな素振りをみせなかった。しかし、真一郎に確信は無い。
「さあ私はそういう感じを受けたことはありません。少なくとも私といたときには」
「そうですか。よけいなことを聞いてごめんなさい。気を悪くしませんでしたか?」
愛菜は悪戯をした子供のように肩をすくめていた。
「いや。いいんですよ。そういう想像をするとは、やはり女性なんですね」
そう言って笑いながらいきなり手を指しだし、真一郎は愛菜の手を握った。
(あっ……)その手は温かい。
「貴女がお母さんが大好きなのが良く分かりました。貴女がそんな房江さんの子供で良かった」
「はい。ありがとうございます」
愛菜は嬉しかった。またここで真一郎と心が近づいた気がする。
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