第29話 母の昔の恋人は自分の上司
真一郎は、書類に添付してあった写真を見て、初めてその名前と彼女が一致した。
「あぁ、なるほど。この人があの東堂愛菜さんなんだ……」
時々廊下ですれ違う聡明で美しい顔の愛菜を、なぜか真一郎は憶えていた。その写真は入社当時のものらしく、髪の毛も短めで、学生らしく初々しかった。今は、大人っぽくなって、髪の毛も肩まで伸びていた。
会社の責任者の一人として、人間としても真一郎は愛菜に職場に復帰させる義務を感じ、その非を詫びる気持ちになっていた。
正義感の強い真一郎には、自分の会社のミスで愛菜を退社に追いやったことが許せないのである。しかし、なぜか「東堂」という珍しい名前に何か感ずることがあったのは事実である。
真一郎はその日、愛菜の家に電話した。
愛菜はアルバイトに出掛けていなかったが、母親の房江が出た。
「もしもし、私は愛菜さんが、もと働いていた会社の浦島と申します。愛菜さんはおられますか?」
「いえ、愛菜は今仕事に行っております。どのようなご用件でしょうか?」
「実は、もうご存知だと思いますが、会社の不祥事の件につきまして、愛菜さんには、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。それでどうしてもお詫びしたいと思いまして」
「それはご丁寧に、ありがとうございます」
「それで、直接私が愛菜さんにお会いして、お詫びしたいのですが、連絡が取れますでしょうか?」
「では、愛菜の携帯の電話番号をお教えすれば、よろしいのですね?」
「そうして頂けると、有り難いのですが」
「では、少しお待ち下さい」
「はい」
こうして愛菜の電話番号を真一郎は知ることになった。
「ありがとうございます。助かりました」
「こちらこそ、わざわざありがとうございました。真一郎さん」
「えっ?」
真一郎は愛菜の母親に、まだ自分の名前を言っていないのに、なぜ彼女はそれを知っているのだろうか?
「お懐かしゅうございます。鮎川房江です。今は東堂になっていますが」
「えっ! あ……貴女が房江さん? ですか」
一瞬、真一郎は息を止めた。とっさのことに時間が止まったような気がしたのだ。
「はい。お久しぶりです」
「いやぁ、驚きました。愛菜さんのお母さんが貴女とは……」
真一郎が驚いたのは無理もない、二人はかつて深く愛し合った仲だからである。それは不思議な再会だった。真一郎はまさかここで彼女の声を聞くとは思っていなかった。あれはいつのことだったか……。
そして、房江もあの懐かしい思い出を振り返るように、黒い受話器を握りしめていた。
その手は震え、眼に涙を溜めながらむかし激しく愛し合ったかつての愛しい人の声を聞いていた。
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