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 ここは久米沢署の証拠物保管室だ。貴島警部補は立ち並ぶスチール製の棚の間の通路を、棚の番号を確認しながら奥へと歩いていく。


 やがて立ち止まった貴島警部補は、棚の方を向いて一歩前に出ると、上着のポケットから紙片を取り出し、そこに書かれた番号を見ては、棚に貼ってあるシールに記載された番号と一桁ずつ突合した。確認を終えた彼女は、その番号が記された棚からダンボール箱を引き出した。いつの間にか白手袋をしている。床に置いた箱の蓋を外し、中からビニール袋に入れられた新聞紙を取り出した。金井の指紋が検出された競馬新聞だ。箱に蓋をした彼女は、その箱を元の位置に戻す。証拠の新聞紙が入ったビニール袋を手に持ったまま、彼女はドアの方に早足で戻っていった。


 廊下に出てドアを閉めた彼女は、ドアに鍵を掛けると、その鍵をポケット仕舞い、無言のまま、もと来た廊下を戻っていった。白手袋は疾うに外している。この新聞紙は事件現場近くのゴミ箱から発見されたものだ。これを金井に突きつけるつもりだろう。言い逃れできない証拠として。それに、彼女は確固たる決心をもって行動しているようだ。そうでなければ、ここまで早くは歩けない。全ての動きに戸惑いが無く、無駄もない。それは、まるで頭の中で何度もシミュレートしたことを実行しているように迅速だ。今の僕には、彼女に遅れないようにしてついていく事しか出来ない。


 一階に上がってきた彼女は、廊下を奥へと進んでいった。角を曲がり、更に一番奥へと進む。この署の裏手にある通用門に近い、この建物で一番奥にある部屋だ。正直、そう何度も近寄りたくない部屋だけど、彼女は早足で進んでいくし、今、彼女を一人にはできない。ついていくしかない。やむを得ない。


 貴島警部補はその部屋の前で立ち止まった。周囲を確認してから鍵の束を取り出し、その中から鍵を選んでドアに差し込む。解錠し、鉄製の重そうなドアをゆっくりと開けた。中に入り、ドアを閉めて中から鍵をしてから、横のスイッチに手を伸ばす。室内灯が点いた。


 ここは遺体の安置室だ。検死を終えた遺体は棺桶に入れられて、遺族が引き取りに来るのをここで静かに待つ。今、この部屋の中にある棺桶は一つ。貴島警部補は鼻を啜りながら、その前に立った。おそらく彼女は若干ながら漂っている防腐剤の臭いが苦手なのだろうが、僕には全く嗅ぎ取れない。


 貴島警部補は手に白手袋をはめた。彼女は棺のふたを平行に横にずらし、中の遺体を確認する。見慣れた顔。


 棺桶の横の管理札に書かれている氏名は「浅木和也」。一昨夜に殺害された浅木巡査。つまり、僕。


 そう、これは僕の遺体だ。


 僕は、浅木和也は死んだ。誰かに頭を撃たれて。遺体の側頭部には生々しい傷跡が残っている。たぶん、今、僕がこうして苦しんでいる頭痛の原因だろう。あの時、いきなり、強烈な衝撃が僕の頭部を襲った。撃たれたのだ。犯人の顔は見えなかった。そして、僕は死んだ。一瞬で。その時から、魂とか、霊とか、お化けとか、呼び方は何でもいい、こうして彷徨っている。僕を撃った犯人を見つけ出すために。だから、こうしてここに立っていても、貴島警部補には僕が見えていないし、声も聞こえない。誰も僕が見えない。川名巡査を除いては。唯一、彼女だけが僕の事を認識できるらしい。僕の姿は普通に見えていたし、声も聞こえていた。だから先程、会議室で彼女は固まっていたのだ。彼女にとって、そこに普通に立っているように見えている僕が、あの時、彼女の前にあった会議テーブルの上に置かれていた捜査資料に「死亡した被害者」として顔写真付きで載っていたから。さぞ驚いたことだろう。


 今、貴島警部補は僕の前で僕の遺体の側頭部、撃たれた傷口のあたりに、保管袋から取り出した競馬新聞の端を軽く押し当てている。新聞紙に不自然な皺がつかないように、そっと触れて丁寧に当てているのだ。僕の遺体から新聞紙を離した彼女は、それを電灯にかざして、そこにできた薄い薄い滲みを確認すると、それを元通りに手際よく折り畳んで、保管袋の中に戻した。その袋を棺桶のふたの上に置いた彼女は、見下すように僕の遺体を少し眺めた後で、棺桶のふたを閉めた。まったく、合掌の一つでもしてくれていいものだろうに、ぞんざいな扱いだ。それに、同僚の遺体を入れる棺桶だって、もう少し良い物にしてくれてもよかったのでは。まあ、あの飯島刑事の遺体と並べて置かれなくて良かったけど。彼の遺体は今頃、病院で司法解剖の最中だろう。僕と同じように、その時の痛みを若干引きずるならば、彼は今頃どこかで相当に苦しんでいるはずだ。可哀そうに。


 貴島警部補が安置室から出ていく。手袋は外し、ドアを静かに閉めて、丁寧に鍵を掛ける。彼女は周囲を見回してから、ポケットから鍵の束と入れ替わりに取り出したアトマイザーから自分に香水を振り撒き始めた。僕はこういう状態だから臭いなど分からないけど、見た感じでは、少し付け過ぎだと思う。きっと防腐剤の臭いが相当気になっているに違いない。深呼吸なのか臭いの確認なのか分からないが、貴島警部補は鼻で大きく空気を吸うと、納得顔で歩き始めた。来た時と同じように早足で廊下を進み、階段を上がっていく。そして彼女は、この部屋の前に来た。


 少し寒気がするのだろうか、貴島警部補は襟元を整えている。いや、寒いふりをしているのかもしれない。彼女は襟を触りながら周囲を見回している。そして、誰にも見られていない事を確認すると、競馬新聞を入れた証拠袋を左脇に挟んで取調室の隣室の前に立ち、ドアノブを握ってドアが施錠されていることを確かめた。


 続いて彼女は、ポケットに右手を入れると、中からクリップを取り出した。いったい何事だろう。彼女はそれを指先で伸ばしてまっすぐにすると、針金状となったクリップをこのドアの鍵穴に差し込んだ。そのまま右手でクリップを左右に強く動かしながら、左手ではポケットから取り出した鍵の束の鍵を一本ずつ親指で送って、このドアの鍵を探している。なかなか器用な女だと感心する。鍵を見つけた彼女は右手をより強く左右に振った。差し込まれていたクリップが折れて、その根本だけが鍵穴から少しつき出ている。貴島警部補は左手に持った鍵の先をそこに押し当てた。そのまま両手で力を込めてその鍵を鍵穴の中に押し込む。そして、差し込んだ針金が中で屈折してつっかえ、これ以上奥へは入れられないところで鍵を抜く。もう一度ドアの施錠を確認してから、彼女は鍵の束をポケットに戻した。


 取調室のドアの前に移動し、証拠保管袋を胸の前で持ち直した貴島警部補は、一度軽く息を吐いて呼吸を整えてから、ドアを開けて取調室の中に入っていった。


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