34

 僕が矢神警部を追いかけようとすると、廊下の突き当りの談話スペースから声が聞こえた。女の癇声だ。少し気になって、僕はそっちの方に歩を進めてしまった。


 談話スペースの前にくると、自動販売機の横の角に置かれたベンチに腰かけている二人を見つけた。小山旬巡査と川名真彩巡査だ。二人は小声で話している。立ち聞きは良くないけど、二人の話し合いに割って入るほど、どちらとも親しい間柄でもないし、どうしたものかと僕は戸惑ってしまった。


 小山巡査が声を殺して言っている。


「仕方ないだろ。ここは危ないんだから。マーヤも襲われるかもしれないんだよ」


 川名巡査は普通の声で答えていた。


「私だって刑事なのよ。それくらいの覚悟はできているわよ」


 小山巡査は川名巡査に声の大きさを落すように宥めながら、必死に彼女を説得していた。


「分かってるって。でも、シフトの勤務時間はもう終わりだろ。金井も確保されて一段落ついたし、マーヤが退庁するって言っても、誰も怒らないよ。帳場だって、もうすぐ解散だし、そしたらお茶出しとかも必要ないじゃないか。帰っても文句は……」


「ひどい。私ね、お茶酌みしたくて捜査本部の支援に志願した訳じゃないのよ。将来、旬くんが一課の刑事になった時に何か役に立てるかもって思ったから、手を挙げたんじゃない。それにどうして私だけ一人で帰らないといけないの。今日は折角のクリスマスイブなのに。今朝は、遅くなっても一緒に帰ろうって言ってくれてたでしょ。私だって女の子なんだからね、クリスマスイブがどれだけ大切な日か……」


 ついに川名巡査は声を曇らせ涙を溢れさせた。慌てた様子で小山巡査が言う。


「分かってる。分かってるって。だから、ほら、明日、二人でゆっくりと、ね、だから泣かないで……ああ」


「ふえええん!」


 彼女は泣き始めた。なぜ彼女が刑事になれたのか、僕にはそれが分からない。川名巡査に自分のハンカチを渡した小山巡査は、座ったり立ったりしながら、ものすごく焦った様子で必死になって彼女を宥めた。


「だから、ほら、西八堀署からの案件も今必死になってやってるから。倉田さんも手伝ってくれているし、今日中に向こうの署に戻せる目途が立てば、明日は捜査本部からも解放されるだろうし、そしたらレストランでも予約して、二人で美味しいもの食べて……」


「今から予約なんて取れる訳ないじゃん!」


 ハンカチを投げ返した川名巡査は立ち上がり、向こうへと駆けて行った。


「あ……ちょっ、待っ……ええー。予約変更したばかりなんだけど……」


 小山巡査はベンチに腰かけたままスマートフォンの画面にレストランの予約サイトを広げて、それと川名巡査の背中を交互に見ながら困惑していた。


 駄目だこりゃ。


 僕は仕方なく川名巡査の後を追いかけた。


 川名巡査は女子トイレに駆け込んだようだ。さすがにそこまでは追いかけていけない。それに、泣きながら走っていた彼女は忘れていたのかもしれないが、隣の男子トイレは今朝飯島刑事が殺害された現場だ。まだ立ち入り禁止のテープが貼ってある……ん? 腰高の位置のテープがはずれていた。中を覗くと貴島警部補が立って周囲を見回している。男子トイレの中で何事かと僕は中に入ろうとしたが、彼女が何をしているのか不思議に思い、その場から様子を伺うことにした。


 貴島警部補は入口から飯島刑事が倒れていた場所までの歩数を数えたり、金井が使用していた一番奥の個室の隣の個室の中から外を見てみたり、その隣の一番手前の個室から外を見てみたりしていた。もう一度真ん中の個室の中に立ち、一人でブツブツと言っている。


「三秒……ここに犯人が隠れていたとすれば、最短で三秒で飯島巡査長を殺害できたはず。そして、立ち去るまでに……飯島巡査長と同程度か彼以上の身長だとすると、約四秒。犯人は人を殺し、その場から立ち去ることを七秒以内で終えている……」


 個室から出てきた彼女は白線で囲われた飯島刑事の遺体の発見場所の近くに再び立ち、左の肘を右手で支えて呟いた。


「これだけ手早く仕事をしている殺し屋が、犯行から十時間近く経つのに、他に誰も襲っていない。どうして」


 包帯をした左手を額に当てて考えていた彼女は、ふと顔を上げた。


「違う。『襲っていない』ではなくて『襲うことができていない』のかも。でも、たった七秒程度の隙を見つけることができないほど、この署内は緊張している? いいえ、本庁舎内と比べたらセキュリティはザル同然。署員の警戒もぬるい。ということは……犯人はこの署内にいない。犯行後すぐに久米沢署から去った。犯人はこの署に留まることができなかったということ。犯行後にこの久米沢署から外に出たから次の犯行に着手できなかった?」


 貴島警部補は急いでポケットからスマートフォンを取り出すと、それを操作しながらこちらに歩いてきた。


 不味い、鉢合わせたら、きっと僕が疑われる。僕は外に出て隣の部屋の入口に入り身を隠そうとした。その時、背後で声がした。


「きゃ! ――あの、こっちは女子トイレですよ」


 川名巡査だった。僕は咄嗟に言ってしまった。


「ああ、ごめん、ごめん。隣がほら、今は使えないから……と思ったんだけど、こっちも使えないよね、僕は」


「当たり前です。下か、上の階を使ってください」


 川名巡査はさっきより少し元気を取り戻したようだ。目は真っ赤に腫れているが……。


「ああ、そうするよ。ごめんね。じゃあ、下のトイレにでも行こうかな」


 と言っておいて、彼女と共に男子トイレの前を通りながら、さりげなく話を切り出す。


「ところで、やっぱりあれだよねえ、なんか外は雪だし、寒いねえ。あ、そう言えば、寒いといえば、小山巡査のことだけどさあ……」


 なんだ、この繋げ方。我ながら言語力の低さに情けなくなる。


 僕は必死に話しながら、歩いていった。なぜ僕が必死にならないといけないのかと首を傾げてしまったが、それ以上に不思議なのは、男子トイレの中から貴島警部補が出てこない事だ。僕が怪訝に思いながら歩いていると、川名巡査が言ってきた。


「小山巡査がどうかしたのですか?」


 やはり気になるか。そりゃそうだろうね。でも、からかうのはよそう。根がまじめな二人のためだ。ここは年上の僕がひと肌脱いであげよう。


「いや、彼は頑張っているなあと思って。矢神警部も優秀な奴だと言って感心してたよ」


 川名巡査は目を丸くして声を裏返した。


「え、本当ですか?」


「あれ、彼の事なのに、随分と嬉しそうだね」


「あ、いえ。同じ課の同僚なので、つい……」


「んん、まあ、いいや。彼ね、今日も体を張って被疑者を銃弾から守ろうとしたんだよ」


「え? なんですか、それ。聞いてないですけど」


「それって、何でだと思う?」


「何で……」


「もちろん、仕事を頑張って、出世して、好きな人を幸せにしたいからっていう理由もあるかもね」


「あ……そうなんですか。いやだ……なんか、照れますね」


「どうして君が照れるの」


「あ、いや、その……言い間違いですよ。あははは。ウケますね、の間違いです。あははは」


 なんじゃそりゃ。ウケてどうする。


 愛想笑いで必死に誤魔化す彼女の隣で僕は首を傾げてから、彼女に言ってあげた。


「でも、本当の理由は、小山旬がそうした本当の理由は違うと思う。彼は守ろうとしたんだ。正義を。自分の命を懸けて。彼はそういう男だよ」


 川名巡査はキョトンとした顔をしていた。僕はその顔を軽く指差して、続けた。


「君の傍に居る小山旬という男は、誠実でまじめな男だ。警察官としても、きちんとした信念を胸の中にしまっている。だから、あの場でも咄嗟に動けたのだと思う。その彼が今、命を懸けて必死に守ろうとしているものが、もう一つある。分かるよね。君さ。彼は君の事を守ろうと必死なんだ。だから今、危険な状態にあるこの久米沢署から君を遠ざけようとしてくれている、それは理解しているよね」


 川名巡査は黙ってコクリと頷いた。


「信用していい男だと思うよ、彼は。それと実はね、ここだけの話、ちょっと彼のスマホが見えちゃってさ。彼、ちゃんと君のために、明日、立派なレストランを予約してくれているみたいだよ。たぶん、ちょっと無理して」


「ふーん……そうなんですか……」


「それと、事件は僕らがしっかり解決するから、大丈夫。君の大切な旬くんに怪我をさせるような事には絶対にならないから。安心して」


「え? でも、なんで私と旬くんの事を知っているんですか? もしかして監察の方なんですか?」


「あ……いやあ……なんていうかな、しまったなあ……」


 今度は僕の方が愛想笑いで誤魔化していると、一階のエントランス付近が何やら急に賑やかになってきた。どうやら、現場に出ていた警官が帰ってきたようだ。


「ほら、みんな帰ってきた。君も大部屋に戻っていないと、先輩たちに怒られるんじゃないの?」


「ああ、そうですね。では、私はこれで失礼します」


 敬礼した川名真彩巡査は大部屋の方に戻っていった。僕が顔を横に向けると、向こうの方で男子トイレの前に立つ貴島警部補が強く怪訝な顔をして、こちらを見ていた。視線を逸らした僕は、何となくバツが悪い気がして、そのまま川名巡査を追いかけるように大部屋へと急いだ。


 大部屋の中から出てきた倉田刑事が向こうから歩いてきた。スマートフォンを操作しながら不機嫌そうに歩いてくる。すれ違った川名巡査が尋ねた。


「あ、倉田さん、お疲れ様です。旬……小山巡査を見ませんでしたか?」


 立ち止まった倉田刑事は、スマートフォンを耳に当てながら言った。


「ちょっと待ってくれ、すぐ終わる」


 そう言った彼は通話を始める。


「ああ、もしもし、倉田です。どうした。――うん、うん。そうか、お母さんも。そうだよな、心配するよな。分かった、おじさんが直接電話するから待っていなさい。そっちには、後で電話するから。それじゃ」


 倉田刑事はスマートフォンを耳から離して画面を押すと、顔を川名巡査に向けた。


「まったく、あの相良とかいう野郎、使えやしねえ。本庁に電話もしてないし、こっちを手伝い始めてすぐ、上からの急な電話だとかでバックレやがった。結局、俺と小山の二人だけじゃねえか」


「身元不明遺体の特定なんですよね。目途は立ちそうなんですか?」


「ああ。たぶん、あと数時間もあれば特定できると思うよ。下着一丁で浮いていた死体だから、手掛かりが無くて苦労すると思ったら、奥歯に治療痕があったし、膝の手術も受けているみたいだ。歯医者の治療データベースと歯型を照合すれば、かなり絞られる。それに特殊な膝の手術だ。たぶん、どんなに遅くても、明日の朝には身元が判明するな、こりゃ」


「じゃあ、照会の回答を待つだけですね。よかったあ」


「良くないだろ。一人の遺体だぞ。不謹慎だ」


「すみません。そうですね。不謹慎でした」


「まあ、でも、これも小山が資料の隅の記載を見つけたからだ。ちゃんと褒めてやれよ。マーヤちゃんに褒められたら、みんな喜ぶんだから。特にあいつは」


 川名巡査は嬉しそうに笑って、顔を赤くした。大きな顔で片笑んでから去ろうとする倉田刑事に彼女は尋ねた。


「あの、倉田さん、直接電話するって仰ってましたけど、私、何か手伝いましょうか。連絡業務とかならお手伝いできそうですし。ウチの課の小山を手伝ってもらったお返しと言ってはなんですけど……」


「ああ、大丈夫。本庁の監察部に電話するんだよ。相良の奴がまだ問い合わせていないみたいだからな。のんびりしやがって。あ、そうそう、さっきウチの課長が探していたぞ」


「え? 鞆橋課長がですか?」


 僕は彼女に手を振り、廊下の奥を指差した。向こうから、その鞆橋課長が小走りで歩いてくる。彼は倉田刑事を見つけると手を振って言った。


「おーい、倉田君、ちょっと話が……あ、川名くん、君にも……おお、貴島警部補、こんな所に居たんですか。お探ししましたよ」


 その手前に立っていた貴島警部補にも気づいたようだ。どうやら鞆橋課長は用事がある相手全員に一度に出くわしたらしい。彼はキョロキョロと三方を見回してから、やっぱり貴島警部補に話し掛け始めた。それを見て倉田刑事が溜め息を漏らす。


「何なんだ、あの人は。俺、ちょっと煙草吸ってくるわ。何だか、あの人の声を聴くとイライラする。マーヤちゃん、悪いが矢神警部が飯食いに戻ってきたら俺のスマホに連絡くれないか。あの相良とかいう馬鹿の事で、ちょっと話があるんで、警部たちと一緒に食いたい。絶対に忘れないでくれ」


 そう言って、倉田刑事は煙草を咥えて階段を下りていった。


「どうしたんでしょうね。相当に機嫌悪そうですね。ニコチン切れかな」


 尋ねてきた川名巡査に、僕は向こうで鞆橋課長と会話している貴島警部補に顔を向けたまま答えた。


「例の死体の件を相良警部補と一緒に調べていたみたいだから、相良さんと馬が合わなかったのかもね。手際でも悪かったのかな、彼」


 向こうから貴島警部補と鞆橋課長が話しながら歩いてきた。


「つまり、こういう事ですか。飯島を殺した犯人は、既にこの署の外に出ていて、今はこの署の中は安全だと」


「そこまでは分かりませんが、少なくとも、この十時間近く署にいなかった者が犯人ではないかと」


 鞆橋課長は一階のエントランスを望みながら言った。


「ということは、こうして帰ってきた警官たちの中に犯人がいると」


「かもしれません」


「そんな馬鹿な。考え過ぎですよ。もし警部補殿の仰るとおり犯人が外に出ていたとして、晩飯を食いにわざわざ戻ってきたというのですか。馬鹿馬鹿しい」


「いえ、そうではなくて、新たな標的を殺害するために戻ってくる可能性が……」


 困惑顔でそう答えた貴島警部補に手を一振りしてから、鞆橋課長は川名巡査に話し掛けた。


「川名君、悪いんだが、もうすぐお弁当屋さんが夕飯のお弁当を持ってきてくれるんだよ。でね、いつもより少し量が多いんだ。お茶とかも。それと、特別に松花堂弁当も頼んである。女性一人で運んでくるそうだから、それを三階の大会議室と四階の署長室に運ぶのを手伝ってあげてもらえるかな。たぶん一人じゃ無理だから」


「わかりました」


 快く返事をした川名巡査は、階段で一階に下りる前に僕に頭を下げてこう言った。


「なんだか、元気が出ました。ありがとうございました」


 僕の隣に立っていた貴島警部補は目をパチクリとさせて驚いた顔をしていた。たぶん、普段他人からお礼を言われることが無いのかもしれない。哀しい人だ。


 階段を次々と警官たちが上がってくる。僕と貴島警部補はその人波とは逆方向に階段を下りていく川名巡査を見送ってから、人の流れに乗って大部屋へと戻っていった。


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