27

 乗ってきた覆面パトカーの運転席に座り、コートの襟を整えながら、矢神警部は言った。


「うう、冷えたな……」


 エアコンの温度を調整すると、矢神警部はポケットから取り出した黒いスマートフォンをダッシュボードの下に隠して、助手席に座っている貴島警部補と後部座席の僕に見えるように示した。


「西八堀署の捜査用スマホだ。借りてきてもらった」


「……」


 当然、沈黙だ。分かる訳ない。早くタネ明かしをしてほしい。僕は後部座席からイラついた顔を警部の後頭部に向けた。


 そのスマートフォンを操作し始めた矢神警部は、自分のスマートフォンも横に並べて、それを見ながら西八堀署のスマートフォンに電話番号を入力していった。番号を打ち終えると、自分のスマートフォンをポケットに仕舞いながら説明する。


「この端末の番号は、葛木も自分のスマホの電話帳に入れているはずだ。つまり、こいつを使って奴のスマホに電話を架ければ、その登録内容で表示される。それを見た人間は西八堀署の人間からかかってきたと思う」


 矢神警部はスマートフォンを耳に当てた。暫く待って、急に大きな声を出す。


「ああ、もしもし、葛木巡査長?」


 電話に出た相手に少し喋らせてから矢神警部は言った。


「なんだ、違うのか。――いえいえ、お疲れ様です。私は西八堀署の者ですがね、今、窃盗犯の逮捕現場で仕事が止まっているんですよ。急いで連行したいのですが、強情な奴でしてね。こいつは葛木さんが以前にパクった奴なんですが、今言っている事が本当なのかどうか真偽を確かめたい事があるんですよ。嘘ならすぐに引っ張れるんでね、一発で解決ですわ。なんで、今すぐに彼と替わってもらえませんかね。急いでいるんで、よろしくお願いしますよ」


 たしか倉田刑事は、葛木という刑事は本庁の監察部で事情聴取を受けていると言っていた。つまり、外部との連絡は遮断されているはずだ。当然、スマホの類も押収されているだろう。でも、捜査協力のためとなれば電話を繋がざるを得ないはずだ。たぶん、矢神警部はそう考えたに違いない。


 矢神警部は声を荒げた。


「はあ? あのなあ、こっちは今、現場で被疑者を押さえられるかどうかの瀬戸際なんだよ。これでこのマルヒに逃げられたら、あんたが責任とれるのかよ!」


 迫力はあるけど、意外と演技が下手だ。まあ、矢神警部がそれだけ正直な人だという事だろうけど、これはバレるな。


「そんな事はいいから、早く葛木巡査長と替わってくれ。こっちは急いでいるんだ。彼しか分からない事なんだ」


 あーあ、完全に拒否られてるな。駄目だ、こりゃ。と僕が思っていると、助手席から貴島警部補が矢神警部の耳に当てられているスマートフォンに手を伸ばした。


「すみません、ちょっと替わってください」


 半ば強引にスマートフォンを取り上げた彼女は、それを耳に当てるとすぐに言った。


「被疑者の代理人弁護士です。今すぐ葛木巡査長を電話に出していただけないなら、こちらはこの事実をもって刑事法廷で不当捜査の主張をしますよ。当然、あなたやあなたの上司を証人として法廷に呼ぶことになりますが、よろしいですか」


 矢神警部が慌ててスマートフォンを取り上げた。彼は貴島警部補を一睨みすると、すぐにまたスマートフォンを耳に当てた。


「とにかく、すぐに……そうか。じゃあ、頼む」


 矢神警部は急に大人しくなった。まさかと思うが、相手が葛木巡査長に電話を繋いでくれるのだろうか。貴島警部補のサイドキックが効いたみたいだけど、それにしても弁護士を名乗るとは大胆な女だ。僕には到底マネできない。ていうか、真似しちゃ駄目だ。


 葛木巡査長が電話に出るのを待っている矢神警部に貴島警部補が言った。


「これで私も同罪です」


 頭を下げた彼女に矢神警部は溜め息で返事をしてから顔を上げた。


「ああ、葛木か。俺だ、分かるか」


 少し待ってから、今度は普通より少し小さめの声で、彼は通話を続ける。


「大変だな。おまえも造田と同じように、俺たちから遠ざけられているみたいだな。監察の連中にしぼられたか」


 矢神警部は少し笑った。


「そうか。変わらん奴だな。それよりおまえに教えてもらいたい事があるんだ。どうだ、今、答えられそうか」


 矢神警部は少し焦った様子でメモを取る仕草をした。貴島警部補が鞄からメモ帳とペンを取り出して渡す。


「よかった。端的に言う。金井だ。居場所を知りたい。警察にもヤクザにも見つからない場所だ。心当たりはあるか」


 矢神警部は肩と頭でスマートフォンを挟んだまま必死にメモを取った。


「うん、うん、そうか。分かった。助かった」


 ペンを膝の上に置いた矢神警部はメモを取った頁を破り、メモ帳とペンを貴島警部補に返した。そのまま手許の紙片を見ながら怪訝そうな顔でスマートフォンを持ち直し、静かに言う。


「葛木、負けるなよ。あれは事故だと信じているからな。それじゃ」


 矢神警部は電話を切った。バックミラーに映る彼の顔は、少し悲しく見えた。


 僕が心思うらおもっていると、助手席側の窓が軽くノックされた。覗いてみると、向こうも中を覗いていた。小山旬巡査だった。矢神警部が後ろに乗るよう合図する。後部ドアを開けて僕の隣に乗り込んできた小山巡査は、白い息を吐きながらダウンジャケットの肩に乗った雪を払い落した。外でやれよ、まったく……。


「うー、寒いっすねえ。暖房入れてないんですか?」


 矢神警部は少し振り向いて首を傾げてから言った。


「入れてるけど効かねえんだよ。それより、西八堀署からの宿題は貰ったんだろ?」


「宿題? ああ、倉田さんが渡した奴ですね。ええ、貰いました。これですけど」


 小山巡査は手に持っていた厚手の茶封筒を運転席の方に差し出した。A4サイズの書類が入る大きさで、厚さから察するに何らかの捜査資料だろう。矢神警部はそれを軽く押し戻すと、前を向いて言った。


「どんな案件だった?」


「まだ全部は読んでませんけど、身元不明遺体の特定案件ですね。今日の正午過ぎに、下水道の中で年末点検をしていた作業員に発見されたそうです。下水道はウチの署の管轄地域の方が上流になるらしいので、こっちでも身元を洗ってくれと」


 振り向いた矢神警部は、しかめた顔を小山に向けた。


「なんだ、そりゃ。どっちにしてもウチに照会がくる案件じゃねえか。いいのか、それで。スマホを貸してくれる代わりにウチで処理を引き受けるって案件だろ、それ」


「まあ、飯島さんの事を持ち出されたら、西八堀署の刑事も無下な事は言えませんよね。暴対課同士で飯島さんのことは知っていたでしょうし」


「頼んできた倉田の顔を立てたってことか。あの大きな顔を」


「どうなんですかね。倉田さんは、どうせ浮浪者の遺体だろうから、年明けまで持ち越す可能性が高い、面倒な案件だって言ってましたけど」


「まあ、年末までに処理件数のノルマを稼ぎたい気持ちは分からんでもないが、暴対課が振ってくる事案かね」


「いや、そのスマホ、生活安全課の方から借り受けた物らしいですよ。暴対課のスマホは応援組が全て持っていってたらしいです」


「ああ、そうなのか。なるほどな。西八堀署からの応援人員には向こうの暴対課の連中が名乗り出た訳だ。まあ、そうだよな」


「で、これ、どうすればいいんでしょうか」


「おまえが調べろ」


「え? 僕がですか?」


「俺たちは手が回らない。それに、おまえは生活安全課だろ」


「いや、そうですけど、年末の生活安全課がどれだけ忙しいかご存じですよね。しかも、この遺体、顔も指紋もふやけているみたいですから、どうやって特定したらいいのか……」


「大丈夫、知恵は貸してやるよ。それから、これ、借りたスマホだ。倉田に渡しといてくれ。今日中に返せだと」


 矢神警部は小山巡査に黒いスマートフォンを渡した。それを受け取りながら小山巡査はまた尋ねた。


「じゃあ、僕はもう署に戻ってもいいんですか」


「いや、ああ、確認のために、ちょっと訊くが、おまえ今、拳銃を携帯してるか」


「け、拳銃? いいえ、してませんけど」


「そうか……」


 前を向いて少し考えた矢神警部は、何かを決断したらしく、また振り返った。彼は小山巡査の目を見て言う。


「おまえ、捜査一課に上がる気はあるか」


 小山巡査は目をパチクリとさせて、返事に戸惑っていた。


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