25

 暮れなずむ街区には雪がちらついていた。大通りから入る横道は帰宅を急ぐ車のフロントライトに照らされている。竜崎剣吾が乗った車を尾行してきた僕らは、路肩に停めた一台の覆面パトカーの中にいた。フロントガラスの向こうにはタワーマンションのエントランスとマンションの地下駐車場の入口が見える。ガラス張りのエントランスは丁寧に飾られたLED電球でクリスマスカラーに照らされていた。奥のロビーから望める道路沿いの小庭にもシカやソリが眩い電飾で形作られている。


 運転席の矢神警部は資料を捲りながら言った。


「ここ、本当に竜崎の自宅マンションなのかよ。資料の住所と違うじゃねえか。それに、結局どこにも寄らずにここに着いたはいいが、あいつ、自宅に現金を隠しておくような守銭奴タイプには見えなかったぞ」


「……」


 貴島警部補は黙っていた。さっきの矢神警部の怒声が応えたのだろう。口を噤む方向に切り替えたらしい。僕と同じだ。まあ、僕の場合は、何か喋れと言われても困るけれど。


 暫くすると、向こうから子供を連れた若い女がやって来た。高級ブランドのロゴが入ったダウンジャケットを着た女児を連れたその栗毛の女は、純白のカシミヤのロングコートを着て、高いヒールのブーツを履き、やはり一見して高級ブランドと分かるバッグを肩にかけている。女児と繋いでいる手と反対の手には大きなケーキの箱を提げていた。箱には近所の有名ケーキ店の名前が記されている。


 矢神警部は資料とその二人の間で視線を往復させたあと、上着のポケットから取り出したスマートフォンを操作し、耳に当てた。


「ああ、俺だ、矢神だ。敷島しきしま巡査、今そっちの方向から歩いてきた子連れの女は見えたか」


 久米沢署の暴対課の刑事である敷島巡査は竜崎の追尾の応援として他の刑事と共にこの車両とは反対方向の角を固めている。相良警部補と他数名の者だけで内密に進めている作戦だが、被疑者二名の身柄確保となると、それなりに人員が必要となる。刑事課の鞆橋課長が暴対課や生活安全課の各課長と話をつけ、なんとか必要な人員を揃えてくれた。もちろん、敷島巡査たちに事の詳細は知らせてはいない。


 矢神警部はスマートフォンを耳に当てたまま敷島巡査に言った。


「嫁? 竜崎の嫁か。間違いないんだな」


 膝の上の資料を捲りながら、矢神警部は続けた。


「確認だが、暴対課の資料には載ってねえぞ。子供も、ここの住所も。しかも竜崎は独身となっている。どういうことだ」


 敷島巡査の返答に、彼はすぐに声を荒げた。


「資料外だと? なんだ、それは。どういうことか、分かるように言え!」


 資料を後部座席に放り投げた矢神警部は癇声で言う。


「つまり、こういう事か。あの母子は堂本会の連中も知らない竜崎の隠し家族で、その事は、おまえと数名の警官しか知らない極秘情報だと」


 強く舌打ちした彼は、更に尋ねた。


「その極秘情報を最初に掴んで管理していたのは誰だ」


 悔しそうに歯ぎしりした矢神警部は深く息を吐いて呼吸を整えてから、敷島巡査に言った。


「わかった。おまえら、すぐにその場から離れろ。署に戻っていい」


 一瞬、スマートフォンを耳から離そうとした彼は、すぐにそれを耳に当てて大声で怒鳴った。


「馬鹿野郎! 殺されたいのか! 掃除屋のターゲットはその情報を握っていた警官かもしれんのだ。そんな所に居たら、おまえも奴に片付けられちまうぞ。さっさと署に戻れ! それと、便所は一人で行くんじゃねえぞ、いいな!」


 荒っぽくスマートフォンの画面を親指で押した矢神警部は、それを再び操作しながら言った。


「畜生、やはり飯島だ。あいつは竜崎に関するプライベートの情報を掴んでいやがった。しかも、その内容を正式に報告をしてない。たぶん、裏で竜崎をゆすっていたに違いない。竜崎が組にも隠している大切な家族の情報を公開するとか言ってな。おそらく敷島もグルだろう。飯島の口座に振り込まれていた金は堂本会の金じゃない。竜崎だ。奴が個人的に振り込んでいたに違いない」


「……」


 貴島警部補はまた黙っている。僕も黙っていよう。


 矢神警部はスマートフォンを耳に当てて呼び出し音を聞きながら、早口で続けた。


「竜崎の奴、飯島殺しは掃除屋が勝手にやったとか言っているらしいが、あれは竜崎がやらせたに違いない。俺たちは一杯食わされたのかもしれん」


 矢神警部が頭の角度を変えた。相手が電話に出たようだ。


「俺だ、矢神だ。――ああ、マーヤ。近くに相良警部補は居るか。居たら替わってくれ」


 暫く待った後、矢神警部は低めた声で言った。


「相良か。おい、おまえ、本当は何と指示されているんだ。竜崎には何を伝えた!」


 また車内に矢神警部の声が響いた。彼はさらに怒鳴り続ける。


「何の事ですかだあ? 惚けんじゃねえ! 竜崎のマンションに奴の女とガキが尋ねて来たぞ。クリスマスケーキを提げてな。大切な家族と過ごす予定があるクリスマス・イブに自分から警察に出頭か? あの野郎は自分が解放される事を知っていたんだろう!」


 少し間を空けて相手の話を聞いていた矢神警部は、やはりまた怒鳴る。


「そんな訳ねえだろ! 女が提げていたケーキは、すぐそこの大通り沿いのケーキ屋の物だ。予約なしには買えねえんだよ。竜崎は自分が解放される事を知っていて出頭したという事は、その前に既に警察と堂本会で話がついていたんじゃねえか。おまえ、警察が暴力団と裏取引した事実を俺たちに被せるために、あんな下手な芝居を打ったんだな」


 すると、貴島警部が助手席から口を挿んだ。


「警部、それはおかしいと思います」


「どこがだ」


「裏取引の事実を我々になすり付けるのが目的なら、相良警部補ではなく、木多見管理官に指示するのではないでしょうか」


「……」


 矢神警部は貴島警部補の顔をじっと見て考えてから、スマートフォンに声を投げた。


「ちょっと待ってろ」


 そして貴島警部補に言った。


「相良も利用されたと思うのか」


「分かりませんが、そもそも、警察上層部のどこかが動いて、裏で堂本会の力を使ってでも今回の事件の早期収束を図っているとしたら、わざわざ竜崎を出頭させるでしょうか。あの時点で既に堂本会との何らかの協定が成立しているとしたら、竜崎を出頭させて事を表沙汰にするのは不自然です」


「裏協定が成立していたとしたら、竜崎の出頭には何か別の目的があったという事か」


「おそらく。それに、相良さんに上が指示したのは我々を除外して事を進めるためという話は真実だと思います。それは、その何らかの竜崎の目的と関係があるのでは」


 険しい顔で考えていた矢神警部は、呟くように言った。


「おまえだな」


「え?」


「おまえだよ。貴島警備局長の娘である貴島茜警部補、おまえを巻き込まないようにするためだ」


「私を? どういう事ですか?」


「警察としては、暴力団との協定はかなり後ろめたい。まして、その内容によっては、裏協定をした事実自体を否定したい。そこで、現場に陣取っている捜査一課の木多見班が独断でした事にしたい。が、その木多見の下には貴島警備局長の娘のおまえがいる。貴島警部補を関わらせないようにして事を進めたい。そこで相良警部補が抜擢された。監察官を務める程まじめな相良警部補なら、裏協定に異を唱えて木多見管理官たちに何らかの直訴をするに違いない、上はそこまで読んでいたんだ。だから竜崎と直接接触させ、対応させた。木多見管理官も上の読み通りにこっそりと動いてくれている。予定外なのは一つだけ。おまえがここに居る事だ」


 矢神警部はすぐにスマートフォンを耳に当てた。


「相良、聞いていたか」


 相良警部補の話を少し聞いた矢神警部は、頷きながら言った。


「ああ、俺もそう思う。竜崎の出頭は時間稼ぎだ。奴は既に掃除屋に金を払い終わっているんだ。たぶん奴は掃除屋に飯島の殺害を依頼し、もう一人の殺害も依頼している。個人的にな。組はそんな事は知らないから、警察との裏協定に従って、それを実行するはずだ。そしてそれは、竜崎にとっても都合がいい。奴が掃除屋に依頼したもう一人のターゲットは……」


 助手席の貴島警部補がボソリと言った。


「金井幹雄……」


 警部補に顔を向けた矢神警部は、スマートフォンを耳に当てたまま強い視線を飛ばす。


「そうだ」


 彼は相良警部補との通話に戻った。


「俺たちはこれから竜崎を引っ張る。木多見管理官に事情を伝えて、金井の確保に全力で当たらせてくれ。おそらく、堂本会は金井を消すつもりだ」


 助手席の貴島警部補が驚いた顔をしていた。矢神警部は視線だけを貴島警部補に向けると、目で頷いてから通話を続けた。


「敷島たちは帰らせた。あいつらは竜崎をゆすっていた可能性がある。取調べは監察官のおまえに任せるが、帰宅はもちろん駄目だ。喫煙でもトイレでも、大部屋から外には出すな。保護のためだ」


 矢神警部はハンドルの上に身を乗り出すと、フロントガラスから上を覗いたり、角の向こう側を覗いたりしながら言った。


「それから、こっちに応援をよこしてくれ。できるだけ多い方がいい。竜崎は堂本会の幹部の一人だからな。今のところボディーガードらしき奴は運転手のチンピラ一人だけだが、念のためだ。頑丈な奴らを回してもらいたい」


 少し話を聞いて頷いた矢神警部は、「頼むぞ」と一言送ってから通話を終えた。上着のポケットにスマートフォンを仕舞う矢神警部に貴島警部補が怪訝そうな顔をして尋ねた。


「警察が暴力団に殺人を?」


 スマートフォンを仕舞い終えた矢神警部は、今度は懐に手を入れて、上着の中から拳銃を取り出した。彼は銃から弾倉を引き抜いて装填を確認しながら答えた。


「勿論、明確に指示はしないだろう。堂本会の対処方法を放置ってことさ。堂本会にとって金井は内部の情報を警察に売っていた裏切り者だ。奴らの流儀なら消すのは当然だろう。今の警察としても金井に消えてもらった方が、都合がいいはずだ。そして、浅木殺しも飯島殺しも全て金井の犯行だということにする。被疑者死亡での送検なら人権侵害で訴えられることもない」


 矢神警部は話しながら、拳銃の安全装置を確認して脇のガンホルダーに戻した。所轄の刑事とは違い、本庁から所轄の捜査本部に出向してきている僕ら刑事は、初めから拳銃を携帯している。普段から携帯しているという訳ではなく、捜査の途中で拳銃携帯が必要となる事態が生じた時に、いちいち本庁まで取りに戻ることが無いように、本庁を出る時から拳銃を携帯しているという訳だ。つまり、所轄の捜査本部に出向く時だけ携帯するということ。だから、矢神警部のようなベテラン刑事でない限り、大抵は拳銃携帯には慣れていない。貴島警部補もそうなのだろう。矢神警部に顎で促され、彼女はハッとしたように動き出した。上着の中に手を入れて、支給されたばかりの真新しい拳銃を取り出す。艶光した拳銃には丁寧に左のガンホルダーからランヤードがついていた。ランヤードは紛失したり犯人から奪取されることを防ぐための紐だ。制服警官の拳銃には標準でランヤードが取り付けてあるけど、貴島警部補は私服刑事となった今でも左脇のガンホルダーと拳銃をランヤードで繋いでいるようだ。安全対策であるので別に規則違反ではないけれど、矢神警部たちはそんな物は付けていない。瞬時に銃を抜く必要がある時に紐が腕に絡まって対応が遅れる恐れがあるからだと先輩刑事に教わった。だけど、キャリア警官の貴島警部補としては、職務中に現場で銃を抜くことなど想定していないのだろう。銃の扱いにも慣れていないようだ。弾倉を引き出す作業もどこかぎこちない。隣の運転席から矢神警部が危なそうな顔をしながら見ている。僕も一応、運転席の真後ろに腰をずらした。


 丁寧に弾倉を押し戻した貴島警部補は、指先で安全装置を弾いてオンにすると、左脇のガンホルダーに戻しながら言った。


「では竜崎が出頭したのは」


「堂本会が金井を探す時間を稼ぐためだろう。飯島殺しの犯人が別にいるとなれば、ひとまず金井の捜査は緩む」


「なるほど。では、もう既に堂本会による金井の捜索はある程度進んでいると」


「そうなるな。だが、まだこちらに何の情報も上がってきていないという事は、堂本会も俺たち同様に金井を見つけられていないという事だ。あいつ、いったい何処にいるんだ」


 矢神警部は再び上着のポケットからスマートフォンを取り出すと、それを操作し始めた。


 貴島警部補が思案顔で言う。


「堂本会は裏社会の情報網を使って、かなり細かな捜索を行っているはずですよね。表は警察が大々的に捜査している。この状況で隠れ続けられる場所など在るのでしょうか……」


 僕もそう思う。堂本会は広域指定暴力団の一つだ。そんなところと警察の両方から追われて、この国の中で逃げ場所などあるのだろうか。


 矢神警部はスマートフォンを耳に当てて言った。


「ああ、俺だ、矢神だ。どうだ倉田、手に入ったか」


 また貴島警部補が怪訝そうな顔で矢神警部の横顔を見ている。怪訝なのは僕も同じだ。何かを倉田刑事に頼んだようだけど、例によって例のごとく、僕らは何も聞かされていない。


 矢神警部は頷いた。


「そうか、分かった。俺たちは今、竜崎の自宅マンションの前で張っているんだ。――いや、そっちじゃない。兎に角、今の位置情報をそっちに送るから、おまえ、こっちまでそれを持ってきてくれないか」


 矢神警部は倉田刑事に「悪いな」と言ってから電話を切った。


 この状況では予定される動きは全て把握しておきたい。貴島警部補も同じだろう。でも、彼女は何も尋ねなかった。僕が口を開こうかと逡巡していると、矢神警部の方が口を開いた。


「せっかくのクリスマスだ。家族と一緒にケーキ食うくらいの時間は待ってやろう。だが、猶予はそれまでだ。奴がケーキのロウソクの火を吹き消した時、それが終わりの始まりの合図だ。最後の晩餐だ、しっかり味わうがいいさ」


 シートに身を投げた矢神警部の片笑んだ顔をバックミラー越しに覗きながら、僕は思った。


 ロウソクの火を消すのはバースデーケーキでしょ。


 車の外はすっかり暗くなっていた。夜空から落ちる雪は少しずつ多くなっていった。


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