9
廊下の壁際に置かれた長椅子の上に腰かけて、川名巡査は顔を両手で覆って泣いていた。隣で倉田刑事が必死に彼女を宥めている。
「いや、だから。小山は頑張った。あいつは偉い。走って追いかけたんだもんな。悪いのは竜崎。あいつが悪い」
川名巡査は両手で顔を覆ったまま、嗚咽しながら言った。
「運転していたのは別の人でした」
「じゃあ、その運転手が悪い。スピードを出した運転手がすべて悪い」
「法定速度だったと思います。運転も普通でした」
「それなら、車だ。な、車が悪い。全部その車のせいだ。そういう事にしよう」
「私が大声で応援したからです。だからバレて車が出ちゃったんです。雪が降ってたんですよ。応援したくなりますよね」
「なる! 絶対なる。よし、じゃあ、俺が総務課に行って、窓を分厚いのに変えてもらうよう言っておこう」
倉田刑事はピシャリと膝を叩くと、長椅子から腰を上げて、頭を強く掻きながら階段を下りていった。
一通り泣き終えたのか、川名巡査は何回かしゃくると、ハンカチで目元を拭き始めた。ふと見上げ、僕に言う。
「あ、すみません。もう、大丈夫ですから」
僕は仕方なく彼女の隣に腰を下ろした。
「君、刑事になって何年目?」
「まだ一年になりません。今年、ここに配置されたばかりなので」
「そっか。今回の事件については、どこまで知っているんだい?」
「えっと、本庁の捜査一課の刑事さんが殉職されたというふうに聞いています」
「そうなんだ。捜査資料とかは見てないの?」
「見てません。ていうか、まだ見せてもらってません。だれも見せてくれないので」
「小山巡査もかい?」
「勿論です。小山巡査はまじめな刑事ですから、たとえ同僚でも大事な捜査資料を見せることはしません」
「随分むきになるね」
「あ、いえ。ただ、なんか、そうかなあって」
彼女は両肩を上げて首を傾げた。
「ま、いいけど。それより、今回の事件は君と同じ警察官が犠牲になった事件だ。しかも、君が思うとおり、仕事絡みで殺された可能性が高いと僕も思う」
「え? まだ分かってないんですか」
川名巡査は目を丸くした。僕は自分の口の前に人差し指を立てる。
「しー。内緒だよ。僕の推理だから。でも、みんなも実は内心そう思っているはずだ。だから、あんなに一生懸命に働いてくれる」
「……」
「小山巡査もそうだし、倉田巡査部長もそう。みんな全力を尽くしている」
川名巡査は少し背筋を正した。どうやら、もう通じたようだ。
「だから、君も同じ警察官として全力を尽くして欲しい。君のできる事で」
「はい」
「いちいち泣いていたら、優しい倉田刑事の時間を奪ってしまうし、何より小山巡査の仕事の邪魔になるだろ?」
「小山さんの?」
僕は深く頷いた。
「彼、たぶん今頃、君の事が心配で、警部と管理官たちの遣り取りに耳が向いてないんじゃないかな。全く集中できてないと思うよ」
彼女の顔が急に明るくなった。僕は少し微笑んでから、すぐに真顔を作って言った。
「だから早く安心させてあげないと。ほら、腰を上げて、仕事に戻って」
川名巡査はさっと立ち上がった。お盆を胸の前に抱えて深くお辞儀する。
「ありがとうございました。あ、お盆を返してきますね」
川名巡査は軽い足取りで駆けていくと、入り口の前で急停止し、少し髪を整えてから大会議室の中に入っていった。
僕が長椅子から腰をあげると、すぐ目の前の階段を一人の男が上がってきた。黒いスーツをきちんと着こなした青年だ。歳は三十台前半というところだろうか。髪は長めだが奇麗に整えられていて、その下の顔も整っている。鼻筋が通っているうえに二重の大きな目をした甘いマスク。体型もスラリとした長身で、足も長い。姿勢も良く、まるで貴公子といった雰囲気だ。
僕は思わず軽く会釈したが、彼は全く見向きもしないで、僕の前を通り過ぎた。大会議室の入口の方へ歩いていく。僕もそちらに向かった。
大会議室の中から川名巡査が出てきた。背筋を正した彼女は中に向かって素早く奇麗な角度で腰を折った後、間を空け、すっと姿勢を戻した。そして向きをこちらに変える。その時に腰の辺りで小さく手を振った。たぶん中の小山巡査に向けてだろう。彼女は少し頬を赤くして、こちらに歩いてきた。口角がわずかに上がっている。足取りも軽やかだ。仕事の緊張感など微塵も感じられない。すれ違ったさっきの男にも後から気付いたようで、慌てて振り返りお辞儀する。その男は振り返りもせずに入口の方へと歩いていくと、その前で立ち止まり、ドア枠の横に掲げてある「戒名」つまりこの捜査本部の名称を確認してから中に入っていった。
一方、僕を見つけた川名巡査はまた僕に頭を下げた。
「あ、申し遅れました。私、生活安全課巡査の川名です。よろしくお願いします」
今度は素早く深々と僕に一礼してから、さっと短く敬礼した。そして一瞬だけ愛らしい笑顔を見せると、彼女は階段を下りていった。んー。これは、この先いろいろと大変かもしれない。僕は内心そう思った。
会議室の中に入ると、矢神警部が椅子から腰を上げていた。机の前には木多見管理官が立ったままだ。深沢補佐官は机を回り矢神警部の隣に立っている。入り口の横の席に座ったまま、小山巡査が困惑顔をしていた。たぶん、この状況は、木多見管理官と矢神警部が捜査方針を巡って激しく遣り合った後だろう。だとすると、川名巡査はこの状況で中の小山巡査にラブサインを送ったのだろうか。信じられない。
僕が何度も首を傾げていると、僕の隣に立っていたさっきの貴公子が口を開いた。
「あの、お取り込み中のようですが、よろしいでしょうか」
矢神警部が睨みつける。
「なんだ。俺と管理官の談笑を中断させる程、重要な事なんだろうな」
こんな殺気立った談笑なんてあるわけない。矢神警部も冗談が過ぎる。いや、笑える状況ではないか。深沢補佐官のその位置は、矢神警部が何かしたのを止めた位置なのか、それとも、何かするのを止めるための位置取りなのか……。ああ、また頭が痛くなってきた。
貴公子は名刺入れを取り出すと、その蓋を開きながら言った。
「それはどうか分かりませんが、一応ご挨拶をと思いまして」
彼は名刺を矢神警部に渡した。横の小山巡査に渡し、他にも配って回る。
木多見管理官が名刺を見るなり声を発した。
「連絡は受けています。ようやくお着きになられましたか、
「改めまして。警視庁監察部の相良です。この度はよろしくお願いいたします」
相良警部補はゆっくりと丁寧に頭を下げた。矢神警部はしかめ面を名刺と相良警部補の間で往復させている。
横から出てきた深沢補佐官が名刺を仕舞いながら言った。
「車のトラブルだと、ここの総務課の方に相良さんから電話があったと聞きましたが、大丈夫でしたか。言ってくだされば、迎えのパトカーを出しましたのに」
相良警部補は顔の前で手を振る。
「いや、大丈夫です。まあ、上からはかなり叱られましたが。でも、いいんです。私個人としては、捜査本部が立ち上がってすぐ、あのタイミングで私が着任しては、どう考えても皆さんの仕事の邪魔になると思いましたから」
木多見管理官と深沢補佐官は矢神警部の背後で机越しに顔を見合わせる。
矢神警部が訝しく睨んで尋ねた。
「なぜ監察が。殺人事件の捜査はおまえらの管轄じゃねえだろ」
「矢神くん」
矢神警部を窘めようとした木多見管理官に掌を突き出して制止し、相良警部補は言った。
「浅木巡査についての調査ですよ」
「なんだと……」
気色ばんだ矢神警部にすかさず深沢補佐官が言った。
「今回、被害者の浅木巡査は指定暴力団組員の金井と接触しようとしていたんだ。しかも、場末の馬券売り場のすぐ近くで。監察部の調査対象となるのは当然だろう」
それを聞いて矢神警部は目を丸くした。僕以上に。
「ちょっと待ってください。浅木は造田刑事の指示で金井とコンタクトを取り、金井の指定したあの場所に行っただけですよ。全部、職務行為じゃないですか。捜査でしょ。なんで監察部の調査の対象になんかなるんですか」
相良警部補が答える。
「お気持ちは分かります。私も個人的には、同じ警察官として、死者を鞭打つような事はしたくありません。ですが、形式的には彼の行動は監察部が調査するとなっている内部規則に当てはまってしまうのです。上も分かってはいると思うのですが、我々は警察内部で法律違反者や内部規則違反者を取り締まる部署ですので、自らもルールを厳守しなければなりません。どういう事情であれ、浅木巡査の行動が調査対象行為に該当する以上は、彼の件だけ目をつむる訳にはいかないのです。調査は形式的なものですので、どうかご理解の上、ご協力ください」
相良警部補はまた丁寧に深々と頭を下げた。それを横目で見ながら、深沢補佐官が言った。
「そういう事だから、彼は今回の捜査に加わってもらう事になった」
「いや、ちょっと待ってください。それでは現場捜査官たちの士気に悪影響が出ませんか。監察の刑事が一緒に捜査会議に並んでいたら、誰だって仕事はやりにくいでしょうから」
そう言った矢神警部に相良警部補は口角を上げて言った。
「ご安心ください。私は刑事ではありませんから、捜査に関与するつもりはありません」
確かにそうだ。刑事とは私服の巡査と巡査部長の事だから警部や警部補は正確には刑事ではない。矢神警部のように、警部や警部補でも捜査することはあるが、普通は安楽椅子探偵気取りで机からあまり動かないものだ。それにしても、階級的に微妙な位置に当たる警部補である彼を差し向けるとは、監察部もどういうつもりだろう。
首を傾げている僕を気にすることなく、彼は話を続けた。
「あくまで捜査全体を俯瞰させていただくだけで、浅木巡査に不審な点は無かったという事を上に報告できれば、それでいい。私はそう考えています。ですから、捜査会議にも出席しませんし、いちいち捜査現場に同行することも予定していません。ちなみに、この事は上も承知しているはずです。そうでなければ、私のような半人前を送り込んだりはしませんよ」
相良警部補は軽く頭を掻いて微笑んだ。なかなか爽やかな人だ。
「うーん……」
矢神警部も頭を掻いた。でも、全然爽やかではない。顔を思いっきりしかめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます