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異世界転生。それはこことは異なる世界に生まれ変わるということだ。仏教的世界観では死後の世界というものはなく、次の生に生まれ変わる。ただ人が人に生まれ変わるというのは稀で、そういう意味ではアニメや漫画のように簡単に異世界転生というものが成立する訳ではないらしい。しかし、その異世界転生を、しかもまた同じ自分として望んだ世界への転生をすることができるという、特殊な血筋の人間がいるそうだ。
俺だ。
そう。まさかの俺がそういう特殊な血筋に生まれた人間だった。
ただ転生するには殺されるかどうかして、死なないといけない。そして死後、転生した世界では俺は無意識に殺される要素が排除された、ほぼ同じ世界を創ってしまっているようだった。
地元の古い神社の境内には、人が一人としていない。おそらくエルザたちにより人払いの結界が張られているからだろうが、それにしてもこんなにも空気がぴんと張り詰めた静寂は初めてだった。
スマートフォンを見ると、圏外になっている。時刻は朝の六時を少し過ぎたところで、空は青いがぼんやりとした光だ。
その空気が僅かに乱れるのを感じた。
石の鳥居の向こう側、道路を歩いてきた長い金髪の女性が前で足を止め、こちらを見た。その目は朝の日差しを反射しているのか、赤く見える。エルザの姉、ロゼリアだ。彼女は一人だった。ゆっくりとした足取りで石畳を一歩、また一歩と俺の方へと向かってやってくる。俺はその姿を、本殿前の五段ある階段の一番上に腰を下ろし、じっと見つめていた。
「一人で待つとは、腹を決めたのかい、凰寺信永……いや、マイロード」
ねっとりとした声だ。蘇芳エルザのものより幾分高い。姉ロゼリアの方が自分よりも身長が二センチ低いのだと言っていた。けれどその差は隣に並べないと分からないだろう。目が赤い以外、俺には見分けがつかない。エルザがカラコンを着けているといっても疑わない。それほど二人はよく似ていた。だから間違えたのだ。
「元来俺は争い事は苦手なんだ。仮に君の国と戦争をすることになったとしても武力による衝突は好まない。なるべく対話により解決したいと望んだだろう」
俺の話に彼女は口の端をぴくりと震わせる。だが笑いはしなかった。
「言葉というのは人が作り出したものの中で最も罪深い道具だと、そうは思わないか?」
「仮に言葉がなかったとしても、人は対面の他人に大切なことを伝える為に何かしらを生み出していただろうさ。それくらい、人間にとって相手に何か伝えるというのは大事なことだったんだ」
「マイロード。君はそれで、我が妹のエルザから大切なことを聞いたのかい?」
「色々と話は聞いた。断片的だがな」
「それなら私たちの世界の為にその魂を投げ出してくれる覚悟ができた、と考えてもいいのかな」
「ロゼリア。君はトロッコ問題という有名な哲学の思考実験を知っているだろうか」
色々な形で似たような問題が提示されるが、基本はこうだ。線路をトロッコが走っているが、そのトロッコが制御不能となった。トロッコはそのまま真っ直ぐ走れば作業中の五人を轢いてしまい、彼らを助ける為に分岐したもう一本の線路に切り替えればそちら側では一人の作業員を轢いてしまう。そういう条件下で、さて分岐器の前に立つあなたはどちらを選択するだろうか、という倫理観を問う問題としてこの思考実験が持ち出される。
「五人の犠牲か、一人の犠牲か。それとも第三の回答をするのか、という、何とも幼稚な問題のことだな」
「幼稚、か。ではロゼリア。君は何と答える?」
「簡単だ。どちらが死んでも構わない。自分の命ではなく他人の命だろう? しかも平民だ。代わりはいくらでもいる。そういう人命を五つ助けるか、一つ助けるかというでは、大きな差はないではないか。これがもっと大きな数ならどうだ? 百人、いや千人と一人の命を天秤にかける。ただし、その一人は蘇芳エルザだ。赤の他人千人とエルザ。信永はどちらを助けるんだい?」
それもよく話される命題だ。フィクションでは度々使われる形で、物語の主人公であればどちらも助けるとか、大切な人を選ぶとか、そういうことを口にする、あるいは実行するだろう。
「トロッコ問題には別のアプローチがあるんだ。歩道橋問題とも呼ばれるが、線路を切り替えるのではなく、線路の上に歩道橋があり、暴走するトロッコとその先で作業する五人の作業員がいる。そして、質問される人物Aとその隣にトロッコを止めるのに充分な体重をもった人物Cがいて、そのCを突き落とすことでトロッコを止め、五人を助けることができる、という、問題の根本は同じだが設問に少しアレンジを加えたものなんだが、こうなった時に通常のトロッコ問題とは異なる結果が得られることは知らないだろう」
「違いがよく分からんな。どちらも同じことだろう? 五人の犠牲か、一人の犠牲か。その差だ」
「だが違うんだな。人間にはそれぞれ固有の倫理観がある。人は基本、善人でいたい。他者を害したくはないし、自分に被害を受けたくない。そういった倫理観が回答を歪めてしまうんだよ。多くの人が突き落とすことを拒否する。ポイントを切り替えるだけなら五人と一人はちゃんと天秤にかけられるのに、一人を突き落とすか突き落とさないかという命題にされてしまうと人は全く違った悩みを抱えることになる」
ほほお、とロゼリアが唸った。
「つまり人物Cが信永にとってはエルザだというんだな? だから突き落とせないと」
「そうだな。だから代わりに、俺が落ちるよ」
その回答を口にするが早いか、俺はビルギットから借りたナイフを逆手に持ち、自分の胸に当てる。角度を間違えるな。一気に貫き、心臓の機能を停止させる。ただ心臓が止まってもすぐに死ぬことはない。まだ血液は脳内に残り、思考能力までは奪われていない。
「第三の選択肢、という訳か」
その声は頭上から降ってきた。俺は今、どんな体勢をしているのだろう。
「しかしそう簡単には死なんだろう? 介錯してやろう。また次の異世界で会おうか、マイロード」
熱も光も、何も感じない。全ての感覚のスイッチがオフになった、ということだけは分かった。
闇が全身を覆う。
意識を覆う。
俺という人格はどこに行くのだろう。死んだら、どこに。
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