19

 廊下が騒がしい。


「どうしたんですか?」


 走っていた髪の長い看護師を呼び止め、俺は聞いた。


「火事みたいなんです。とにかく患者さんを避難させないと。あなたたちも早く逃げて下さい」

「分かりました」


 火事、という言葉に俺はショッピングモールでの出来事を想像した。ひょっとするとまたあの黒尽くめの仕業なのだろうか。


「蘇芳さん」


 待合室に戻って声を掛けたが、既に彼女の姿は消えていた。


「どこ行ったんだよ!」


 いつも知らない間に消えてしまう蘇芳エルザは、やはりこの世界とは論理の異なる世界、そう。“異世界”からやってきたのだろうか。

 俺は壁に貼り付けられた案内図から非常口の場所を確認し、一旦救急治療室へと向かう。ビルギットの手術はどうなっただろう。もし手術中ならこの騒動だ。中止せざるを得ない。

 大きなスライド式のドアのボタンを押し、それが半分ほど開いたところで、明かりが消えた。停電したのだ。


「大丈夫だ。すぐ非常電源に切り替わる。それより縫合続けるから明かりをくれ」


 担当医師の声だった。

 俺が手にしたスマートフォンの明かりを向けると「誰だ?」と眩しそうにこちらを見るスタッフの様子が浮かび上がる。


「君はこの子の友だちか。ここは入っていい場所じゃない。すぐ出ていってくれ」

「非常事態でしょう。それより早く縫合の続きをしてやって下さい」


 ゴーグルの奥の目は明らかに俺を睨みつけていたが、医師は「そうだな」と呟くと、俺に照らす角度を指示した。

 ビルギットの背中、特に腰の上あたりの皮膚が十字に切られていた。一体何本の鉄棒が刺さったのだろう。全て引き抜かれ、血が付着したそれらが金属のバットの上に並べられていた。長さは二十センチ程度だ。それも単なる鉄の棒ではなく、加工され、握りの部分と先端は削られて鋭い四角錐のような形になっている。おそらく何かの武器だろう。あれを投げつけられたのか、それとも爆風で飛んできたのか、それは分からない。刺さり所が悪ければ即死もあっただろう。

 運良く助かる。

 そう思っていたが、本当に運が良かっただけなのだろうか。

 違和感。

 脳裏を過ぎったのは蘇芳エルザだった。

 非常電源に切り替わったのだろう。安堵したような吐息がスタッフから聞こえ、


「ありがとう」


 と医師から軽く頭を下げられた。

 もうほとんど切開した皮膚は縫い合わされ、俺が見ている間にも医師は器用に鉤爪のようになった針で結び目を作ると、鋏で切る。


「あとは頼む」


 どうやら手術を終えたらしい。


「君も部屋から出たまえ。安心していい。もう彼女は大丈夫だ」

「どうも、ありがとうございます」


 俺は頭を下げてから、その医師と一緒に救急治療室を出た。

 廊下は患者のベッドを運ぶスタッフや、足の悪い患者と共に非常口に向かう看護師、他にも違う色の制服姿のスタッフなどで溢れていた。その中に蘇芳エルザの姿を探したが、やはりいない。


「あなた! まだいたんですか」


 と、先程の長髪の看護師だ。よく見ると腰の辺りまで伸ばしている。それは異様、とも思えた。


「あの、友だちの姿が見つからなくて」

「もう外に出ているかも知れません。さあ、あなたもこっちに」


 その可能性もない訳ではないと考えていたが、個人的にはビルギットのこともあり、まだ中にいると思えた。それでも外に出るよう促され、俺は看護師の後に続く。

 非常電源に切り替わったからだろう。通路にはほとんど光源がない。足元を照らす僅かなものに加え、非常口の方向を示す緑色のランプが不気味に案内をしてくれているだけだ。


「あの」


 また違和感だった。

 気づくと周囲から人気が消えている。

 それに、何か知らない空間に自分がいた。広い。それは巨大な体育館、いや、ドームの中心にでも立ったかのように、端が見えない。明かりはなく、光源になっていたのは先を歩いていた看護師が手にしている、何か鋭利なもの。紫色に光るそれは、ビルギットの背中に突き刺さっていたものを少し大きくしたもののように見えた。


「あんた、何者だ? 看護師じゃあないよな」


 振り返った彼女の右目が赤く光っていた。

 彼女は答えることなく、音もさせずに地面を蹴りつけると、手にした武器を俺に向けた。

 後ろに飛び退いたが、胸先を僅かに掠めていく。


「一体何なんだよ」


 手足に軽く力を入れ、俺は意識を臨戦態勢にもっていく。


「あんた、未央を誘拐し、ビルギットを襲った黒尽くめの仲間か?」


 答えない。代わりに左右に武器を振るう。

 確か棒手裏剣と呼ばれるものに形状が似ているが、忍者じゃあるまいし、かといって玩具という訳でもなさそうだ。


「遊びじゃないなら本気でいかないとな」


 そうは言ってみたものの、まだ暗がりに目は慣れてこない。光るのは女の目と手にした武器だけ。それすらなくなると、俺にはどうしようもない。理屈は分からないが相手には俺の位置が見えているようだし。


「信永さま!」


 声は上からだった。

 見上げた瞬間、強烈な光の球がそこに出現した。それは夢で見た光景に近似している。その中心に人型のシルエットが現れ、光は人の姿となった。現れたのは蘇芳エルザだ。

 彼女は胸元を僅かに隠すデニム地のベストと、下半身が隠れる程度の同じ生地のミニスカートを履いた姿で、その手に輝く大きな剣を持っていた。


「伏せて下さい!」


 彼女の声に従い、俺は身を低くする。

 落下に任せて蘇芳エルザはその光の剣を偽看護師へと振り下ろした。

 気づいた偽看護師は避けようと右足に力を入れたが、その場から動く直前に光の剣は彼女の頭部を捉え、真っ直ぐに光が体を縦断した。悲鳴も何もなく、ただ二つに千切れた何かは一瞬宙に浮かんだが、それが全て黒紫色をしたアメーバ状のものに変わり、どろり、と垂れ、地面に吸い込まれるようにして消えてしまった。


「間に合いました」


 顔を上げた俺に手を差し伸べた蘇芳エルザは、そう言って笑顔を向けた。全身が光り輝くその姿はまるで女神かと思う神々しさで、俺は涙を滲ませながら彼女の手を取る。

 その刹那、自分の胸を背中から熱いものが貫いたのを感じた。

 再び闇が訪れる。


「信永さま!」


 彼女の俺を呼ぶ声が聞こえたが、それは徐々に小さく遠くなり、やがて完全に音も光もそれに意識も、消えてしまった。

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