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 教室中に響き渡った「デート」という声の中で一際でかかったのは、他ならぬ俺自身のものだった。

 普段からそう驚くことはなく、たまに冗談で未央や猛田から「人の心を失いし者」と呼ばれていたが、この時ばかりは想像のハードルを軽々と超えた事象が俺に襲いかかっていた。

 蘇芳エルザが、俺をデートに、誘っている。

 ただそれだけのことなのに、頭の中は不必要な計算で混乱していた。そもそも何故彼女が俺をデートに誘う必要があるのか。今日彼女と出会ったばかりだ。夢の中で見たことがあるとはいえ、正夢にしたいならせめて目の前で光の球から落ちてきて欲しいし(全裸で、とまでは望まない)、そうでなくとも授業中、あるいは休み時間にもう少しその前兆というか、何かしらちょっとしたアプローチ的なものがなされていたならば、ここまで俺自身が慌てる必要はなかったかも知れない。

 いや、仮にその兆候を感じ取っていたとしても、俺は自分の感覚を信用しなかっただろう。女性から何かしら好意を向けられるという経験はないに等しい。腐れ縁のような桂木未央を除けば俺に話しかけようとする女子は皆無だし、よく“モテ期”なる用語を耳にすることがあるけれども俺には無縁だ。

 そして何より段階をすっ飛ばしての「デート」というワード。これが俺の思考を金属バットで打ち抜いていった。


「おい、信永? おーい、信永君?」


 猛田の声が右から左に抜けていく。


「あのさ、蘇芳さん。デートっていう日本語の意味、分かってる?」


 未央は感情を抑えつつ彼女に質問を投げかけたが、


「ええ、分かっております」


 丁寧な即答をもらって口をつぐんでしまった。

 二人からの「どうするの?」という視線が痛い。いや、二人だけじゃない。教室に残っている生徒、更には廊下を歩いていた生徒たちすらも、俺、凰寺信永という人間を注目していた。


「断る理由も思い浮かばないが、何というか、まだお互いに何も知らない訳で。そういうところからいきなりデートを申し込まれても、どう答えていいものか、正直分からない。蘇芳さんの気持ちは嬉しいが、そもそもどうして俺なんだ?」


 不器用な男――と誰もが感じただろう。けれどこれが俺、凰寺信永という人間なのだ。

 蘇芳エルザは一瞬唇を尖らせたものの「そうですね」と考え込み、「それでは」とこんな提案をした。


「まずはわたしのことを知っていただく為に、一緒に暮らしましょう」


 人間は正常な判断をする為に絶対に欠けてはいけないものがあると、思っている。それは世間一般に通じるある程度の常識というものだ。

 俺の前で蘇芳エルザは笑っている。それを見れば誰であろうと幸せな気持ちになるだろう。そういう笑顔だ。彼女はこれまでの人生でそれを武器に、対峙した人間に自分の要求を飲ませてきたのかも知れない。自分の武器を惜しげもなく使うというのは、実に効果的だし、寧ろどんどん使うべきだと思うのだが、その相手がいざ自分となると、これはまた考え方が異なってくる。

 俺は迷惑や面倒を被りたくない。それは幼い頃から何かとトラブルに遭遇してきた所為とも言えるが、それ以上に本来、大人しく人生を過ごしたいタイプなのだ。石橋を叩いて渡るほどではないにしても(そもそも叩いて調べるくらいなら渡らなければいいと思っている)、明らかに落とし穴が待っていると思われる道に挑んでいくという無謀は絶対に選ばない。

 だから常にそれが俺にとっての落とし穴かどうなのか、という判断を自分に求めている。

 蘇芳エルザはどっちだろう。


「あのー、蘇芳さん。物事にはね、順序っていうものがあって」


 多くの人間が思考停止していた中で声を上げたのは未央だった。彼女は保育園児にでも教えるかのようにがんばって笑みを作りながら丁寧に説明しようとしている。


「信永様はまずお互いのことを知りたい、と仰いました。その為に一番良い方法は衣食住を共にすることではないでしょうか。わたし、何か間違っていますか?」

「いや、それはそうかも知れないんだけど、わたしたち、その、まだ学生だし、結婚だってできないし、そもそも未成年でそんな同棲とか、うらやま非常識だし」


 耳慣れない日本語が混ざったが、代わりによく言ってくれた未央、といったところだ。だが蘇芳エルザはきょとんとした表情を浮かべた後で一秒ほど右手の人差し指を頬に当ててから、こう言った。


「何か問題ありますでしょうか」

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