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 俺は手にしていた鞄を離し、左右に友人たちの首を抱え、その場から思い切り飛び退く。

 トラックは歩道側に乗り上げ、後ろの荷台部分を振り回しながら通り沿いのケータイショップへと突っ込んでいったが、幸い、俺たち三人を轢いていくことはなかった。


「おい、大丈夫か?」


 会社員らしき男性が声を掛けてくれ、俺は右腕を挙げて苦笑する。


「な、何なの……」

「信永、助かった」

「ああ」


 呆然とする未央と、ズボンに突っ込んでいたシャツが完全にはみ出て大きくなびいている猛田の無事を確認すると、埃を払って立ち上がる。見ると先程の会社員がスマートフォンで警察に連絡を入れていた。

 集まる野次馬の向こう側では傾いて店舗の壁に刺さっている運転席のドアが開き、そこから全身真っ黒なスーツ姿の人間が何とか脱出している。

 いや、何か妙だ。野次馬の中から一人の女性(彼女もベリーダンスでも踊っているかのような珍妙な赤い布の服を着ている)が出て、その黒スーツの人間に近づくと、右腕を振り上げるような動作をした。一瞬の出来事だ。そのスーツの人間は倒れ、彼女は小走りに逃げていく。倒れたところには赤い液体が広がった。


「殺人?」

「どうしたんだ、信永」

「いや、今赤い妙な服の女が運転手を」

「何言ってんだ?」


 隣にきた猛田は目を細めて凝視しながら首を傾げている。


「いやだって」


 俺は再度、トラックを見た。

 僅か数秒前まで運転手だったスーツの人間が倒れ、小さな血溜まりができていたはずなのに、そこには何もない。人も倒れていないし、血の痕もない。


「おい、信永?」

「悪い。先、学校行っててくれ。ちょっと確かめたいことがある」

「何よぉ、もう」


 俺は二人を置いて、野次馬の人混みに向かう。


「すみません」


 その間を掻き分けて前に出ると、後方からパトカーのサイレンが響いてきた。

 トラックの運転席のドアは開いていたが、そこに手を掛けてジャンプして中を覗くと、誰も座っていなかった。また足元には一瞬飴でも落としたのかと勘違いする程度の、黒っぽいシミが地面のブロックに付着しているのも確認できた。

 俺は面倒に巻き込まれる前に、女が逃げていった方向へと駆け出す。

 すぐに救急車のサイレンも聞こえ始め、野次馬の人数は分刻みに増えていたが、そこを突っ切り、俺は周囲にあの妙な衣装を探す。

 ひらり、と反対側の歩道から脇路地に入っていくのが見えた。


「くそっ」


 お誂え向きにちょうど車の波が止まっている。俺はその間を縫うように対岸へと渡ると、路地にダッシュした。

 ビル間の薄暗い、狭い路だ。

 排ガスなのか、エアコンの室外機からか、むっとする嫌な臭いが溜まっている。

 女の姿はなかった。

 ただ俺の皮膚は鳥肌を呼びそうな緊張感が消えない。寧ろここに入ってそれが強まった。

 もしあの夢の通りなら、女の名は確かビル――。


「何故だ」


 背後だった。

 いつの間に後ろに回ったのだろう。そもそもどこにも隠れるスペースなどなかったはずだ。

 しかも首筋に鋭利なものが当てられている。

 これは夢で体験した状況と酷似していた。ただ場所が自分の部屋の前か、薄汚れた狭い路地裏かという違いだ。


「何故、というのは?」

「何故、私を追いかけた」

「あんた、トラックから出てきたスーツの人を刺しただろう?」

「見えたのか!?」


 会話が僅かに噛み合っていないような気がしたが「ああ」と不敵に頷いておく。


「何故だ」

「その何故は見たことに対してか? それとも見えたことに対してか?」

「余計な質問はするな。聞かれたことに答えろ。何故あれを見た?」

「見るつもりはなかったが、普通気になるだろう? 事故を起こしたトラックの運転手が出てきて、しかもそこに向かっていった女は珍妙な格好をしている上、運転手を殺して逃走したんだ。見過ごす為には無関心か危険に近寄らない固い意思でも持ってないとな」


 ナイフだろう。持っている手に力が入っているのが分かった。


「おかしい。貴様、この世界の者ではないな?」

「この世界ってのは何だ?」

「私が質問をしている! 質問に答えろ!」

「いや、質問に答える為に聞いているんだ。この世界というのは一体何だ?」


 もし夢の内容そのままなら、転生どうこうと言い出すはずだ。俺は背後のビルギットの表情を想像しながら、回答を待った。


「……ひょっとして」

「何だ?」

「本当にマイロードなのか!?」

「だからそのマイロードってのは何なんだよ。夢でも聞いたけど、そこの説明をされていないんだよなあ」

「夢? ああ、そうか。夢と思っているのか」

「あんたの名前はビルギット。そうだろう?」

「何故知っている? いや、マイロードなら知っている可能性もある。お前、本当にマイロードか?」

「そのマイロードについて、俺は何も知らない。だから教えて欲しいと言っているんだが」


 ふっと首筋に当てられたものが緩むのが分かった。その隙に、俺は左肘を彼女の頭部に向けて上げながら身を捻る。

 予想通り彼女は後ろに二歩ほど後退し、俺との間に距離を取った。

 そこには褐色かっしょくの肌を赤い衣で隠す女の姿があった。ビルギットだ。


「マイロード。姫様はどこだ?」

「姫? ……ああ、あの金髪の方か。彼女は見ていない。いや、夢では見たが、あれは夢でなかったというのか」


 夢の内容はおぼろげだ。金髪の女性を拾い、自宅に戻って布団に寝かせた。麦茶を持ってきたらこのビルギットに襲われ、目覚めた金髪の彼女を“姫様”と呼んだ。二人は俺が転生しただの、マイロードなどと訳の分からないことを言い、それから――記憶がない。


「私は姫様を守らねばならん。マイロードには悪いが、知らないのであれば失礼する」


 そう言って彼女は身を翻し、行ってしまおうとする。


「ちょっと待ってくれ。守るってどういうことだ? さっきあんたが運転手を殺そうとしたことと何か関係があるのか?」


 自分は完全に部外者のような情報量なのに、どうやら彼女たちにとっては知人というポジションらしい。その何とも言えない気持ち悪さを払拭したくて仕方ないのだが、やはりもう一人の方じゃないとまともに会話にならないのかも知れない。


「俺も一緒に姫様を探してやるよ。そうしないと埒が明かないようだ」

「マイロードの記憶を持たぬ貴様に、一体何ができる?」

「手分けした方が見つかる確率は上がるだろう?」


 行ってしまおうとしたビルギットは一瞬動きを止め、俺の顔を見た。


「わかった。姫様のことは覚えているようだから、もし見つけたらこれを」


 そう言って彼女は胸元から何か取り出そうとしたが、その時、花火でも打ち上がったかのような大きな音と振動が響き渡った。

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