6

 ビルギットは何故、を百ほど数えながら、屋根の上を走っていた。

 目標はマイロードであるという凰寺信永を脇に抱え、屋根から屋根へと飛び移っている。ただ目に見えて速度は出ていない。

 そもそも神速のビルギットと呼ばれた自分から逃げ切れると思っているのだろうか。


「ビル。追って」


 まだ部屋に煙が残る中、響いた姫様の声に「御意」と答え、窓を出た。一歩目は二メートルほどの庭木の上に着き、そこから塀へと下りる。

 標的が信永という男を抱えて外に出たのは煙幕の中でも感じ取ることができた。

 周囲を確認すると、まだ視界のうちに逃亡者が屋根を伝い、走っている姿が分かったので、すぐ後を追いかけた。

 一分ほど前の話だ。

 それから距離は百メートルほどと縮まっている。

 目的は誘拐だろうか。それとも殺害までだろうか。

 それによって対象奪還の難易度が変わってくる。

 見たところ仮面と簡単な保護具を付けた雑兵だ。髪を短くしているが、細身の体はどう見ても女性のそれだった。


 ――どうやって転生させた?


 一族の者であってもそう簡単に転生はできない。それとも自分が転生した後に、もっと簡単な転生方法が開発されたのだろうか。

 賢者様たちがマイロードの存在を見つけ、それによって世界を救う方法を考えついた時、王室だけでなく軍部もまた意見が割れた。ビルギットは詳しい話は聞いてもよく理解できなかったし、そもそも転生というものが存在するということに対して半信半疑だった。実際、転生しようとして命を落としただけの学者や軍人も多い。

 ただそんな中にあって、一部の王族には転生をする力があることが認められ、姫様はマイロードを守るという決断をいち早くなされて自ら命を断たれた。

 だがビルギット自身はその報を耳にした時、周囲の者同様、謀殺だったんじゃないかと考え、容疑者を探し出し、何人かは拷問にかけた。しかしその後の調査結果で姫様が本当に単独で異世界転生の道を選ばれたことが判明したのだ。


「本当に奴がマイロードならな」


 ビルギットは未だに信じていなかった。

 伝説に聞いていたマイロードならあんなに簡単に略取されることはない。部屋で自分に対峙し、殺されることなく捕縛から抜け出し、しかも逆にビルギットを抑え込み、殺せる状態にまでしたことは褒めてやりたいが、あの程度なら武芸に長けた男性なら、珍しくはないのだろう。


 ――私は何故女性なんだ。


 姫様を守る騎士になる。

 その願いは、果たして叶えられているのだろうか。


「もう少し準備をしてから逃げるべきだったな」


 背後まで迫ると、黒装束に身を包んでいた刺客の背中に掴みかかり、そのまま屋根の上に引き倒す。

 女は頭巾とマスクをしていたが、その隙間から覗く瞳は明らかに人間のそれではない。赤く光り、獣のような唸りを発した。


「返してもらうぞ」


 盛大に転がった凰寺の前まで歩くと、彼を抱き起こそうと屈む。その動作に移ろうとした時だ。

 頬を鋭い何かが掠めていった。

 見れば刺客の女は右手に小さな棒手裏剣が握られていた。彼女は軽く手を上げ、二発目を投げようとしている。

 ビルギットはいつもの癖で布の隙間から腰に手を入れたが、そこに隠してあるはずの予備のナイフがない。

 ここが元いた世界とは違うことを失念していた。普段の装備をしていると勘違いしていた。

 だからいつも他の兵士たちに笑われるのだ――お前には冷静さが決定的に欠けている――と。

 その一瞬の思考の間に、刺客は肩からタックルを仕掛けてきた。

 投擲に備えようとしていた体は反応が遅れ、声を出す間もなくビルギットの体は屋根の縁まで弾かれる。


「くっ」


 危うく右手を伸ばして瓦を掴んだが、その拍子に大きくズレ、すぐにも落ちてしまいそうだ。下は五メートルほど。着地できない高さではない。地面は僅かばかりの草と土で、植木鉢が幾つも置かれている。

 ただ自分のことだけならすぐ落下することを選べるが、奪還対象を置き去りにする訳にもいかない。

 見れば刺客は何を思ったか、棒手裏剣を両手で握り、凰寺信永の上に馬乗りになっている。


 ――まずい。


 そう思った瞬間、


「ビルギット!」


 姫様の声が下から響いた。

 シャツ一枚、しかも裸足でここまで駆けてこられたのだ。


「姫様!」


 ――くそが!


 ビルギットは左手を伸ばして雨樋を掴むと、強引に自分の体を持ち上げる。鈍い音を立てて僅かに歪んだが、構わず屋根へと体を押し上げると、


「やらせるか!」


 対象を殺害しようとしている刺客の背中に、思い切り体当たりした。

 黒装束の女はそのまま屋根の向こう側へと転がっていき、落下する。

 ビルギットはそれを見送り、それから慌てて凰寺を見た。

 彼の胸には深々と、二本の棒手裏剣が突き立てられ、そこからどくどくと血を溢れさせていたのだった。

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