十五年後の君を

hamapito

十五年後の君を

   *


 カボチャの馬車は魔法の馬車

 好きなところへ一直線

 未来も過去も

 君が望むのならどこへでも


   *


 蝉の声が遠くから聞こえた。肌を覆う汗が気持ち悪い。瞼が重い。瞼だけでなく頭も体も全身が重くてだるい。手を動かそうとして、カツン、と固いものにあたった。視界を転がる大量の空き缶。ああ、床で寝たのか。全身のだるさと痛みを理解し、体をゆっくり起こす。水を飲まないと。

「うっ」

 頭の痛みと共に吐き気が喉を塞ぐ。息苦しさに口を押さえながらトイレへと駆け込む。蓋を上げ、白い便器の中に吐き出す。酒と胃液しかないのに体は嘔吐し続ける。えた匂いに気持ち悪さが増し、止まらなくなる。

 ――一体何を吐き出そうとしているのだろう?

 体の中を埋めるのはこんなことで吐き出せるものでも消えるものでもない。今の僕にあるのは「後悔」だけだ。胃液。鼻水。涙。汗。体液をこれでもかと白い便器に落とす。落としても、落としても、まだ足りないとばかりに体は吐き出すことを要求する。喉の奥から鉄臭さが滲みだした、その時。

 ピンポーン。

 間の抜けた明るい音が響いた。宅配便だろうか。ふっと意識が別の方向に向いたことで気持ち悪さが引いていく。

 出なくては。水を流し、口元を皺だらけのシャツで拭う。こんな格好で出てもいいものだろうか。ああ、居留守を使えばよかったのか、と気づく頃には玄関に着いていた。こんな時にまで自分の真面目さが消えないことにため息が出る。

「……はい」

「おはようございます」

 朝にふさわしい明るい声がドアの向こうから響く。サンダルをつっかけ、ドアを開ける。

 差し込んだ光に目を細めれば

「未来からやって来ました。あなたの息子のケンイチです」

 正面に立つ青年は、爽やかを絵に描いたような笑顔でそう言った。嘘など一つもないような雰囲気で。

 しばらく思考が停止する。未来? 息子? 新手の詐欺だろうか。それか昨夜のお酒が残っていて幻を見ているのか。いずれにしても追い払うべきだろう。詐欺でも幻でもないなら、タチの悪すぎる悪戯だ。

「……間に合ってます」

 掴んでいたドアノブを引き戻そうと力を込める。瞬間、ガッと黒いサンダルが間に挟まれた。

「ちょっと。何閉めようとしてんの。ていうか『間に合ってます』ってなんだよ」

 何も考えずに出たはずの言葉がブーメランとなり、この五日間の出来事がフラッシュバックする。迫り上がる感情。悔やんでも悔やみきれない。後悔。後悔。後悔。再び胃液が逆流する。ドアノブを離し、トイレへと駆け込む。

「え、ちょっと」

 振り返る余裕なんてない。白い便器を両手で抱え、絞り出すように吐き出す。

「うわ、大丈夫かよ」

 飛び込んできた声。遠のく意識。背中に触れた温かな手。覚えているのはそこまで。


 カボチャの馬車を模した遊具の前、夏帆かほに連れられ、やって来た謙一けんいちは、僕を不思議そうに見上げた。

「だれ?」

 一年ぶりに会った息子は僕のことを覚えてはいなかった。当たり前だ。別れた時、謙一はまだ三歳で、最後の一年はまともに遊んであげた記憶もない。部屋にこもり滅多に顔を合わせなかった。

「ケンちゃんのもう一人のパパだよ」

 夏帆の言葉に謙一が僕をじっと見つめる。

「パパ?」

 すぐには声が出ない。懐かしさと申し訳なさが胸を締めつける。

「あ、ああ、そうだよ」

 震えを押し込めるように絞り出す。

「今日は一日よろしくな」

 ぎこちない笑顔にしかならなかったはずだが、謙一は「うん」と笑ってくれた。


 目を覚ますと布団の中にいた。薄くて湿っぽいのに、不思議と心地よく、体からは力が抜けていた。開け放たれた引き戸の向こう、日差しで満ちるリビングから美味しそうな香りが流れてくる。鼻唄のような小さな声も。ああ、これはきっと夢だ。夏帆がここにいるはずはないし、謙一がこの歌を覚えているとも思えない。もし覚えていたのだとしても、もう謙一は……。

「起きた?」

 びくりと体が跳ねる。引き戸から覗いていたのは、先ほど玄関にいた彼だった。

「気分はどう?」

 どうしてここにいるのか、と問いかけようとして出汁の香りが鼻に触れる。吸い込んだ空気は澄んでいて、部屋が片付けられていることがわかる。彼がやってくれたのだろうか。でも、どうして? 戸惑いに言葉を探していると、ぐるるると体が空腹を訴えた。

「おかゆ食べる?」

 ふっと笑いを零した彼がキッチンへと戻っていく。とにかく起きなければ。

 体を起こし、彼のあとを追おうと布団を抜けた時だった。


 カボチャの馬車は魔法の馬車

 好きなところへ一直線

 未来も過去も

 君が望むのならどこへでも


「どうして」

 その歌を、と口にする前に彼が振り返る。

「父さんが俺に作ってくれたんじゃん。『カボチャのタイムマシン』」

 再婚すると言われ、最後にどうしても会いたくなった。一年ぶりに顔を合わせた謙一は僕を覚えていなかったけれど、一緒に遊ぶうち「パパ」と笑って呼んでくれるようになった。きっと自分の存在はすぐに消えてしまうだろう。謙一にはもう新しい父親がいる。

「パパ。何かお歌うたって」

 クリーム色の内壁に囲まれた空間。カボチャの形に合わせて緩くカーブした天井。向かい合わせになっている二人掛けの座面に背中を丸めて座る。正面に座る謙一が銀色のステップが続く手すりを撫でながら言った。

「パパが作ったお歌聞きたい」

 歌は苦手だった。音痴だし、即興で作れる才能なんてない。

「ねえねえ」

 それでも自分を見上げる顔には期待が満ちていて。これが最後になるのだと思ったら、ワガママに応えたくなった。自分のことを忘れたとしてもこの歌だけは残るかもしれない。そんな期待もあり、たったワンフレーズの歌とも呼べないようなものを作った。

「それは息子に作ったものだ。どうして、君が」

「君じゃなくて謙一だって。謙虚が一番。付けてくれたの、父さんじゃん」

 キッチンへと体を向けた彼の腕を思わず掴む。

「息子は……謙一は……」

 続きを口にすることができず視線が泳ぐ。片付けられたリビング。ソファの上に脱ぎ捨てた黒いジャケットはハンガーにかけられ、テーブルの上に放った黒いネクタイと数珠は端に寄せられている。会葬礼状と封を切らなかった「お清め塩」も一緒に。いっそ幽霊だと言われた方が信じたかもしれない。神さまにお願いして大人の姿にしてもらったのだと言われた方が。

「そういえば昨日だったね。俺の葬式」

 ぽつりと落とされた言葉。寂しさや悔しさは感じられない。自分の死に対する感覚とはこんなものなのだろうか。いや、ここにいるわけがない。謙一なわけがない。現実を受け入れなくては。後悔を忘れてはならないのだから。謙一を助けられなかった。その事実から逃れることなんてできない。それなのに、彼の中に面影を探してしまう。夢なら醒めないで欲しいと願ってしまう。

「俺をここに送ったのは、十五年後の父さんだよ」

 力の抜けた手から彼の腕が離れていく。向けられたのは揺らぎのない瞳。

「今日一日だけ、俺に付き合ってよ」

 もしもこれが手の込んだ詐欺であったとしても。このあと呪い殺されてしまうのだとしても。この先にどんな不幸が待ち受けていようと構わない。夢でも幻でもなんでもいい。謙一に償えるなら、なんでもよかった。現実と願いの狭間へ言葉は滑り落ちる。

「……ああ、わかった」

「よかった。信じてもらえなかったらどうしようかと思ってたから」

 そう言って笑った顔は、謙一に似ている気がした。


 午前中とはいえ、日差しは容赦なく降り注ぐ。じりじりと気温は高くなり、湿気が纏わりつく。短くなっていく影を惜しみながら歩道の端を歩いた。

「あっちー」

 隣で漏らされた声。見上げる高さにある顔には汗が浮かぶ。やっぱり幽霊ではないんだな。日向と日陰の間を進む黒いサンダル。街路樹に映る影。足もあるし、声も聞こえる。そもそも幽霊が部屋を片付け、食事まで用意するとは思えない。じわりとお腹の底が温かくなる。

 彼――ケンイチの作ったおかゆはひどく優しい味がした。

「冷蔵庫ほぼ空だったんだけど」

 向かいで同じようにおかゆを口に入れ「あちっ」と零しながら文句を言われる。

「買い物に行けてなくて。すまない」

 柔らかく固まる卵を飲み込みながら謝る。

「卵と出汁とポカリとゼリー買っておいたから」

 ふうふうと息を吹きかける姿に幼い謙一の姿が重なり、自然と笑みが零れる。

「ありがとう。なんだか風邪をひいたみたいだな」

 体調の悪さはお酒の飲み過ぎと精神的なものだ。熱も咳もない。食欲もなかったはずだが、こうして食べられるようになるなんて。自分が生きていることを実感すると、胸の奥で罪悪感が顔を出す。どうして自分は生きているのだろう、と。

「看病なんて大体一緒でしょ」

 そう言って笑うケンイチの言葉に、ふわりと胸を撫でられた気がした。

「ちょっと」

 ぐん、と腕を引かれて足がよろける。肩を支えられ顔を上げれば、信号は赤だった。目の前を車が横切っていく。

「何ぼーっとしてんの」

「あ、ああ、すまない」

「しっかりしてよね」

 はあ、と大きなため息を落とされ、体が縮こまる。

「ほんとに。すまない……」

 声が勝手に震える。目をまっすぐ見ることができない。押し込めていた記憶が滲みだす。厳重に鍵をかけた箱から出てきてしまう。

 ――使えない。

 ――役立たず。

 ――学歴だけかよ。

 真面目で一生懸命。先生のお手伝いにも積極的で、とっても良い子ですよ。

 一直線に引かれたスタートラインが、どれだけ自分を守っていたのかを理解したのは社会人になってから。目まぐるしく変わる優先順位。増え続ける仕事。「視野をもっと広く」「周りの声も聞いて」努力しているつもりだった。けれど求められるレベルにはなかなか達せず、期待は落胆に変わった。

 それでもどうにか踏みとどまれていたのは、家族がいたから。夏帆と謙一を守らなければならない。自分が支えなくては。ちっぽけなプライドが僕を支え、そのプライドこそが僕の心を壊した。

「大丈夫?」

 顔を覗き込まれ、立ち止まっていたことに気づく。信号は青に変わっていて、周りはもう歩き出していた。ざわめきが自分たちだけを残して過ぎていく。

「あ、ああ。ごめん」

「顔色悪すぎ。服見る前にアイスでも食べよう」

 行こう、と手を繋がれ歩き出す。小さくて柔らかかった手はどこにもない。Tシャツの袖から伸びる腕は日に焼けた健康的な色をしていて、ほどよく引き締まっている。身長も僕より高い。

 謙一は大きくなったら何をしたかっただろう。何かスポーツをしているだろうか。気温の上昇に景色が揺らいでいく。願いと後悔。夢と現実。僕の中に存在する境界線は曖昧になっていった。


 駅前の商業施設は日曜日の昼前とあって混んでいた。ケンイチの宣言通りアイスを食べ、引っ張られるように服屋に入った。

「今の父さんって十五年前の姿なんだよね」

 手にした服と僕の顔を見比べたケンイチが首を傾げる。

「でも俺の知ってる父さんより老けて見えるんだよなあ」

 自然と向けていた視線に「何?」とケンイチが答える。

「未来に僕もいるのか、と思って」

「当たり前じゃん。さっきも言ったけどさ。俺を送り出したの、父さんなんだよ」

 十五年後の自分が息子を過去に送った理由は何だろう。いや、謙一はもう亡くなっていてこの世にいるはずがない。そもそも未来からなんてあるはずがない。それでも考えてしまう。こんなにも当たり前に謙一が生きている未来を語られたら。

「やっぱ、こっちかな」

 真剣に悩む顔に嘘は感じられない。

「とりあえず試着してよ」

 半ば押し込められるように入った試着室。ケンイチに手渡されたシャツを持つ自分が鏡に映る。頬は痩せこけ、目の下の隈は濃く、肌は水分を失っている。

 ――今の自分はこんななのか。

 十五年後の自分の方が若いと言われて納得する。同時に、未来の自分は今の苦しさを乗り越えたのかもしれないと僅かに希望が湧く。このどうしようもない苦しさから逃れられる日がいつか来るのかもしれない、と。

「お、いいじゃん」

 試着室を出ると、店員より先にケンイチが言った。僕は紺色のシャツに白のパンツを身につけ、「これも」とケンイチに置かれた黒のサンダルを履く。

「これで十歳は若返ったはず」

 ケンイチの中にいるのは、今の僕ではない。十五年後の僕だ。ケンイチが話すのは、謙一を失った今の僕にはない未来で、いつかあったかもしれない未来だった。もう取り戻すことはできない未来。後悔は止まることなく胸を満たした。


 お昼に大盛りラーメンを、夜にハンバーグを食べ、ゲームセンターではしゃぎ、映画が観たいと言っておきながら座席で爆睡したケンイチは、「最後に行きたい場所がある」と言った。

 公園の中央に設置された時計は午後十時五十分を示している。随分遅くまで遊んだものだ。ケンイチが選んでくれたサンダルが砂を踏む。砂場、ブランコ、滑り台。手前にある遊具を素通りし、ケンイチは奥へと進む。

 ――まるであの日みたいに。

「ここ、覚えてる?」

 ケンイチが足を止めたのはカボチャの馬車の前。車輪の半分ほどだった身長が今はステップの先の入り口に届くほどになっている。

「ああ」

「ここで一緒に遊んだよね」

「……ああ」

「こんな狭かったっけ?」

 車輪の間に置かれたステップを三飛ばしで上ったケンイチが、僕を振り返る。

 ――あの日も謙一は僕を振り返った。

 入り口までたどり着くと、手すりを掴んだまま、ぐいっと体を反らせる。落っこちるのではないかと不安になった僕は「危ないよ」と慌ててそばに駆け寄った。

 体を戻した謙一が僕をじっと見つめ、丸い瞳を不安げに揺らす。

「……怒る?」

 明らかに今までとは違う、委縮した響きだった。微かな違和感を覚えるが、一緒に暮らしていた時ですら、まともに接してこなかった自分にはそれが珍しいことなのかどうかわからない。叱られるかも、と委縮するのは子供にはよくあることに思えた。

「怒らないよ。……今のパパは、どんな人?」

 それでも尋ねずにはいられなかった。もしかしたら何かあるのではないか、と。

「優しいよ」

 笑って返された答えに、思い過ごしか、と安堵する。

「優しいけど、でも」

「でも?」

 付け足された言葉に眉を寄せる。その一瞬、謙一はきゅっと口を閉じたが、すぐに笑顔を取り戻した。

「ううん。ちょっと怖い時もあるかなってだけ」

 子供の「怖い」がどの程度なのか、僕にはわからない。親に叱られた時に怖いと思うことは誰にでもあるだろう。

「パパも来て」

 伸ばされた小さな手に、向けられた笑顔に「考えすぎか」と小さな違和感は忘れていった。

「あの日さ、本当に楽しくて。楽しくて。帰りたくなくて」

 カボチャの中を覗き込みながら、ケンイチが言葉を落とす。入り口を埋める大きな背中を僕は見上げる。

「歌、作って欲しいなんて、結構無茶なお願いだったよな」

 ケンイチの声が反響して届く。本当に僕が作ったのかと疑いたくなるほど綺麗な音程で歌われる。何度も歌ってきたのだとわかる、淀みのない声だった。

「嬉しかった。父さんから何かもらったの、初めてだったから」

 それはどちらの? いや、両方だろうか。

「歌じゃなくて、もっと」

 もっと何か渡せるものがあったのではないか。謙一に会ったあの時には病気は完治していたのだから。

「ううん。あれでよかったんだよ」

「でも、僕はもっと何か。せめて何か気づけたかもしれないのに」

 溢れ出す後悔。もしもあの時、と悔やんでも悔やみきれない。

「気づいたところで、あの頃の父さんには何もできなかったと思うよ」

 返されたのは冷たい声だった。入り口に腰掛け、こちらへと向き直ったケンイチは、強い視線で僕を射抜く。

 謙一は気づいていたのだ。僕が覚えた違和感に。きっとそれは小さなSOSで、決して見逃してはならないものだった。謙一を助けることができたのは僕だけだった。それなのに僕は……。

「僕を、恨んでる……のか?」

「――ううん」

 夜を映す瞳から感情を読み取ることはできない。

「でも、父さんがこの後どうするかで変わるかも」

 

 五日前――謙一と会ってからちょうど一年後のその日。

 夏帆からの連絡よりも先、テレビのニュースで僕は知った。

 昼休みに入った蕎麦屋。置かれていたのは小さなテレビ。音量は絞られ、アナウンサーの声はざわめきに掻き消される。けれど、僕の耳にははっきりと届いた。誰よりも幸せを願い、愛した家族の名前を聞き逃せるはずがない。

『再婚相手による虐待』

 ショッキングなテロップと共に映し出される顔写真。気づけば店を飛び出していた。


「そんなことよりさ、コレ飲もうよ」

「いや、でも」

 そんなこと、と片付けられるわけがない。けれど、今の僕が何を言えるというのだろう。僕が救うべきだった謙一はここにいない。目の前の彼はケンイチだけど謙一ではない。

「父さん」

 呼ばれた声に視線を向ける。外灯の明かりを半分だけ受けた顔は穏やかな笑みを湛えていた。

「あと一時間もないからさ、父さんもここにおいでよ」

 ケンイチがコンビニの白い袋を軽く振ってみせる。中には缶ビールが二本。「父親っていつか自分の子供とお酒を飲むのが夢なんでしょう」そう言われて買ったものだ。向けられた笑顔に視界が滲む。

 もういない謙一と、目の前にいるケンイチ。僕ができることは何だろうか。手すりを掴み、ステップに足を載せる。カボチャの馬車に入るのはあの日以来だった。

「かんぱーい」

 窮屈そうに足を折りながらも、ケンイチはご機嫌に缶をぶつけた。僕は口をつけたものの、飲む気にはなれず、膝を抱えながら缶を両手で包む。

「にっが。なにこれ。こんなのどこが美味しいの」

 ごくん、と勢いよく飲んだケンイチが舌を半分出して眉を寄せる。

 こんな表情をするのか、と思うと同時、ほかにはどんな表情をするのだろうと思いを馳せてしまう。もっと見ていたい。いや、そばにいられなくてもいい。ただ元気に生きていてくれればそれでいい。それだけでいい。願いは祈りとなって零れ落ちる。これが現実なら、と。

「教えてくれ。どうしたら謙一は助かるんだ」

 現実の謙一は昨日焼かれて骨になってしまった。それなのに目の前には二十歳の……こんなの生まれ変わりか、過去に戻ってやり直すしか考えられないことだ。その考えられないことが起きたからこそ、彼はいるのだろう。

「――これは神さまの悪戯みたいなものなんだよ」

 苦いと言いながらも彼は缶を傾け続ける。

「悪戯って」

 コクン、と動く喉が外灯の弱い光に縁取られる。

「俺たち家族が不憫すぎるからじゃないかな」

 不憫。落とされた言葉が胸の痛みを呼ぶ。大切で大事で守りたかったから離れた。愛していたからこそ、そばにいられなかった。幸せでいてくれさえすればいい。そんな願いさえ踏み躙られた。

「こんなに思い合っているのに何一つうまくいかないまま終わっちゃったから」

 終わっちゃった、と言った声は微かに震えていた。

「と言っても、俺ができることはそんなにないんだよね」

 笑って見せるその顔が、本当は不安に染まっているのだとようやく気づく。

 もしもここで何も変えられなかったら、目の前の彼は消えてしまうのだろうか。

「教えてくれ。頼むから。どうすれば救えるんだ」

 僕の中にあるのは昨日別れを告げた五歳の謙一だけではなかった。今日一日、たった一日ではあったけれど目の前の彼も――二十歳になった謙一も救いたい。生きていて欲しい。不安な表情をさせたくない。絶対に大丈夫だと伝えたい。

「悪戯は俺だけじゃ完成しないんだ」

 悪戯の完成。あの頃の僕には何もできなかったと言った謙一が、今の僕をまっすぐ見つめる。

「俺から言えるのは、あと……そうだ」

 カン、と軽い缶の音が遊具の中で反響する。

「俺が死んだ正確な日時」

「そんなの」

「知ってどうするかは父さんが決めて」

「決めるって」

「――」

 近づいた顔が耳に落とした数字。

 お酒の匂いの混じる息が頬に触れた瞬間、意識は途切れた――。


 目を開けると誰もいなかった。カボチャの馬車の中、座面に横たわるようにして器用に寝ていた。ぼやけた視界を細め、外の時計を確かめる。

 時刻は午前零時を過ぎたところ。

 すべては夢だったのだろうか。体のあちこちが痛む。こんな場所で寝ていたのだから当然だろう。ああ、そうだ。謙一の葬式に行って、それで耐え切れなくてコンビニで酒を大量に買って、思い出の公園に来て、ここで飲んで、飲んで、飲んで……。

「夢、だったか」

 外灯の明かりが足下を照らす。履いていたのは黒いサンダルだった。

「え」

 葬式に出たなら黒の革靴を履いていたはずだ。起き上がった瞬間、カンと何かがつま先にあたる。転がったのはビールの空き缶。倒れているのが一本と、まっすぐ置かれているのが一本。

「まさか」

 自分の体を確認する。謙一が選んでくれた服ではない。黒のスーツでもない。着ていたのはTシャツと短パン。見慣れた部屋着だ。ポケットに入っていたスマートフォン取り出す。

 画面に並ぶ数字を確かめた僕は、カボチャの馬車を飛び出した。


 カボチャの馬車は魔法の馬車

 好きなところへ一直線

 未来も過去も

 君が望むのならどこへでも


 ――どうか、間に合ってくれ。


 真っ暗な住宅街を祈りながら駆けていく。

 十五年後の君をタイムマシンに乗せるために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

十五年後の君を hamapito @hamapito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ