シルバ・カトラリーとルビー・チョコレートの感情

雲晴夏木

我が君の名はルビー・チョコレート

 コンバットメイドの朝は早い。まずは何においても、我が君ルビーお嬢様が目覚めるよりも早く、片付けを済まさなければならないからだ。

 屋根裏に潜む痴れ者を引きずり下ろし、床下に隠れる愚か者を引っ張り上げ、庭に入り込む不届き者どもにまとめて投げつける。ある者は痛みに呻き、ある者は怒りに唸り、ある者は無言で私を見上げた。私は侵入者を見下ろし、答えをわかっていながら半ば事務的に問いかける。


「此度の不法侵入、チョコレート家が三女、ルビー様の私邸と知っての狼藉か」


 不法侵入者どもは体勢を直し、各々の暗器を手に不敵に笑う。


「でなければ俺たちのような面構えの男が、クソ田舎の趣味の悪い屋敷に来る理由があるまい」


 趣味の悪いと表され、私は眉根を寄せた。

 ルビーお嬢様の私邸は、屋根に壁に窓枠に、あらゆる箇所がファンシーなピンク色で塗装されている。庭や生け垣に咲く花も、ピンクで統一するよう指示されている。それはお嬢様の趣味ではなく、チョコレート家当主・ブロンド様のご意向だ。ブロンド様は「愛らしいルビーにぴったりだろう」と得意げな顔をなさっていたが、当のルビーお嬢様は浮かない顔をされていた。ブロンド様の商売に関するセンスは優れているが、そのセンスは身内への贈り物には発揮されない。

「これはお嬢様の趣味ではない」とだけ答えた私は、その場で構えを取った。男たちには、私が徒手空拳に見えただろう。馬鹿にするようににたにた笑い、暗器を持つ腕から力を抜いたのがわかった。私は相手がどれほど格下であろうと、隙は見せないし見逃さない。


「このクソ田舎くんだりまで来た貴様らへの手土産は、〝銀の弾丸これ〟のみだ」


 私がぱちん、と指を弾くと、屋根裏に潜んでいた男が声もなく倒れた。真横にいた床下の男が、屋根裏の男をとっさに振り向く。そのまま、屋根裏の男も崩れ落ちるように倒れた。屋根裏の男は額から、床下の男はこめかみから血を流している。

 倒れた二人の男を見て、庭に潜んでいた二人の不法侵入者どもが私を振り向く。その額に、ぷちゅりと赤い花が咲いた。

 庭に、四人分の死体ができあがった。お嬢様が起床される前に片付ける必要がある。四つの死体は、いつも通り生け垣の養分とすることにした。額やこめかみに小さな穴が開いた死体を担ぐと、額の穴から、ころりと小さなものが落ちた。

 男たちを死に至らしめた小さなものは、粒状の銀色。私はそれを無感情に見下ろすと、踏みつけ、躙り、粉々にして、あらかじめ掘っておいた穴に侵入者どもを埋めた。




 念入りに手を洗い、ルビーお嬢様が起床される前に朝の紅茶を用意する。朝食の下ごしらえまで終わった頃に、ちりん、と私を呼ぶベルが聞こえた。

 ワゴンに朝の用意を載せ、足音を立てずルビーお嬢様の元へ馳せ参じる。ベッドで体を起こしていたルビーお嬢様は、もう何年もこうだというのに、毎朝チョコレート色の目を丸くされる。


「おはよう、シルバ。いつも猫のようね」

「おはようございます、ルビーお嬢様。わたくしは猫ではございませんが、お望みとあらば、あなただけの猫にもなりましょう」


 ルビーお嬢様はこれをジョークと受け取られるようで、いつもくすくす笑うだけで「猫になれ」とは命じない。ルビーお嬢様の一言で、私はいつだって愛玩するための猫にだって、爪と牙を以て人を襲う虎にだってなれるというのに。

 私の言葉をジョークと受け止めころころ笑うこの少女こそ、我が唯一の君、ルビー・チョコレートだ。

 無から有を生み出す名家が一つ、チョコレート家。ルビーお嬢様はこのチョコレート家の末子、三女としてお生まれになった。ようやく十を過ぎたばかりの彼女は、すでにチョコレート家次期当主として指名されている。三女で末子のルビーお嬢様には、三人の姉と兄がおられる。そのお三方がこれを素直に受け入れるわけがない。

 すでに成人している長女ミルク様と長男ビター様は当然のこと、体が弱いせいで当主の座争いに参加していなかった次女のホワイト様すらも不愉快に思われたらしい。二年前、ルビーお嬢様が当主に指名された日から、ご兄姉からの嫌がらせが始まった。

 その嫌がらせが暗殺に発展するまで時間を要さず、見かねた現当主ブロンド様より、ルビーお嬢様はこの屋敷を賜った。そして、この私シルバ・カトラリーが雇われた。

 この私シルバ・カトラリーは、執事やメイドの名家と呼ばれるカトラリー家の血筋だ。カトラリー家は自らが選んだ家に仕えるが、私は違う。私はルビーお嬢様にのみお仕えし、お守りするコンバットメイドだ。

 出会った当時、ルビーお嬢様は八つ、私は十八だった。顔を合わせ自己紹介をしたとき、ルビーお嬢様は目を輝かせた。


「シルバ? シルバーね! わたしと同じ、宝石の名前!」

「いいえ、違います」


 ルビーお嬢様の言葉を、私はぴしゃりと否定した。


「シルバーは貴金属であり、ルビーは鉱石です。同じではありません」


 私のすげない返事に、ルビーお嬢様はしゅんとしょげてしまわれた。その反応があまりに素直で、カトラリー家一偏屈と言われる私が、自分の言動を省みてしまった。捕縛術や格闘技に重きを置いて学んでいた私は、幼い子供相手にどのような物言いをすればいいかわからなかった。それでも持ちうる限りの穏やかさで、不器用に彼女の言動――そして自分の失態――をフォローした。


「……どちらも美しく輝くものの名であることは、同じですね」


 私の言葉に、ルビーお嬢様は顔を上げられた。そしてチョコレート色の瞳に私を映し、輝く笑顔を向けられた。


「そうね、どちらもきれいなものの名前だわ!」


 恐れ多くも、ルビーお嬢様は「ありがとう」と私に微笑まれた。


「シルバがそう言ってくれて、嬉しい。わたし、この名前があまり好きではなかったの。でもシルバが美しく輝くものって言ってくれたから、これからは好きになれそう!」


 私も、私の名が好きではない。自分がこの名のように輝けると思っていないからだ。しかしルビーお嬢様が私の言葉でお名前を好きになると仰るならば、私も、私の名を好きになろう。

 それにはかなり努力を要するだろうと思っていたが、間違いだった。時間は要したが、私は努力せずともこの名を悪くないと思えるようになった。それは毎日毎日、ルビーお嬢様が嬉しそうに私の名を呼んでくださるお陰だった。




 名家チョコレート家の者は、その名の通り、無からチョコレートを生み出す。

 長女ミルク様はミルクチョコレートを、長男ビター様はビターチョコレートを、次女ホワイト様はホワイトチョコレートを、その指先を一振りするだけで、望むだけ生み出すことができる。

 三女で末子で我が唯一の君であるルビーお嬢様は、ルビーチョコレートなる摩訶不思議なチョコレートを生み出される。

 ルビーチョコレート。香料、酸味料、着色料を使わずフルーツの香り、酸味、色を持ち合わせる魅惑的なチョコレート。

 現当主ブロンド様は、ルビーお嬢様が生み出すルビーチョコレートでチョコレート家のさらなる繁栄を図るつもりらしい。だからまだ八歳だったルビーお嬢様を、次期当主に指名された。

 ルビーお嬢様は他者を蹴落とすことなんてできないというのに。ルビーお嬢様は謀なんかに向いていないというのに。ただ美味しいチョコレートで誰かを笑顔にすることを幸せとする方なのに。ブロンド様は、酷な選択をなさる。

 ベッドの上で紅茶を楽しまれるルビーお嬢様を、同情を込めて見つめてしまう。こんなに幼く愛くるしい方が、なぜこんな目に遭わなくてはならないのか。

 私が現当主へ静かな怒りを滾らせているとも知らず、紅茶を飲み終えたルビーお嬢様はベッドから立ち上がった。当然のように着替えさせるのを待つルビーお嬢様のそばに跪き、「失礼します」と身支度を手伝う。

 身支度を終えれば、輝かんばかりになったルビーお嬢様を食堂へお連れする。この屋敷には私しかメイドがいないため、ルビーお嬢様のお世話はもとより、この屋敷の管理も私に一任されている。

 ルビーお嬢様が席に着くのを手伝い、下ごしらえまで終えた朝食の準備に取りかかる。お待たせすることになってしまったが、ルビーお嬢様は文句の一つもなく、せかせかと動く私の姿をにこにこ楽しそうに眺めて待っていてくださった。

 私が用意した朝食を頬張り、給仕を受けながら、ルビーお嬢様は午後からの予定を何度も確認された。今日は、午後から村の子供にチョコレートを振る舞う日なのだ。人に喜んでもらうことが何より好きなルビーお嬢様は、今日のメニューで子供たちに喜んでもらえるか不安らしい。新しい紅茶を用意しながら、私は心配はいらないと請け負った。


「ルビーお嬢様のチョコレートは世界一です。わたくしシルバが保証致します」

「シルバがそう言ってくれれば、少しだけ自信が持てそう」


「こんな美味しい料理を作るシルバだもの」と言って、ルビーお嬢様は頬を支えるような仕草をされた。ルビーお嬢様がこれだけ表情豊かに食べてくださるからこそ、さほど楽しくもない料理に精を出せる。頬を押さえとろけるような笑顔を浮かべるルビーお嬢様に、私も笑みを返した。


「食事を終えたら、本日の勉強は軽めに終わらせましょう。午後からの来客に備えなければなりませんからね」

「そうね。お勉強も頑張るから、よろしくね、シルバ」


 ルビーお嬢様の頼みとあらば、勉強だろうが暗殺だろうが何だって――とは言わず、私はカップに紅茶を注ぎながら、「ええ、喜んで」と微笑んだ。




 ルビーお嬢様の勉強を見つつへの備えをするのは、全く以て楽しいものだった。このまま時が止まればいいと何度も願ったが、それは叶わぬ夢だ。

 ルビーお嬢様の弾ける笑い声を聞きながら準備をしていると、あっという間に時間が過ぎる。やがて午後になり、村の子供たちクソガキどもがやってきた。


「本日はお招きいたただきっ、ありがとうございます!」


 緊張した面持ちの、年嵩の少年が帽子を取って挨拶をする。その挨拶はお世辞にも完璧にはほど遠かったが、ルビーお嬢様はにこにこ笑って「いらっしゃい」と受け入れた。

 中庭ではすでに、小さなお茶会パーティーの準備が整えられている。テーブルには私とルビーお嬢様が作ったお茶菓子が、宝石のように輝きながら並んでいた。

 門をくぐってやってきた子供たちは、代表して挨拶した少年同様の緊張した面持ちで、あるいは期待に満ちた顔でルビーお嬢様に挨拶し、席に着いた。

 来客一人ひとりに挨拶を返すルビーお嬢様は、いつもより嬉しそうだ。やはり同じ年頃の子供が話し相手にほしいのだろうか。ルビーお嬢様のためならばどんなことでもと思う私だが、年齢や体格を変えることは難しい。

 ルビーお嬢様を喜ばせるために体格及び年齢を変えるには、と悩んでいる間に、子供たちが全員席に着いた。入れ替わりに、ルビーお嬢様が立ち上がる。昨夜一生懸命考えた挨拶を述べ、皆がお待ちかねの〝魔法〟を披露する時間となった。

 無から有を生み出すそれを、〝魔法〟と呼ばず何と呼ぼう。

 美しい指先から生まれるルビーチョコレートに、子供たちがわっと歓声を上げる。それぞれの前に置かれた真っ白な皿に、ルビーお嬢様のルビーチョコレートが羽のように舞い降りる。

 子供たちからの拍手喝采を受け、ルビーお嬢様は照れながら淑女の礼をし、席に着いた。


「どうぞ、召し上がれ」


 ルビーお嬢様が促すとほぼ同時に、賑やか過ぎるお茶会が始まった。こんな田舎の村の子供たちだ、マナーも何もあったものではない。見慣れてしまった私でも眉をひそめたくなる光景だが、ルビーお嬢様はにこにこ、にこにこ、嬉しくてたまらないといった表情で彼らの食べっぷりを眺めていらした。


 腹が満ち足りるまで飲み食いをした子供たちは、いそいそと席から立ち上がった。今日のようなお茶会の日は、普段立ち入りを禁じられているこの屋敷の庭で遊ぶことを許されるのだ。

 わんぱく盛りの一人が、「かくれんぼしよう!」と言い出した。ほかの子供らもそれに賛同する。ルビーお嬢様が、そばに控える私を見上げた。


「一緒に遊んではだめ?」

「いけません。かくれんぼでなければ一考する価値もありましたが」


 ルビーお嬢様は抗議するように頬を膨らませた。ぷく、と膨れた頬は日を浴びたせいでうっすら赤く色づいている。不満を表しているのだとわかるが、私の目には愛らしい姿にしか映らない。頬を緩めていると、わんぱく盛りの中でもとくにわんぱくな少年らが、無礼にもルビーお嬢様の元へやってきた。


「おじょーさん、一緒にやろーぜかくれんぼ!」

「こんだけ隠れる場所があったら、おじょーさまみたいなしょしんしゃだって遊べるぜ!」


 ルビーお嬢様の目が、期待に輝く。余計なことを言うなクソガキども。私はルビーお嬢様の視界に入らぬようわずかに半歩ほど下がると、クソガキどもに向かって指を弾いた。ルビーお嬢様をかくれんぼに誘った少年たちの顔に、ぴしり、ぴしりと何かが当たる。


「いてっ、いててっ。何だこれっ。何か飛んでくる!」

「いたっ。は、鼻に入った!」


 顔を覆った少年らの足下に、銀色の丸い粒が転がる。それを見て少年が「あ」と声を上げる。


「アラザンだ」


 庭の芝生に転がった銀の粒は、テーブルに載るお茶菓子に使っているアラザンそのものだった。

 無から有を生み出す名家は、チョコレート家だけではない。無から有を生み出す名家の一つ、ドラジェ家が落とし胤。それが私、シルバ・カトラリーの正体だ。もちろんこれは、ルビーお嬢様もご存じのこと。アラザンに目を留めたルビーお嬢様は、怖い顔を作って「シルバ」と私を見た。しかしながら、ルビーお嬢様の顔はどうあっても愛らしい。私は涼しい顔で「これがわたくしの仕事です」と答えた。


「わたくしの許可なくルビーお嬢様に近づこうとする者は敵と認識して良い、とブロンド様より仰せつかっております」

「遊びましょうって誘ってくれただけなのに……」


 しゅんとしょげるルビーお嬢様を見ると、一度出した「否」を覆したくなる。それは決して覆してはならない「否」だ。お許しくださいと心の中で謝り、私はちらと敷地の外を見た。

 かくれんぼなんて敵方にルビーお嬢様誘拐――もしくは暗殺――のチャンスを与えるだけだ。今だって、子供が失礼をしていないか心配する親のふりをした刺客が敷地の外でこちらを窺っているのだ。アラザンを飛ばし、朝の不届き者たちのように始末するのは簡単だ。ルビーお嬢様の目がなければ、直ちにそうしている。しかし客人がいる中、死体の回収は難しい。精々が、ルビーお嬢様を盗み見てチャンスを窺う不埒な奴にアラザンを飛ばし牽制するのみだ。


「早く帰れクソガキども」と一心に願いながら、ルビーお嬢様に不足がないよう、子供たちが余計な仕事を増やさないよう、目を光らせるほかなかった。




 日が落ち、空が赤くなる。よく食べ、よく飲み、よく遊んだ子供たちが、満足げに笑って敷地を出て行く。


「おじょーさま、またねー」

「こんどまた、畑のおやさい持ってくるねー」


 手を振り帰って行く子供らを、ルビーお嬢様もまた手を振り見送る。

 侵入する機会を窺っていた不審者は、今頃この隙を突いて裏庭に入っているだろう。始末するのはルビーお嬢様がお休みになってからにしようと考えつつ、子供たちが散らかした庭の片付けを始めた。

 てきぱきと片付ける私のそばに、ルビーお嬢様がすすすとやってきた。もじもじとどこか恥じらいながら、ルビーお嬢様は私を見上げた。


「いつもありがとう、シルバ」


 差し出されたのは、可愛らしく包装された丸い箱。その中に何が入っているか、見なくともわかった。ルビーチョコレート。ルビーお嬢様が生み出したチョコレートだ。

 なぜわざわざ箱に入れられ包装したものを私に差し出すのか。その理由がわからずきょとんとする私に、ルビーお嬢様は「お礼」とその理由を教えてくださった。


「家族と離れてこのお屋敷で暮らすのは、とっても寂しいけど……毎日楽しいって思えるのは、シルバのお陰なの。わたしがシルバにあげられるものは、チョコレートしか……思い浮かばなくて」


 今日ほど夕焼けに感謝した日はない。もしも明るい時間、もしくは明かりの灯る部屋でこれを渡されたなら、今頃ルビーお嬢様に顔の赤さをからかわれていただろうから。

 ルビーお嬢様のそばにいるのも、ルビーお嬢様の身の安全を守るのも、すべてはコンバットメイドの務め。礼を言われることではない。ルビーお嬢様と出会う前の私なら、そんなにべもない答えを返しただろう。

 だが、今の私は違う。


「ルビーお嬢様の笑顔のためですから」


 今日ほど夕焼けを恨んだ日はない。ルビーお嬢様の照れたお顔が、夕日のせいでわかりにくいからだ。愛らしい耳の先まで赤く染めたルビーお嬢様は、照れた顔で笑みを浮かべた。私も、きっと人生で一番であろう優しい笑みを浮かべた。

 照れ隠しか、ルビーお嬢様は「手伝うわ」と腕まくりをされた。淑女としては褒められた仕草ではないが、愛らしいため目を瞑った。ルビーお嬢様の申し入れをありがたく受け入れ、日が落ちる前に屋敷の中へ入るべく、一切の無駄を排除した動きで片付けを再開した。




 夕食を終え、熱い湯で身を清め、すっかり寝支度を調えたルビーお嬢様を寝室へお連れし、小さな体をベッドへ横たえる。


「おやすみなさいませ、ルビーお嬢様」

「おやすみなさい、シルバ」


 就寝の挨拶をしても、ルビーお嬢様は後頭部を柔らかな枕へ預けようとしない。何か期待する目で私を見上げるルビーお嬢様に、私はため息をついてみせた。ルビーお嬢様が私に期待しているのは、母君がしていたような、乳母がしていたような、優しい優しいおやすみのキスだ。


「しませんよ」と首を振る私に、ルビーお嬢様は唇を尖らせてみせた。そんな顔をされても、できないものはできない。頬まで膨らませたルビーお嬢様は、音を立てて枕に頭を預けた。


「ばあやは毎晩してくれたのに」

「乳母とメイドは領分が異なります。それはわたくしの業務外です」


 まだ拗ねた顔のルビーお嬢様を柔らかな毛布でくるみ、早く夢の世界へ旅立てるよう、お気に入りの本を読み聞かせることにした。

 水が流れるように滑らかに、言い淀むことなく物語を読み聞かせる。ルビーお嬢様の瞼は段々と下がり、ベッドに体が沈みゆき、呼吸は深くゆっくりしたものに変わっていく。

 本を読み終えるより早く、ルビーお嬢様は夢の世界へ旅立った。

 微かな音を立てて本を閉じ、薄明かりに照らされるルビーお嬢様の寝顔を見つめる。寝息は安定している。しばらくじっと寝息に聞き入り、目覚める様子がないと確信して、私はようやく床に跪いた。


「お許しください、ルビーお嬢様」


 毛布の上で重ねられた手を、ガラス細工に触れるように持ち上げる。どんな高価な宝石よりも価値ある魔法の指先に、私はそっと口づけた。

 誰かを喜ばせる、ルビーお嬢様の魔法の手。誰かを傷つけることなんてできない、ルビーお嬢様の優しい手。誰かの血で穢れることのない、清らかなままであるルビーお嬢様の手。

 その指先がほんのりとラズベリーの味がすることは、今はまだ、私しか知らない。

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