第一章.5

 慌てて身を引けばレオンも飛び上がり、兎梓としの首元に頭を押し込んできた。


 多少の土臭さがあるものの、野良にも関わらず獣特有の臭いは感じられない。間近で見た毛並みはむしろ良いほうで、毎日誰かに手入れされているのではないかと勘ぐってしまうほどだ。もしかしたら本当は、自由行動を許されている飼い犬なのかもしれない。


 ともあれ動物相手にここまで密着された経験がなかった兎梓としは、どうすれば良いのか判らず、中途半端に両手を広げたまま固まってしまった。


「こらこら。お前、はしゃぎ過ぎ」


 見かねたガスパーニュが兎梓としからレオンを引き剥がす。名残惜しげに宙に伸ばされた前足共々、レオンの身体は再び地面へ下ろされた。


「す、すみません。ありがとうございます」

「吃驚したよなぁ。こいつ、たまに距離感間違えるから」


 レオンが耳を横に倒して鼻を鳴らす。どこか残念そうな様子にも思え、兎梓としは少し申し訳ない気持ちになった。


 ――直後、携帯電話の激しい振動音が二人と一匹の間に響いた。


 兎梓としは咄嗟にショルダーバッグに触れ、思い出す。自分の携帯電話は騒ぎの直前、アーレンに渡したままだった。


「ごめん。ちょっと電話」


 言ったのはガスパーニュである。彼は制服のポケットから、振動する携帯電話を取り出した。


特維課とくいか第二班、ガスパーニュだ」


 気さくで親しみやすさのあった声が、一瞬にして真剣な色を帯びる。思わず兎梓としも緊張感をいだくも、ガスパーニュの声色は意外と早く緩んだ。どうやら緊急の連絡ではなかったらしい。


「あぁ……いや、華奈月かなつきは現場の引き継ぎに行ってる。俺はお前が連れてきた人と一緒だよ。……まぁ、怪我はしてない。元気なほうかな」


 お前が連れてきた人、というガスパーニュの発言を受けて兎梓としは密かに胸をなで下ろした。おそらく電話の相手はアーレンだろうと察せたからだ。


 状態までは判らないが、緊迫感の失せた雰囲気からして重傷を負っているという訳ではないのだろう。兎梓としはおとなしく電話が終わるのを待つ。


 ガスパーニュはしばらく電話の向こうに相槌を打っていたが、ふとした折に兎梓としを見て言った。


「そういえばお前が連れてきた人、お前らのこと心配してたぜ。大丈夫だったか? って」


 一拍ほど間を置いてから機械越しに快活な笑い声が響いてきた。その音量たるや兎梓としの元まで聞こえたほどで、ガスパーニュに至っては顔を顰めて携帯電話を耳元から遠ざけたくらいである。


「声デカいなぁもう……うん、あぁ、判ったよ。言っておく。それじゃあな」


 短いやり取りの後、ガスパーニュは終話した。


兎梓とし君を助けた白甲族はっこうぞくのやつから。心配してくれてありがとう、だって」


 兎梓としは何と答えるべきか迷った。礼を言いたいのはむしろ自分のほうだと思ったからである。先手を打たれてしまったことへの気まずさと、妙な恥ずかしさが胸の内にこみ上げ、けっきょく曖昧な言葉しか返せなかった。


 街灯の向こうから華奈月かなつきが現れたのはそんな時である。


「ちょっと、探しちゃったじゃない。こんな目立たない場所に居て」

「悪目立ちするよかマシだろ。終わったか?」

「えぇ、何とかね。……あらレオン、あなたも居たのね」


 華奈月かなつきはごく自然な素振りでレオンにも話しかける。対する柴犬は緩やかに尾を振った。


「待たせてごめんなさいね、兎梓とし君。改めて、少しお話を聞かせてもらえるかしら」

「……はい」


 あぁ、ようやくだ——。胃の奥が緊張に軋むのを感じながら、兎梓としは強張った顔で頷いた。



「名乗るのが遅くなったけど、私は特殊治安維持課とくしゅちあんいじか第二班の美野華奈月みのかなつき副班長よ。こっちは同じ班のガスパーニュ。特維課とくいかについては?」

「ニュースでたまに聞く程度ですが、知っています。機構の中でも特に戦いを専門としている……」


 警察機構の隊員は基本的に朽葉色の制服を着用している。襟元には緑のラインが入っており、階級が上がるにつれてその色も変わる仕様だ。


 襟元のラインが黒く紺色の制服を来た隊員は、一般的な警察機構の隊員と立場が少し違う。特殊治安維持課とくしゅちあんいじか――通称、《特維課とくいか》と呼ばれる戦闘特化の部署に所属している隊員だ。


 特維課とくいかは有事の際に重要な役割を担うものの、戦闘に発展するような荒事は頻繁に起きる訳でもない。そのため普段は補助員という立場で活動しており、町内の見回りもそういった名目のひとつとなっている。


「話が早くて助かるわ。さっき起きたイリュオートの襲撃、その規模から考えてもこれは特維課とくいかの案件。兎梓とし君はどうもその渦中に居るみたいだから、こちらで身柄を預かることになったの。まぁ……宣戦布告もされちゃったし」


 言って、華奈月かなつきが嘆息する。


「それで兎梓とし君、さっきは狙われる理由が判らないと言ってたけど、ひとまず襲われるまでの経緯を教えてくれるかしら」


 兎梓としはレオンの身体に手を添えたまま、ゆっくりと話し始めた。数日前に奇妙なメールが届いたこと、そこに十年ほど前から連絡の取れない身内の名前が書かれていたこと、望みをかけて記載された住所に赴いたこと。


 見回り中の狼鱗ろうりんとアーレンに話しかけられ、直後に遠くから魔術の攻撃を受けたこと。イリュオートが出てきたこと。アーレンに護られたこと。華奈月かなつき達と出会ったこと——。


 自身の事情については多少たどたどしく、言葉を選ぶ形となってしまったが、後半の襲撃については見た通りのことを語った。


 華奈月かなつきは口元に手を当てて思案する素振りを見せた後、「いくつか質問するわね」と口火を切る。


「メールが届くまでに何か普段と変わったことはなかった?」

「いえ、何も」

「不審な陰とか、付き纏うような人とか」

「特にはなかったと思います」

「諍いに巻き込まれたこともない?」


 兎梓としは視線を落として少し思案した。


「数年前に、ちょっといろいろありました。でも無関係だと思います。関係があったとしても、現時点では確証がないので断言できません」

「あの白銀髪の女性と話した覚えは?」


 ガスパーニュからの問いかけだ。兎梓としは首を横に振る。


「ないです」

「本当に? 微塵も?」

「少なくとも……顔見知りには居ません」


 今世であれば、髪や目の色なども多種多様に存在する。例えば遺伝、例えば染色、例えば――眩妖げんようの影響。


 ともあれ外見とは如何様にも誤魔化せてしまうため、たとえ久方振りに会う知人であったとしても、認識に至るまで時間を費やすことになっただろう。


 顔立ち、衣服、背丈、装飾品。外観を構成する数々の要素を、一瞬のうちに記憶に留めることは非常に困難だ。現に兎梓としも、白銀髪の女性がどのような様相だったのかすでに思い出せなくなっていた。


 ただ、色というのは印象に残りやすい。鮮やかな白銀と、殺意に満ちた真紅。イリュオートの残骸たる黒の砂塵。光を反射させる鈍色の——。


 おぼろげな記憶の中から細い剣先がぬるりと現れ、兎梓としは慌てて思考を切り替える。忘れていた現実感がようやく地に足をつけた気がした。


「ふぅん。そっか」


 ガスパーニュの反応はそれだけだった。再び華奈月かなつきが質問する。


兎梓とし君が妖憑あやつきというのは本当のこと?」

「……本当です」

「ガスパーニュ、どう?」

「うーん。さっきからずっと一緒に居るけど全然ピンと来ないな。魔力の流れがちょっと変わってるかなーって程度」

兎梓とし君に何の心当たりもないのなら、やっぱり眩妖げんようのほうが目的なのかしら。その、兎梓とし君にいてる眩妖げんよう……さっき言っていたわよね。名称があるの? 誰が名付けたか判る?」


 眩妖げんようの生態には不明瞭な事柄が多い。人智の及ぶ生物という範疇を大幅に外れており、人によってはそれらを《怪物》《怪異》《意思を持つ自然現象》などと称すこともある。


 兎梓としの故郷では《土地神》だ。しかし、兎梓としは土着信仰の発端など気に留めたこともなかった。


「判りません。俺は、瑠璃竜るりりゅうのことなんてひとつも判らないんです。小さい頃から御子だ、神聖な生まれだと言われてきたけど、俺自身には何の自覚もなくて……」


 胸中を吐露する兎梓とし華奈月かなつきは同情的な視線を向ける。


「現状、相手の狙いは兎梓とし君に眩妖げんようと考えるのが妥当でしょうね。るりりゅう、だったかしら。こちらでも少し情報を集めてみるわ。他には……そうね、兎梓とし君は《リベギオン》という名前に——」


 華奈月かなつきは途中で言葉を切った。街灯の向こう、騒ぎのあった商店街の通りに少しずつ人の気配が戻り始めていたのだ。


 事が起きたのが裏通りであったことから大通りの損壊が少なく、早い段階で避難勧告が解除されたのだろう。「そろそろ場所を移した方が良さそうだな」人目を気にしてガスパーニュが立ち上がった。


「派出所に行くか?」

「……いいえ。どうせなら家に戻りましょう。さっき班長から連絡あったのよ。保護した妖憑あやつきの事情聴取が終わったら来てくれ、って」


 兎梓としへ視線を向ける華奈月かなつきの目には、微かに困惑の色が浮かんでいた。


風凪ふうなが会いたがっているそうよ」

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