第一章.4

兎葵ときのこともこわくないよ」

「はいはい! 兎葵ときも、兎梓としのこと全然まったくこわくない!」


 兎梓としの隣に居た同じ顔、同じ背丈の子どもが勢いよく声をあげる。「ねー」「そうだねー」と。二人は鏡合わせのようにまったく同じ笑顔を浮かべた。



 この世界では二人以上の子どもを同時に身籠ることはない。


 もし己と瓜二つ、且つ同じ年齢の兄弟姉妹が居たならば、どちらかはまごうことなき眩妖げんようである。



 兎梓としの故郷ではごく稀に、赤子が二人同時に産まれた。先代は町長の高祖父母。今代は、兎梓とし兎葵ときがその赤子だった。


 ゆえに兎梓とし兎葵ときのどちらかは、伝承にある眩妖げんよう――《人と同じ見た目をした瑠璃竜るりりゅうの分身》ではないかと言われていた。


 しかし兎梓とし達自身、どちらが眩妖げんようでどちらが人の子であるか判らない。


 そのため二人は《どちらも眩妖げんようかれた子ども》――すなわち、《妖憑あやつき》として扱われた。


 町の神社では毎年一回、瑠璃竜るりりゅうへ感謝や祈りを奉納する神事が執り行われる。――などと言えば聞こえは良いが、信仰の対象となる兎梓としにしてみれば、拝殿の中に一日中座って町民の参拝を眺めるだけの行事にすぎない。



 幼い頃は両親同伴の元、やがては兎葵ときと二人で――そうしていつしか一人きりで、その役目を担うようになっていった。



 瑠璃竜るりりゅういた兎梓としは、幼い頃から丁重に扱われる機会が多かった。常に敬意の視線に揉まれていくうち、兎梓としは自分の振る舞いが町の品格に直結することを悟る。


 外では気を張ってばかりいるようになり、ありのままの兎梓としで居られるのは一人の時か、家族と一緒に居る時だけになっていく。


 特に兎葵ときに対しては同じ立場ということもあってほとんど心を開いていた。性別以外は顔も、考え方も、仕草まで同じなんて変な話だ。そう笑い合ってはその特異性を噛み締めたものである。


 兎梓とし兎葵ときと言葉を交わし、支え合うことで自分自身の生を無意識に肯定していた。それが兎梓としの日常であり、常識であったからだ。


 しかし――。


「お互い、自由に生きてみようよ」


 兎葵ときが家を出た理由はその一言に集約されていた。まもなく十六歳を迎える頃のことである。兎梓としは、兎葵ときのことなら何でも察せると思っていた。


 しかし当時のことを何度も思い返してみても、納得のいく結論が出たことはない。



→→→



 白銀髪の女性が消えてまもなく事態は終息した。


 大通りにあふれ出ていたイリュオートの群れは、二足歩行になる前の液状へと戻り、地面に溶けて消えてしまった。遠くで飛び交っていた魔術の爆発音もいつの間にか消え、商店街は久方振りの静寂に包まれる。


 やがて、これ以上の侵攻がないと判断した華奈月かなつきの指示で、警察機構の面々は状況確認のために動き始めた。


 そして華奈月かなつき自身も、「話を聞かせてほしいからちょっと待ってて」兎梓としにそう言い残すとせわしなく立ち去ってしまった。


 兎梓としは状況を呑み込めないまま路肩に立ち尽くす。隣に残ったのはガスパーニュだけだ。


 いたたまれない心地を誤魔化すように、ガスパーニュのことを改めて眺める。年の頃は兎梓としより少し上だろうか。左側だけ耳を隠す程度に長いアシンメトリーの明るい茶髪で、穏やかな光を栗色の目に灯している。


 耳には小さな石のついたイヤリング、手首には同じような小ぶりの石がいくつか留められたブレスレットが備わっている。しかし、どの石も煌びやかさはなく、炭化し、くすんでいた。


「そういえば兎梓とし君、怪我してない? 大丈夫?」

「え……あ、はい」


 不意にガスパーニュから話しかけられ、兎梓としは慌てて頷いた。無意識のうちに、イリュオートに掴まれた腕をさする。


「さっき襲ってきた奇妙なやつらが消えたということは……俺のことを助けてくれた人達も、無事ということでしょうか」


 兎梓としからしてみれば、純粋にアーレンと狼鱗ろうりんの無事を願っての問いかけだった。


 だが、ガスパーニュにとっては意外な質問だったらしい。彼は目を丸くしてから、ははは、と嬉しそうに笑った。


兎梓とし君は人が良いね。あ、ちょっと移動しようか」


 そう言うガスパーニュの案内で、兎梓としは街灯の陰に隠れた小道へ入っていく。反対の通りへ繋がる通路のようで、距離が短く道幅が狭いためか、店舗等の出入り口は見受けられない。


 代わりにベンチと自動販売機がひとつずつ設置されていた。ガスパーニュは迷わず自動販売機の前に立つ。


「お茶で良いかな」


 兎梓としは咄嗟に財布を取り出そうとする。しかし、ガスパーニュが笑いながら制してきたため、少し迷いつつも好意に甘えた。ほどなく自動販売機の中から緑茶のペットボトルが落ちてくる。


「あいつらは殺そうと思ってもなかなか殺せねーから大丈夫だよ。心配してくれてありがとうな。後で伝える」


 ペットボトルを差し出して言うガスパーニュ。兎梓としはそれを受け取り、「ありがとうございます」反射的に礼を言った。


「まぁ座って。お互い聞きたいことは山程あるだろうけど、相棒の居ないところで話を進める訳にはいかないからさ。一息つくと良いよ」


 そう言ってガスパーニュがベンチの端に座る。兎梓としは少し悩んでから、そっと隣に腰を下ろした。


 貰ったペットボトルを両手で包み、その感触を確かめているうちに自分が発汗していることに気付く。


 鼓動はすでに落ち着きを取り戻し、精神面も平常に戻っている。それでも鳩尾でわだかまる苦しさだけは消えなかった。地面の感触はあるはずなのに浮遊感が拭えず、頭の中では白銀髪の女性と兎葵ときのことが何度も何度も巡っていく。


 だが不思議なことに、殺す、という言葉には何の感情も抱かなかった。見ず知らずの相手に名指しされた以上、何が起こるか判らないという恐ろしさはあるものの――命を狙われる、殺されそうになる、死ぬかもしれないといった感覚にいまいち現実感が付いてこない。


 奇怪なイリュオートを見て、殺意に満ちた白銀髪の女性を見て、殺すとまで言い放ったあの冷徹な声を聞いたというのに。兎梓としにはまだ騒ぎの渦中に居る自覚がなかった。


 そんなことよりもっと大切なことがある。兎梓としは自分のことを差し置き、兎葵ときについて考え始めた。


 あいつは今回の騒ぎに絡んでいるのか、今は何をしているのか、会えるのか。様々な思いと情動が兎梓としの中で混ざり合い、しかし明確な感情として昇華されず、苦悩に変換されて降り積もっていく。


 その不快感が喉元までこみ上げたため、溜息にて外界へ送り出そうとする。だがこぼれたのは吐息だけで、不快感は喉と胸元にこびり付いたままだった。


 わふ。


 犬の鳴き声を聞いたのはそんな時である。顔を上げると、反対側の通りから一匹だけ歩いてくるのが見えた。兎梓としがこの町に来ると決まって現れる、あの柴犬だ。


「レオンじゃないか」


 ガスパーニュが言うと柴犬は一度立ち止まり、わふと再び鳴いた。まるで返事をしたかのようである。


「名前、あったんですか」思わず兎梓としは尋ねた。


「あるというか、みんな適当につけて呼んでる感じかな。タロキチとかシバコとか、タマ、リューセー、マメノスケ、プードル、ポポンタ……。俺の周りはレオンって呼んでるから、俺もそう呼んでる。好きに呼んで良いと思うよ」


 つまりは町の看板犬のような扱いなのだろう。名前が複数あるなんて自分ならば混乱しそうだ、と兎梓としはぼんやり思う。


兎梓とし君もこいつのこと知ってるんだな」

「はい。もともとこの町には何度か来ることがあって……いつもどこからともなく現れて、俺の後を付いてくるから覚えたんです」


 兎梓としは身を屈め、足元に擦り寄ってきたレオンの頭を撫でる。柔らかな毛と、皮膚の下の固い感触を掌で確かめれば、レオンが嬉しそうに尾を振った。


 その仕草を見ているだけで、兎梓としの胸中に安堵が広がっていく。


 さきほどの出来事に整理がついていないこともあるが、ガスパーニュという警察機構の隊員と行動を共にすることで、無意識のうちに気を張り続けていたのだろう。レオンは兎梓としの心をほぐす役割を担ったのだ。


 身を乗り出してさらに甘えてくるレオンの仕草に、ようやく兎梓としも表情を緩めた。まっすぐ立つ両耳の間に手を置き、小さな頭を優しく撫でる。


「レオン」


 ガスパーニュにならって名を呼ぶと、レオンの尾がますます激しく揺れ始めた。喜んでいるのだろうかと推察する間もなく、目前にレオンの鼻頭が迫る。

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