彼氏の浮気と拾った猫

鳥海 摩耶

彼氏の浮気と拾った猫

「――許せない」

 

 私は苛立いらだっていた。

 彼氏が浮気をしたのだ。


 SNSを開く。密かに特定した彼氏のアカウント。スクロールすると、そこには浮気相手への愛情がいっぱいだった。

 

「今日もかわいいな」


「いつまでも見ていたい寝顔」


「君を見ていると悩みもどうでもよくなるよ」


「もう迷うのはやめる。決めた」

 

 腹立たしい。私の知らないところで、知らない女に会っているのは明らかだった。


 彼氏とは付き合って三年目だ。


 明るくて優しくて、理想的な彼氏だった。


 彼は私のことを第一に考えてくれた。私はそんなところにかれて、付き合うことを決めたのに。



 

 どうして。



 

 考えても考えても、答えは出てこない。


 悲しみはやがて、憎しみへと変わった。彼氏のメッセージは拒否設定にした。


 電話も着信拒否。いきなり連絡を絶たれて、彼はさぞ驚くだろう。だけどそれ相応そうおうのことを、あなたはしたのよ。


 彼はどんな女に会っているのだろう。私よりかわいい子だろうか。

 私よりかわいいなら、私の彼氏を連れて行かないでよ。もっとかっこいい彼氏と付き合いなさいよ。



 

 私から彼を、奪わないで。



 

 突然、かみなりが鳴った。

 続けて、雨音あまおとが大きくなる。

 

 外に洗濯物を干していたのを思い出した。


 浮気者のことで頭がいっぱいで、そんなことも忘れていたのだ。もういろいろと、どうでもよくなった。


 私は大きくため息をつき、だらだらと洗濯物を取り込む。と、

 

「なにあれ?」

 

 ベランダのすみに、黒い物体が見えた。


 よく見ると、手前の植木鉢うえきばちが倒れている。例の彼氏がくれた鉢だった。まだ何も植えていなかったので、茶色い土があふれ出している。その奥に小さな物体はあった。

 

 怖いな。

 

 私は洗濯物を一旦床に置き、おそるおそる物体に近づいた。

 すると、

 

「ニャァ……」

 

 子猫だった。


 うずめていた顔を上げ、透き通るようなあわいブルーの瞳を私に向けてくる。


 ビー玉のようだ。からだはびしょびしょだが、野良猫のらねこのようなあらっぽさはない。どこかで飼われている猫なのかもしれない。雨に濡れ、乱れた毛並みが痛々しい。


 浮気のことなどどうでもよくなって、私はすぐさま干していたタオルで猫を包んだ。


 暴れるかと思ったが、子猫は大人しくタオルに包まれた。弱っているのかもしれない。

 

 助けなきゃ。

 

 洗面台からドライヤーを持ってきて、優しく地肌じはだを乾かしてあげる。そのうち、濡れたからだは水気みずけを飛ばし、整った毛並みが姿を現した。


 日頃からケアをしっかりとしてもらっているのだろう。栄養状態も良さそうだ。


 乾かしてあげると、子猫は少し元気になったのか、ニャーニャーと鳴きだした。毛並みの分か、さっきよりちょっと大きくなったように見える。


 お腹が空いているのかな。何をあげたらいいのだろう。


 子猫のふさふさした黒い毛を眺めていると、子供の頃好きだったアニメ映画のことを思い出した。


 主人公が魔女見習いで、赤いリボンがトレードマークのあれだ。主人公はオスの黒猫と一緒に旅をしていた。その猫はミルクを飲んでいたっけ。


 冷蔵庫の扉を開けると、ちょうど昨日きのう開けたパックがあった。


 底が浅いお皿にミルクを注ぎ、軽く温めて子猫に飲ませる。


 やはりお腹が空いていたのか、子猫は嬉しそうにミルクを飲んだ。夢中で飲んでいる姿を見ていると、こちらもなごんでくる。この子はミルクがきらいじゃなくて良かった。


 飲み終わると子猫は満足したのか、毛繕けづくろいを始めた。ゴロゴロ喉を鳴らしながら、手や足をペロペロ舐めている。子猫といえどもやはり猫なのだなあと、私はぼんやり考える。


 そうして一息つけたので、私の関心は黒猫の生い立ちへと移っていた。


 この子はどこから来たのだろう。どんな人に育てられているのだろう。どんな思いで、私を見ているのだろう。


 ふわふわした思考をめぐらせていると、いつの間にか、彼氏のことを考えていた。

 彼は、私をどんな思いで見ていたのだろう。私はどんな思いで、彼を見ていただろう。



 

 優しい人。丁寧な人。それから――



 

 その時、玄関のチャイムが鳴った。


 こんな雨の中、誰だろう。

 私は子猫の様子を見ながら、インターホンを確認した。


 そこには、例の彼氏が立っていた。


 水をバシャッとかけられたように、私は現実を思い出す。


 彼は浮気をした男だ。私を捨てて、新しい彼女に……。


 もう一度、インターホンが鳴る。


 彼はずぶ濡れだった。いつも整っていた髪の毛はぐしゃぐしゃになり、頭に張り付いている。傘を持っていなかったのだろうか。さっき保護した子猫の痛々しい姿が、彼の姿とかぶる。モニターに映る彼は、寂しく見えた。


「……はい」


 私はなるべく感情を抑えて、返事をした。 


「僕だよ! 良かった! 連絡がつかないから心配したんだよ」


 私の欲しかった言葉は、聞こえてこない。私はため息をつき、彼を中に入れることにする。ずぶ濡れの男を追い返す程、今の私は冷たくなれない。


 子猫の様子をうかがうと、ちょうど眠り始めたところだった。私は大きく深呼吸をして、玄関の扉を開けた。



 

「……なんか怒ってる?」


 濡れた髪を乾かした彼は、不安そうな目を私に向けてくる。


「自分のしたことについて、考えてみたら?」


 私はなるべく平坦へいたんな声を出すことに努めた。


 リビングに置かれたローテーブルを挟んで座る私と彼。私の声は平らなテーブルに反射して、彼の鼓膜こまくを震わせた――はずだ。

 

「……ごめんなさい」


 彼はしゅんとして、私に謝った。


「正直、申し訳ないと思ってる。君に隠し事をしていたことだ」


 彼は目を伏せ、声のトーンを下げて話す。


悪気わるぎはなかったんだ。ただ、あまりの可愛かわいさに、欲しくなったんだ」


 ほらきた。やっぱり、彼は浮気をしていたんだ。

 

「猫を飼い始めたんだ」


「はぁ?」


 予想外よそうがいの言葉に、変な声が出てしまった。テーブルの下で握っていた拳が、不意に力を失ったのを私は感じる。

 

「ね、猫?」


「うん。黒い子猫。先月飼い始めたんだ。あまりの可愛さに一目惚ひとめぼれしちゃって」


「黒い子猫?」


「うん。昨日の夕方、洗濯物を取り込もうとして目を離したすきにいなくなっちゃって……。どこを探してもいないからどうしようかと……」


 まさかこんな偶然があるだろうか。さっき保護したあの子に違いない。


 彼は身を乗りだすと、すがるような目で私を見つめてきた。


「頼む! いっしょに探してくれない? 君しかいないんだ。連絡しようと思ったらつながらないし、家を訪ねるのはどうかと思ったけど、もうこれしかなくて」


 あの子猫を彼に渡せば良いのは明らかだった。だけど、そのまますんなり渡すのはなんか気に入らない。私の小さなプライドが、ズキズキうずいていた。


「分かった、分かったから……。実は心当たりがあるんだけど、その前にひとつ聞いていい?」


「いいよ。なんでも」


 彼は座り直し、私をまっすぐ見る。

 

「私以外に、彼女っているの?」


「はぁ?」


 彼の口からこんな頓狂とんきょうな声を聞くのは初めてだ。ありえないといった顔。


「なんで? いるわけないじゃん」


「ほんとにいないの?」


 確証かくしょうが欲しくて念押しする。そうでないと、さっきまでの私の怒りのやり場がない。勘違いであってほしいけど、勘違いであってほしくない。


 私の空回からまわりなんて、恥ずかしくて認めたくない。


「いないよ」


「じゃあ、これはなに?」


 私はさっき撮っておいたスクリーンショットを見せた。彼のSNSの投稿だ。


「えっ……」


 彼は驚きと困惑の表情を見せる。


 私が知らないはずのアカウントなのだから、当然だ。


「どうして俺のアカウントを……」


「見つけたのよ。『君を見ていると悩みもどうでもよくなるよ』なんて書いちゃって」


 彼に悩みがあるなんて思えない。あるとしたら、私との折り合いをどうつけるかとかだろう。


 すると、彼は急に真面目な顔になって言った。



 

「悩みってのは、君とのこれからの話さ」


「え?」


 彼のいつになく真剣しんけんな表情に、こちらも冷静になっていく。

 

「君と付き合い始めて、今何年目か分かる?」


「そりゃ、分かるわよ。三年目」


「そう。僕らが出会ってから、それだけの時間が過ぎたんだ」

 

 彼は窓の外に目線をやる。そのふたつのひとみには、オレンジの光が映っている。

 



 いつの間にか、雨は止んでいた。

 

「そろそろ、前に進む時だと思うんだ」

 

 丁寧に言葉を選んでいるのが分かる。


「いつ言い出そうか悩んでいた。君がそれをどう思うかが怖かったんだ」

 

「……」


 私はただ黙って彼の話を聞くしかない。さっきまで浮気をしていると勘違いしていたことを、恥じ始めていた。とにかく今は彼の言葉をまっすぐ受け止める。


「だけど、あの子を見ていて思ったんだ。あの子のひとみは、まっすぐ僕を見つめてくれた。自分の思いを真っ直ぐ伝えることが、一番大事なんじゃないかって」

 

 彼は私の手を取りそっと自分の手を重ねた。



 

「僕と、いっしょになってくれ」



 

 この言葉を私は待っていた。だけど予想はしていなかった。

 

 今日、この場で聞くことになるとは、思っていなかった。

 

 だけど、彼は決めた。今、ここで告白すると。

 

 今までの三年間を振り返る。嬉しいこともあれば、悲しいこともあった。そんな時、わたしのそばにいてくれたのは――

 

 彼だ。


 覚悟かくごとかどうでもいい。ちゃんと、伝えなきゃ。

 

 私が思いを形にしようとした、その時。

 

「ニャアァー」

 

「えっ? この声」


 彼が奥の部屋を見る。そのまま立ち上がり、スタスタと歩いていってしまう。


「ちょっと……」


 言おうと思った言葉は、あと少しのところで引っかかった。とりあえず、子猫のことを話すしかない。


「良かったぁー! 無事だったんだ!」


 彼は子猫を抱きかかえ、ほおずりしている。子猫は少しうるさそうに鳴いているが、安心しているのか、抵抗せずに抱かれている。


「ベランダにいたの」


 ぼそっとつぶやいた私の声に、彼が振り返る。


「雨の中、隅っこにうずくまってた。弱ってたから、助けなきゃと思って……」


 彼は私をまっすぐ見ると、どことなく部屋を見回した。台所の方向で、止まる。

 

 子猫にあげた、ミルクの皿。


「……飲ませてくれたんだね。ありがとう」


 私に向かって微笑ほほえんだその顔は、今まで見てきた彼の顔の中で、一番優しい顔だった。私はもう、素直な気持ちになっていた。

 

 深々と頭を下げる。


「どうしたんだい? 急に……」


 頭の上の方から彼のとまどう声が聞こえる。純粋な声が、私の心に染みわたっていく。


「ごめんなさい。私、勘違いしてた」

 

 彼はそう。優しいだけじゃなくて、純粋なのだ。私がかれたのは、そういうところなのだ。


「勝手に浮気したと思って、怒ってた。SNSものぞいて、イライラしてた。あなたの純粋な気持ちを、疑ってた。本当に、ごめんなさい」


 ただ謝るしかない。妄想を膨らませていた自分が恥ずかしい。


「いや、謝るのは僕の方だ」


 彼は私をフォローしてくれる。


「君に要らぬ誤解を招いてしまったのは、申し訳ない。猫可愛さに、君の気持ちに気づいていなかった。猫もほんとは内緒でプレゼントしようと思ってたんだ。君が飼いたいって言ってたから」


 そう言われて、思い出した。デートの帰りに二人でふらっとペットショップに寄った時だ。私がウインドウで寝転がってる猫をかわいいといって、彼が付き合ってくれたんだった。


 飼いたい気持ちはあったけど、踏み出せなかった。言った私は忘れていて、彼はきちんと覚えていてくれた。

 

 そんないいかげんな私なのに、彼はどこまでも私を見ていてくれて。



 

「ごめんね」

 

 優しい声が響いた。


 感情があふれて、しずくがこぼれ落ちる。


 暖かい手が伸びてきて、そっと私を包んだ。

 

 そのまましばらく、二人と猫一匹はいっしょにくるまっていた。



 

「で、さっきの返事は……」


 思い出したかのように、彼が問いかけてくる。


 恥ずかしいけど、言うしかない。



 

「うん。こんな私ですが、よろしくお願いします」



 

 彼はにこっと微笑んだ。きれいな顔だな、と思う。膝の子猫もゴロゴロ喉を鳴らしている。


 おとことおんなと、それからこねこ。


 私の理想的な、家族だ。

 

「この子の名前どうしよっか」


「うーん、ジジとかどう?」


 パッと思い付きでそれが出るか。


「ははっ。例のあの映画じゃん」


「おかしい? けっこう良いと思うんだけどなあ」


 この子を見て同じ映画を思い浮かべるなんて。偶然だろうけど、偶然いっしょなことが、ちょっぴり嬉しい。


「ううん。ちょうど、私も浮かんだのよ。その名前」


「ほんと? すごい偶然だなあ」



 

 偶然かもしれない。神様のいたずらかもしれない。


 だけど、この子が私に教えてくれたことは、必然だろう。



 

 私の彼氏は、彼しかいない。

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