彼氏の浮気と拾った猫
鳥海 摩耶
彼氏の浮気と拾った猫
「――許せない」
私は
彼氏が浮気をしたのだ。
SNSを開く。密かに特定した彼氏のアカウント。スクロールすると、そこには浮気相手への愛情がいっぱいだった。
「今日もかわいいな」
「いつまでも見ていたい寝顔」
「君を見ていると悩みもどうでもよくなるよ」
「もう迷うのはやめる。決めた」
腹立たしい。私の知らないところで、知らない女に会っているのは明らかだった。
彼氏とは付き合って三年目だ。
明るくて優しくて、理想的な彼氏だった。
彼は私のことを第一に考えてくれた。私はそんなところに
どうして。
考えても考えても、答えは出てこない。
悲しみはやがて、憎しみへと変わった。彼氏のメッセージは拒否設定にした。
電話も着信拒否。いきなり連絡を絶たれて、彼はさぞ驚くだろう。だけどそれ
彼はどんな女に会っているのだろう。私よりかわいい子だろうか。
私よりかわいいなら、私の彼氏を連れて行かないでよ。もっとかっこいい彼氏と付き合いなさいよ。
私から彼を、奪わないで。
突然、
続けて、
外に洗濯物を干していたのを思い出した。
浮気者のことで頭がいっぱいで、そんなことも忘れていたのだ。もういろいろと、どうでもよくなった。
私は大きくため息をつき、だらだらと洗濯物を取り込む。と、
「なにあれ?」
ベランダの
よく見ると、手前の
怖いな。
私は洗濯物を一旦床に置き、おそるおそる物体に近づいた。
すると、
「ニャァ……」
子猫だった。
ビー玉のようだ。からだはびしょびしょだが、
浮気のことなどどうでもよくなって、私はすぐさま干していたタオルで猫を包んだ。
暴れるかと思ったが、子猫は大人しくタオルに包まれた。弱っているのかもしれない。
助けなきゃ。
洗面台からドライヤーを持ってきて、優しく
日頃からケアをしっかりとしてもらっているのだろう。栄養状態も良さそうだ。
乾かしてあげると、子猫は少し元気になったのか、ニャーニャーと鳴きだした。毛並みの分か、さっきよりちょっと大きくなったように見える。
お腹が空いているのかな。何をあげたらいいのだろう。
子猫のふさふさした黒い毛を眺めていると、子供の頃好きだったアニメ映画のことを思い出した。
主人公が魔女見習いで、赤いリボンがトレードマークのあれだ。主人公はオスの黒猫と一緒に旅をしていた。その猫はミルクを飲んでいたっけ。
冷蔵庫の扉を開けると、ちょうど
底が浅いお皿にミルクを注ぎ、軽く温めて子猫に飲ませる。
やはりお腹が空いていたのか、子猫は嬉しそうにミルクを飲んだ。夢中で飲んでいる姿を見ていると、こちらも
飲み終わると子猫は満足したのか、
そうして一息つけたので、私の関心は黒猫の生い立ちへと移っていた。
この子はどこから来たのだろう。どんな人に育てられているのだろう。どんな思いで、私を見ているのだろう。
ふわふわした思考をめぐらせていると、いつの間にか、彼氏のことを考えていた。
彼は、私をどんな思いで見ていたのだろう。私はどんな思いで、彼を見ていただろう。
優しい人。丁寧な人。それから――
その時、玄関のチャイムが鳴った。
こんな雨の中、誰だろう。
私は子猫の様子を見ながら、インターホンを確認した。
そこには、例の彼氏が立っていた。
水をバシャッとかけられたように、私は現実を思い出す。
彼は浮気をした男だ。私を捨てて、新しい彼女に……。
もう一度、インターホンが鳴る。
彼はずぶ濡れだった。いつも整っていた髪の毛はぐしゃぐしゃになり、頭に張り付いている。傘を持っていなかったのだろうか。さっき保護した子猫の痛々しい姿が、彼の姿と
「……はい」
私はなるべく感情を抑えて、返事をした。
「僕だよ! 良かった! 連絡がつかないから心配したんだよ」
私の欲しかった言葉は、聞こえてこない。私はため息をつき、彼を中に入れることにする。ずぶ濡れの男を追い返す程、今の私は冷たくなれない。
子猫の様子を
「……なんか怒ってる?」
濡れた髪を乾かした彼は、不安そうな目を私に向けてくる。
「自分のしたことについて、考えてみたら?」
私はなるべく
リビングに置かれたローテーブルを挟んで座る私と彼。私の声は平らなテーブルに反射して、彼の
「……ごめんなさい」
彼はしゅんとして、私に謝った。
「正直、申し訳ないと思ってる。君に隠し事をしていたことだ」
彼は目を伏せ、声のトーンを下げて話す。
「
ほらきた。やっぱり、彼は浮気をしていたんだ。
「猫を飼い始めたんだ」
「はぁ?」
「ね、猫?」
「うん。黒い子猫。先月飼い始めたんだ。あまりの可愛さに
「黒い子猫?」
「うん。昨日の夕方、洗濯物を取り込もうとして目を離した
まさかこんな偶然があるだろうか。さっき保護したあの子に違いない。
彼は身を乗りだすと、
「頼む! いっしょに探してくれない? 君しかいないんだ。連絡しようと思ったらつながらないし、家を訪ねるのはどうかと思ったけど、もうこれしかなくて」
あの子猫を彼に渡せば良いのは明らかだった。だけど、そのまますんなり渡すのはなんか気に入らない。私の小さなプライドが、ズキズキ
「分かった、分かったから……。実は心当たりがあるんだけど、その前にひとつ聞いていい?」
「いいよ。なんでも」
彼は座り直し、私をまっすぐ見る。
「私以外に、彼女っているの?」
「はぁ?」
彼の口からこんな
「なんで? いるわけないじゃん」
「ほんとにいないの?」
私の
「いないよ」
「じゃあ、これはなに?」
私はさっき撮っておいたスクリーンショットを見せた。彼のSNSの投稿だ。
「えっ……」
彼は驚きと困惑の表情を見せる。
私が知らないはずのアカウントなのだから、当然だ。
「どうして俺のアカウントを……」
「見つけたのよ。『君を見ていると悩みもどうでもよくなるよ』なんて書いちゃって」
彼に悩みがあるなんて思えない。あるとしたら、私との折り合いをどうつけるかとかだろう。
すると、彼は急に真面目な顔になって言った。
「悩みってのは、君とのこれからの話さ」
「え?」
彼のいつになく
「君と付き合い始めて、今何年目か分かる?」
「そりゃ、分かるわよ。三年目」
「そう。僕らが出会ってから、それだけの時間が過ぎたんだ」
彼は窓の外に目線をやる。そのふたつの
いつの間にか、雨は止んでいた。
「そろそろ、前に進む時だと思うんだ」
丁寧に言葉を選んでいるのが分かる。
「いつ言い出そうか悩んでいた。君がそれをどう思うかが怖かったんだ」
「……」
私はただ黙って彼の話を聞くしかない。さっきまで浮気をしていると勘違いしていたことを、恥じ始めていた。とにかく今は彼の言葉をまっすぐ受け止める。
「だけど、あの子を見ていて思ったんだ。あの子の
彼は私の手を取りそっと自分の手を重ねた。
「僕と、いっしょになってくれ」
この言葉を私は待っていた。だけど予想はしていなかった。
今日、この場で聞くことになるとは、思っていなかった。
だけど、彼は決めた。今、ここで告白すると。
今までの三年間を振り返る。嬉しいこともあれば、悲しいこともあった。そんな時、わたしのそばにいてくれたのは――
彼だ。
私が思いを形にしようとした、その時。
「ニャアァー」
「えっ? この声」
彼が奥の部屋を見る。そのまま立ち上がり、スタスタと歩いていってしまう。
「ちょっと……」
言おうと思った言葉は、あと少しのところで引っかかった。とりあえず、子猫のことを話すしかない。
「良かったぁー! 無事だったんだ!」
彼は子猫を抱きかかえ、
「ベランダにいたの」
ぼそっとつぶやいた私の声に、彼が振り返る。
「雨の中、隅っこにうずくまってた。弱ってたから、助けなきゃと思って……」
彼は私をまっすぐ見ると、どことなく部屋を見回した。台所の方向で、止まる。
子猫にあげた、ミルクの皿。
「……飲ませてくれたんだね。ありがとう」
私に向かって
深々と頭を下げる。
「どうしたんだい? 急に……」
頭の上の方から彼のとまどう声が聞こえる。純粋な声が、私の心に染みわたっていく。
「ごめんなさい。私、勘違いしてた」
彼はそう。優しいだけじゃなくて、純粋なのだ。私が
「勝手に浮気したと思って、怒ってた。SNSも
ただ謝るしかない。妄想を膨らませていた自分が恥ずかしい。
「いや、謝るのは僕の方だ」
彼は私をフォローしてくれる。
「君に要らぬ誤解を招いてしまったのは、申し訳ない。猫可愛さに、君の気持ちに気づいていなかった。猫もほんとは内緒でプレゼントしようと思ってたんだ。君が飼いたいって言ってたから」
そう言われて、思い出した。デートの帰りに二人でふらっとペットショップに寄った時だ。私がウインドウで寝転がってる猫をかわいいといって、彼が付き合ってくれたんだった。
飼いたい気持ちはあったけど、踏み出せなかった。言った私は忘れていて、彼はきちんと覚えていてくれた。
そんないいかげんな私なのに、彼はどこまでも私を見ていてくれて。
「ごめんね」
優しい声が響いた。
感情があふれて、
暖かい手が伸びてきて、そっと私を包んだ。
そのまましばらく、二人と猫一匹はいっしょにくるまっていた。
「で、さっきの返事は……」
思い出したかのように、彼が問いかけてくる。
恥ずかしいけど、言うしかない。
「うん。こんな私ですが、よろしくお願いします」
彼はにこっと微笑んだ。きれいな顔だな、と思う。膝の子猫もゴロゴロ喉を鳴らしている。
おとことおんなと、それからこねこ。
私の理想的な、家族だ。
「この子の名前どうしよっか」
「うーん、ジジとかどう?」
パッと思い付きでそれが出るか。
「ははっ。例のあの映画じゃん」
「おかしい? けっこう良いと思うんだけどなあ」
この子を見て同じ映画を思い浮かべるなんて。偶然だろうけど、偶然いっしょなことが、ちょっぴり嬉しい。
「ううん。ちょうど、私も浮かんだのよ。その名前」
「ほんと? すごい偶然だなあ」
偶然かもしれない。神様のいたずらかもしれない。
だけど、この子が私に教えてくれたことは、必然だろう。
私の彼氏は、彼しかいない。
彼氏の浮気と拾った猫 鳥海 摩耶 @tyoukaimaya
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