男は誰も傷つけることなく、街の外に出られるのか?

雨梨

壁に囲まれた、平和な街

【この街】


男は、生まれてからこのかた、街から出たことがない。

彼が生まれた街は、四方をぐるりと高い壁に囲まれていて、そのてっぺんは目視できないほど高いところにある。

日の光を遮らないための工夫か、壁は上にいくほど透明になっていて、普段は全く気にならない。

ただ、たまに透明な壁に気づかず激突した鳥の死骸などが壁の内側に落ちてくるので、街はずれでそういったものを目にした時だけ、男は高い高い壁の存在を思い出す。気づくと鳥の死骸は跡形もなく片付けられているので、それもそう長い時間ではないのだけれど。


男は、この街で生まれ、この街の学校で学び、この街で仕事に就いて、暮らしてきた。街での暮らしは快適だ。住民は皆、穏やかで、争いというものとは無縁だった。男は生まれてからこのかた街の外に出たことはないが、出たいとも思わないほど、壁の中の街は満ち足りていた。


【祖父の手紙】


今、男は病室にいる。祖父と同じ病だった。この街に一つだけある病院は、ほとんど痛みを誤魔化すためだけに存在している。何ヶ月も病室に横たわって、とうとう亡くなった祖父と同じように、自分も痛みを誤魔化しながら緩やかに死を迎えるのだろうと男は考えていた。しかし、病室の窓から病院の中庭を見下ろしたとき、ふと幼いころの記憶がよみがえった。


その日も、祖父は病室のベッドに横になっていた。

一緒に来た両親が見舞いの花を生けてくると病室を出ていって、幼い男と祖父の二人きりになると、祖父はベッドの縁に男を座らせて、窓の外を指さした。その先には、芝生の敷き詰められた中庭がある。入院患者の散歩コースであるそこは、とても日当たりが良く、休憩のためのベンチと、日除けにちょうどいい庭木があった。

「私はこのまま死ぬだろう。それでいい。でも、もしお前が将来、私と同じ病になって、穏やかな死から逃げ出して、どうしても生き延びたいと思ったら、あの木の根元を掘ってみなさい。」

両親が戻ってくる足音が聞こえると、祖父は男をベッドから下ろして、両親が出ていく前とまったく同じ素振りをした。


だから男は幼いなりに、祖父が言ったことは何かとても大事で、そして秘密にしなくてはいけないことなのだとなんとなく感じとって、このことを親にも友人にも恋人にも言わないできた。うっかり口を滑らせてしまわないよう、身体の奥の奥の方に隠してきたものだから、今の今まで、祖父とのそんなやりとりも、かけられた言葉も、いつの間にか忘れていたのだった。


しかし、祖父と同じく病室からあの中庭の木を見下ろしたとき、仕舞い込んでいた記憶が浮かび上がり、祖父の言葉が頭から離れなくなった。どうしようもなくあの木の根元を掘り返したい衝動に駆られて、それから日が暮れるまでの間、男はその衝動を必死に押さえこまなくてはならなくなった。やっと日が落ち、消灯時間を過ぎてあたりが真っ暗になると、男はそっと病室を抜け出した。


中庭の木の下まで行った男は、さてどこを掘ったものか視線を彷徨わせたが、試しに根っこの浮き出たあたりを掘ってみることにした。病室にスコップなどというものはないから、あるのは水を飲むためのプラスチックのコップだけだ。手で掘るよりはマシだと自分に言い聞かせて、コップの縁で土をほじくり返す。ここでいいのか、どれくらい掘ればいいのか、早くしなければ誰かに見つかってしまうと気が急いてくる。木の向こう側にある病院の廊下で見回りの懐中電灯が光った気がして、男は咄嗟に身を伏せた。背中に吹き出した冷や汗が頭までも冷やして、もう諦めて病室に戻ろうかと考えたとき、惰性で地面に突き刺したコップが固いものに行き当たった。

音を立てないよう用心して手を使って土を避けてみると、それは缶箱だった。男の家では馴染みのある、焼き菓子の箱だ。きっと祖父が指さしたのはこれだと確信を持って箱を地面から掘り起こし、朝が来てもそのことがわからないよう地面を整えた。

土を払った缶箱を病室に持ち帰り戸棚の中に隠すと、男は、どっと襲ってきた疲労に倒れるようにベッドで眠った。


翌日、朝の食事や検査を終えると、男は戸棚を開いた。もしかしたら、あの木の根元に行ったのは夢の中での出来事だったのかもしれないと思う気持ちがあったが、缶箱は記憶のとおり戸棚の中にあった。

男はそれをそぉっと取り出すと、土がこびりついて固まっている上蓋の縁に爪を立てて、少しずつ押し上げた。箱をくるくると回して、四隅を順繰りに押し上げていくと、ぱぉん、と歪んだ音を立てて、上蓋が外れた。

缶箱の中身は、ビニール袋に入った手紙が一通だけだった。袋から取り出してひっくり返してみるも、手紙には宛名も差出人も書かれていない。封もされていない、少し黄ばんだ白い封筒の口を開けると、中には同じ色の、飾り気のない便箋が数枚入っていた。開いてみると、それは祖父が書いたものに違いなかった。便箋の書き出しにも、やはり宛名はなかったが、はらいが罫線を越えるほど長く伸びる文字は、間違いなく祖父の筆跡だった。


男は手紙を読んだ。読み進めるごとに、男は、自分がこれまでの数十年のうちに築き上げた常識というものが崩れていくのを感じた。途中、何度も首を振り、天を仰いだりもしたが、結局最後まで読み終えた。男は、読み終えた手紙を封筒に戻すと、ベッドの脇にある戸棚を開いた。そこには、男が入院する時に身に着けていた服や鞄の類がぶら下がっている。男は鞄に手紙を大事にしまうと、看護師の巡回に備えるためベッドに潜りこみ、目を閉じた。


【病院からの脱出】


再び夜が訪れた。男はベッドの上に起き上がると、外出用の服に着替え、手紙を仕舞い込んだ鞄を肩から提げた。そして男は、これから死ぬまでの時間を過ごすはずだった病室を抜け出した。


男の第一のミッションは、病院から抜け出すことだ。

暗い病院の廊下を、音を立てないよう細心の注意を払って進む。音を立てれば、見回りの警備員か看護師がすぐに駆け付ける。この街の住民は、ほとんどが顔見知りだ。見つかれば、男が病室を抜け出してここにいることはすぐに露見し、病室に連れ戻されてしまうことだろう。

男は人生で初めて感じる類の緊張に息を詰まらせながら、祖父の手紙が入っている鞄の紐を握り締める。自分がこれからしようとしていることが、街全体を揺るがすことになるかもしれないという不安と恐怖に苛まれながらも、男は祖父の手紙がもたらした一つの希望を胸に進んでいた。すなわち、「街の外に出れば、男は生き永らえる」という希望だ。


男は病室の並ぶ高層階から、出口のある1階を目指して非常階段を降りながら、手紙の内容を反芻する。

祖父の手紙には、男が知らない単語が記されていた。「手術」という言葉だ。祖父は、男と違い、この街で生まれたのではない。祖父は外の世界で生まれ、この街を作り上げた一人だった。祖父の手紙には、この街の成り立ちと、祖父が生まれ育った外の世界の真実が記されていた。


男は、そしてこの街の住民の多くが、外の世界は街よりも劣っていると信じてきた。しかし祖父によれば、この街は外の世界の文化や技術の一部を、著しく制限することで成立しているのだという。

その制限された技術の一つが、医療技術。外の世界の病院では、「手術」という医療行為があり、この街では治療できず痛みを誤魔化して死を待つしかない病気でも、それをすれば命が助かるものが多くあるのだという。祖父は、自分の病がその一つだと知っていた。そして、男の病は、祖父と同じものだ。あの時、祖父は外の世界に行けば自分の病が治ると知っていて、街に留まることを選んでいたのだ。そして、遺伝上、自分と同じ病にかかる可能性があり、祖父とは違って外の世界を知らない男に、手紙を遺すことで選択肢を残した。


もうすぐ1階に着くというところで、下から上がってくる足音と懐中電灯の光が見えた。非常階段に身を隠せる場所はなく、外に飛び出せるほどの窓もない。男は全身から冷や汗を流しながら、懐中電灯の光が向けられるのを待つしかなかった。

光が男の足元を照らし、懐中電灯を持つ人影が見えた瞬間に、男は走り出した。相手から悲鳴が上がる。すれ違い様に肩がぶつかって、バランスを崩した相手が階段の手すりに激突した。男は自分の肩と背中に痛みが走るのを感じながら、病院の出口を目指して走り続けた。背後では人の騒ぐ声がする。男が病院を抜け出したことが知られてしまった。それでももう、止まることはできなかった。


【住民登録所への侵入】


病院の敷地を出た男は、街中の建物と建物の間に隙間を見つけて、体を滑りこませた。先ほど見回りの看護師を突き飛ばした時に受けた痛みが、まだ背中をズキズキと痛ませていた。きっと相手にも、痣が残っていることだろう。


この街で医療技術が制限され、「手術」が行われない理由は、これだった。

この街では、人と人の争いは少なく、傷つけ合うことなど滅多にない。なぜなら、相手を傷つけた瞬間、自分も同じかそれ以上の痛みを負うからだった。万が一、人を殺めれば、自分の命も失われる。この街では、人の痛みは、自分の痛みなのだ。だから皆、互いに相手を傷つけない。


男は、「人間とはそういう生き物だ」と信じてきたが、そうではなかった。この街の人間は皆、生まれた瞬間に、体にICチップを入れられていたのだ。装着者の行動を常に分析し、問題と思われる行動をとったら相応の罰を与えるようプログラミングされた機械に、街の住民は知らず知らずのうちに制御されていた。衝撃的な内容ではあったが、男は受け入れた。思い返せば、毎年数人はいる外の世界からの移住者は、皆、口を揃えて言っていた。

「外の世界では、人々は争ってばかりいる。毎日どこかで、人が人を殺している。外の世界は地獄。そして、この街こそ天国、理想郷だ。」

人間がそういう生き物であるならば、どうして街の中と外とで、そんなにも違いが出るだろうか。


男は、ICチップを入れること自体が悪いことなのかは、正直よくわからなかった。それで争いがなくなるなら、それでいいのかもしれない。男の祖父をはじめとする、この街の創始者たちも、「人と人とが争わず、傷つけ合わない世界」を目指し、それを実現するためにICチップという手段を取ったのだ。男が納得できないのは、そのために、医療技術を排除したことだった。


祖父らが開発したシステムは、医療行為と暴力行為を区別することができなかった。病気を治すために専用の道具を使って腹を切る行為と、人を傷つけたり殺すために刃物を使って腹を切る行為の差は何か?行為のみから、それを定義することができなかった祖父たちは、この街から医療技術を排除した。それがシステム稼働の妨げになるならばと、この街の医療技術を、自然治癒を基本にしたそれにしたのだ。


だが、男は思う。人を生き永らえさせるための行動と、人を傷つけるための行動が同じわけがないと。システムを改良する方法はきっとある。しかしそれが実現できないならば、病気を治すために外の世界に行く自由を認めるべきだ。男は、自分こそは「手術」を受けるために街から外の世界に行く一人目となり、病気を治した後は街に戻ってきて他の住民にもその体験を広める者になろうと決めた。祖父が自分に手紙を残したのも、きっとそれを望んでのことなのだと、男は使命感で己を奮い立たせた。


男が次に目指す先は、住民登録所だ。

街の住民が出生や死亡の届け出をする場所であり、外の世界からの移住者が最初に案内される場所でもある。祖父の手紙によれば、街の住民はここでICチップを埋め込まれる。

ICチップには、住民が街から出ないよう制御する機能もあるらしい。男が街の外に出るには、まず自分の体の中のICチップを除去する必要があった。


男は身を潜ませた建物の隙間から、通りの様子を窺う。病院から脱走したことが役場にも伝えられたのだろう。先ほどまでは無人だった通りに、男を探しているのだろう人影が複数見えた。壁にほど近い街のはずれにある病院から、街の中央付近にある住民登録所までは少し距離がある。今度は街の中を、住民に見つからないよう移動して、住民登録所に辿りつかなければならない。背中はまだズキズキと痛む。先ほどのように相手を振り切って逃げても、そのうちに痛みで動けなくなってしまうだろう。まだ深夜だが、腹も空いてきた。できることなら、湿布や食料も途中で調達したいと頭の中で考えながら、男は慎重に物陰から抜け出した。


住民登録所には、真夜中であっても灯りがついていた。出生や死亡の連絡に、いち早く対応するためだろう。男は人目を避けるため、裏口から住民登録所に侵入した。

男が目指すのは、住民登録所内にあるはずのICチップの管理施設だ。赤ん坊にICチップを埋め込み、死亡者から密かにICチップを除去するための装置が、この建物の中にある筈だった。


男は住民登録所の中を、職員に見つからないよう注意しながら探し回り、とうとうICチップの除去装置がある部屋を突き止めた。しかし、その部屋に入るには職員のIDが必要だった。自分では装置を動かすことも難しいと判断した男は、施設内にいた職員の中から最も年嵩の者に狙いを定め、部屋を開けて除去装置を動かすよう迫った。


男の病や祖父の手紙の内容を知った職員は、己が外の世界からの移住者であることを明かし、外の世界の医療技術があれば助かる命が失われていく現状を変えたいという男の願いに理解を示した。そして、ICチップを装着したまま壁を抜けようとするとICチップが爆発して命を落とすことになることを男に教え、街の役人が外の世界から移住者を連れてくるときと同じように、男のICチップの機能を一時的に停止させようと提案した。


しかし、外の世界で「手術」を受けて街に帰ってくるまでにどれだけの年月がかかるかわからないと考えた男は、職員を説得し、ICチップの機能を完全に停止させることを選んだ。

住民登録所での目的を達成した男は、遂に街の外に出るため、壁を越える唯一の手段である飛行船がある街の中心部、街役場を次の目的地に定めた。男と別れる際、職員は言った。「この街の精神を忘れることのないように」と。


【街役場での対峙】


住民登録所を出た男は、この街の中心である街役場に向かった。街役場は、街の中心に建つ高層ビルで、街の行政機関だけでなく、子どもの遊び場や図書館、ホール、病院の出張所なども備わっている。この街で一番高い建物であり、その頂上には、この街で唯一の飛行船が停泊している。この飛行船が、街と外の世界とを行き来する唯一の手段であり、その鍵は街の首長が握っている。祖父の手紙を読む前から、男はそのことを知っていた。


住民登録所から町役場に向かう途中には、大きな道路がある。町役場の周囲をぐるりと囲む、街で一番見通しのいい広い道路だ。ここを誰にも見つかることなく突破することは至難の業だ。男は痛みを負うことを覚悟の上で、大通りに飛び出した。案の定、通りの右からも左からも、男に気付いた役人が駆け寄ってくる。男はそれらを力任せに突き飛ばして、自分の身に起きた劇的な変化に気が付いた。


男は試しに、自分の左腕を掴んできた役人を、右の拳で殴りつけてみた。役人は慣れない暴力に驚いて男の腕から手を離し、殴られた頬を押さえて後ずさった。いつもなら、相手の頬を殴りつけた右手だけでなく、自分の頬にも激痛が走るところだ。しかし今、男にはそれがなかった。頬は少しも痛くない。男がもう一度拳を振り上げると、殴られると思った役人は、恐怖で腕を振り回し、その手が男の腕を叩いた。すると、役人は自分の手だけでなく、腕にも痛みが走った様子を見せた。


男は理解した。ICチップの機能を停止したことで、今、自分はこの街で唯一、人を傷つけても痛みを感じない存在になったことを。男は、背筋がゾクゾクと震えるのを感じた。これまで知らず抑えつけられていたものが覆いを取られたとばかりに湧き上がり、両の手が拳を握り力を込めようとするのを止められない。例えば、いま男が拳を振るい、目の前の役人を殺したとしても、男が死ぬことはないのだ。反対に、役人が身を守るために男を殺すならば、この役人は死んでしまう。男は降って湧いた全能感に酔いしれた。


しかし、男がそれ以上拳を振り下ろすことはなかった。恐怖で腰を抜かした役人が、「何が目的なんだ!」と叫んだからだった。その叫びは、問い掛けとして男に届き、男は通りの向こう側に聳え建つ街役場、その頂点に浮かぶ飛行船を見つめた。自分は、病気を治すために外の世界に行く。そしていつか、この街の皆が、もっと長く生きられるようにする。別れ際に住民登録所の職員が言った言葉が思い出された。男は、街役場に向かって再び走り出した。ICチップがなくても、男は「そういう人間」であることを選んだ。


街役場に辿り着き、階を上がるごとに、窓の外が明るくなっていく。男が病院を出たときは夜中だったが、もうすぐ夜が明けようとしているのだった。

男はもうほとんど身の危険を感じなくなっていたが、それでも、できるだけ役人に見つからないよう隠れて進んだ。出会ってしまえば、突破するために幾らかの小競り合いは避けられない。それを繰り返せば、男はやがて自分が全能感の虜となり、目的を忘れて、死ぬまでの時間をこの街を自分の好きにすることに費やすだろうと予感していた。


最上階にあるのは首長の部屋だ。飛行船に乗り込むにはこの部屋を通らなければならず、飛行船を動かすには首長から鍵を受け取る必要がある。

男が首長の部屋の扉を開けると、部屋の中央に据えられた執務机に部屋の主の姿があった。男とよく似た目元の年嵩の女性、それがこの街の首長であり、祖父の実の娘であり、男の母親だった。男は部屋の中央まで歩みを進めると、執務机の上に祖父の手紙を置いた。


首長は何も聞かずに、封もされていない、少し黄ばんだ白い封筒の口を開けて、手紙に目を通した。字を見て、それが誰が書いたものか理解しているだろうに、男と違って、文字を追う目に動揺は一切見当たらない。だからこそ、祖父は娘である首長にではなく、孫である男にこの手紙を託したのだろう、と男は思った。


「鍵を渡すことはできない。」

首長の言葉は淡々としていた。

「外の世界へ行き、病気を治したら必ず戻ってくる。鍵を渡してくれ。」

外の世界に行っても病気が治る保証はないと首長は言い、少しでも希望があるなら諦めたくない、見込みがなければすぐに街に帰ってくると男は答える。この街のことは、外の世界には秘匿されている。外の世界の人間がこの街のことを知れば、住民を危険に晒すことになる。自分が生き永らえるために他の住民を危険に晒すのかと首長が責めると、自分が病を治して戻れば、外の世界での治療の道が開かれ、多くの住民が救われると男は反論した。


とうとう首長は鍵を手に取り、どうしても外の世界に行きたいならば自分を殺して鍵を奪えと男に言い放った。外の世界の真実を知れば、他の住民も男と同じ行動をするかもしれない。そうしてICチップの制御を外れる住民が増えれば、この街の秩序は崩壊し、外の世界と同じように人と人が争い傷つけあう世界になってしまうと首長は訴えた。首長の言葉に、男は役人を殴りつけた時の全能感を束の間思い出して身を震わせたが、男は既にその答えを出していた。

「この街で学んできた精神の全てが、機械仕掛けだとは思わない。」

拳を振るうこともなく、ただ信じてほしいと願う男に、首長は力なく手を下ろした。

「行かせるべきではないと思う。」

男が鍵を持って屋上に続く階段を登ろうとしたときも、首長は繰り返し言った。しかし、行って、戻って来てほしいと願う気持ちもまた、彼女にとっての真実だった。


【男の行く先】


男は飛行船に乗り込み、壁を越えて、外の世界へと飛び立った。

夜中の出来事を知らない街の住民たちは、次に街にやって来る移住者はどんな人だろうかと、飛び立つ飛行船の行く先を見つめていた。


《終》

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