第90話 十二月二十九日はシャンソンの日
一九九〇(平成二)年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。
買い物デート中に信号待ちしていると、隣の彼女がまた「サントワマミー」を口ずさみだした。機嫌が良い時の、彼女の癖だ。
彼女の歌がサビのパートになると、俺も一緒に歌う。彼女は原曲のフランス語だが、俺はカヴァーバージョンの日本語だ。
「あっ、歌ってた?」
俺が一緒に歌い出して、彼女は初めて自分が歌っていたことに気付く。
「何か良いこと有った?」
「有ったわよ。あなたとデートしてるの」
そう言って彼女は笑う。
彼女は日本人の父親とフランス人の母を持つハーフだ。「サントワマミー」は彼女が大好きだった母方の祖母がよく歌っていたそうだ。彼女はフランス語を流暢に話せる訳ではないのだが、この歌だけは原曲で上手に歌う。
「お婆ちゃんの好きな歌だったよね」
「うん、何年も会えてないから寂しいわ」
彼女は前を向き、信号を確認する。
「じゃあさ、一緒に会いに行こうか。新婚旅行で」
「えっ?」
彼女は俺の言葉に驚いてこっちを向く。
信号が青に変わったけど、俺達二人だけは立ち止まったまま。
「本気なの?」
彼女は疑いの眼差しを向けて来る。ちょっと不安になった。
「本気だよ。プロポーズのつもりだよ」
「もうこんな場所で」
彼女は怒ったように前を向いて歩き出した。
やっぱりマズかったかな。ずっと考えてはいたんで、いい加減な気持ちじゃ無いんだけど。
「あの、タイミングは悪かったけど、俺は本気だよ。ずっと前からプロポーズしようと思ってたんだ」
彼女は返事をせず、前を向いたまま「サントワマミー」を歌い出した。いつもより少し大きな声で。
そして、横断歩道を渡り切ったところで、笑顔を見せてくれた。
「ごめんね。驚き過ぎてどんな顔したら良いか分からなかったの。凄く嬉しいよ」
「良かったー。心臓が止まりそうだったよ」
俺はホッとし過ぎて、全身の力が抜けてしまった。
「ホントごめんね。買い物終わったら、結婚の話がしたいな」
「ああ、もちろん」
俺達は手を繋ぎ、目的の店に向かった。
寒い日なのに、繋いだ手から幸せが伝わって来て暖かかった。
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